第26話 “異界の森”の探索(前編)

 城を出てから一刻(約2時間)ほど。

 小兵である楠を先頭に城外偵察を命じられた第一班は森の奥へと順調に進んでいた。

 今のところ、さしたる障害はない。途中、拳ほどの大きさを誇る異様に大きい蜂を見かけたが襲ってくることもなく、あるいは、まるで遊女のごとくツタを肌に這わせてくる妖しき植物の誘いも白刃の一閃で難なく退けた。

 奇妙な拍子でさえずる小鳥や聞き覚えのない獣の鳴き声、不可解であっても紛れもない生き物たちの躍動する音で森は溢れている――それがいかなる脅威を孕んでいるのかだけは分からなかったが。

 思うのは、確かにここが自分達の知る森ではなく、“異界”というに相応しい得体の知れぬ地であるということと、それでもこうして実戦を踏むほどに、いかなる苦難も切り抜けられるという自負の高まりだ。

 己の剣が十分に通じる――この一点を確認できただけでも、この探索を行った甲斐があろうと班員達はそれぞれに満足していた。


「――なあ、気のせいではなかろうな?」


 ふと、二番手につけていた葛城剛馬が声を上げれば、話し相手であったらしい谷河原月齊が「先ほどから付けてきている」とその閉じられた両眼ではっきりと目視したかのように断言する。

 “気づけぬものに気づく”――班における“防衛の要”と隊長が推挙した月齊の真骨頂だ。

 無論、先発を任された第一班の面々であれば、ある程度の気配を読むことくらいは造作もなく、前方に集中せねばならぬ先頭を除く他の二人が何かを感知したのか右手に視線を向けていた。


「右だな」

「いや左も・・だ」


 明確にすべく告げただけの剛馬に月齊が当然のようにもうひとつの存在を補足する。さすがに剛馬を除く三人が驚きで一瞬肩を震わせ、剛馬だけ小さく舌打ちしたのは、彼らの気配察知を惑わす森の厄介さ・・・・・に、だ。

 時折、まといつくような気配が湧き上がっては消えるのをこの一刻ほど繰り返していたためであったが、月齊の見解は「まるで亡霊の類い」と眉間に深い皺をつくりながらも口にする言葉に一切の躊躇いはない。

 本気も本気――。

 理を重んじる文官出自の男が“昼間に出る亡霊”を許容する――ここがそういうところ・・・・・・・なのだと班員達が幾分顔を青ざめさせながら気を引き締め直したのは言うまでもなかった。


「小室は右をやれ。儂は左だ」


 剛馬の勝手な指示に班長たる月齊が咎めることはない。隊の方針でなければ、あるいは方針を狂わさなければ異論を挟まぬし、まして戦いともなれば、浮かぶ戦術どころか互いの呼吸さえ共通であり熟知し合っているからだ。

 事実、短い言葉のやりとりの間に何気なく立ち位置を修正し、気づけば菱形の陣形が出来上がっている。

 袖口でじゃらりと鎖擦れの音をかすかに立てたのは月齊。『九節棍』という外つ国派生の非常に扱いにくい武器が彼の得物であった。


 一度、剛馬が興味本位で振り回してみたが、己の頭頂に一撃見舞ったところでオチがついたのは記憶に新しい。

 九つに分割された鉄製の棍棒を鎖で繋ぎ、細工によって、“一本の棍棒”にもバラして“鞭状”にも使うことができる変幻自在ぶりは古今東西にして比類無く、ただ、武器として使いこなすのには途方もない修練が必要となるため遣い手を選ぶ。ましてや盲いた者ともなれば。

 否――「盲いればこそ」そう月齊は朗らかに述べている。

 まるで盲目こそが“天賦”と云わんばかりに。


 時同じくして、刀の鯉口を切る音がかすかに響いた。

 動きを妨げる余計な緊張感はなく、班内に漂う空気は先ほどと変わりない。それでも、いつでも刃を抜ける備えの動作が相手の警戒心あるいは殺意を煽ったのであろうか。


 スザ――――!!


 ふいに藪から抜け出してきた影に、右の小室が抜刀術で迎撃するのを剛馬は常人を越えた視界の隅で認識する。


(馬鹿が――)


 唾棄したのは、一般兵ならば滑らかとしか見えぬ抜刀に剛馬しか分からぬ鈍り・・を感じたためだ。

 相手の脅威を見極めて――いや、そんな悠長な心掛けでは生き残れぬと改めたばかりだ――故に、初めて目にする大型の化け物に小室の身体がわずかに萎縮したのだと看破する。

 だが結果を見定める猶予もなく、剛馬はわずかな危惧を視界から外して己の責務に集中する。

 “狩り”の習性でもあるのか、左の影も、ほぼ同時に襲い掛かってきていたからだが、それでも剛馬にとって、影の全容を把握するには十分な間があった。

 例え影の数がひとつではなく三つ・・であったとしても。


 それを端的に評するなら、体毛をすべてむしり取った奇怪な鶏――。

 

 異様なのは、剛馬の胸元くらいまである体高と開いた嘴の内に見える鋸のごとき歯の並び、そして見るからに堅そうなごわごわ・・・・としか形容できない不気味な体表。

 その上、羽根がない代わりに、身体に似合わぬ赤児のような小さき手が前面に突き出ているのが不快極まりなかった。

 こうなれば、トサカのないつるりとした頭など、むしろ可愛げがあると云えなくもない。


(なんだ、これ・・は――?)


 非常識の塊――剛馬の頭で“鶏”に対する評価ががらりと変わったときに背後で異変が生じた。小室のものであろう呻き声は先の危惧が現実となった最悪の証。

 その瞬間、剛馬の中で乱れる雑念が消し飛び、肉体が勝手に反応していた。


         *****


(いかん――)


 迎え撃った小室の一刀が、凶鶏としか見えぬ化け物の体表で止められたのを目にした瞬間、月齊は左手を振るっていた。


 ――――!


 手元から疾駆した九節棍の短棒が、狙い誤たずに凶鶏の頭部に激突し、横に弾き飛ばされた頭部を追って体ごと大きくよろけさせる。

 だがそれも二、三歩だけのこと。まさか勢いすら殺せていないとは。


「何っ――」


 通常ならば容易く頭蓋を陥没させる一撃を受け、怪我はもちろん脳震盪さえ起こさず走り続ける凶鶏に、さすがの月齊も愕然となって動きを固着する。それが小室の運命を決めてしまったのか。いや、もはや為す術なぞなかったのだ。


「むぐっ……」


 相手が人であったならば、小室がかわせぬはずがない――結果の前では、すべてがつまらぬ言い訳だ。

 まさに人外の脚力を活かし一瞬で飛びついた凶鶏が小室の首筋に噛みつき、勢い余って一人と一体が地に倒れ込む。すぐさま凶鶏が猛烈な動きで首を振り、小室の首筋で血しぶきがあがって瞬く間に血塗れになった。


「小室――っ」


 思わず洩れた月齊の慚愧ざんきに満ちた叫びに応じたのは巨躯の剣撃。

 凶鶏の体長と同じ長さはある尻尾の根元深くから斬り飛ばし、一拍遅れて気づいた凶鶏が小室の体から首をもたげ、空に向かって耳障りな苦鳴を上げる。

 その好機に先の悔恨・・・・を拭うべく月齊が素早く反応した。細工を利かせて九節棍を一本と化し、凄まじい踏み込みで渾身の突きを放つ。


 ドガリッ――


 皮鎧のごとき凶鶏の体表に九節棍の先端がめり込み、推定十五貫(約60㎏)はある体躯が突き飛ばされた。

 みちりという嫌な音は、凶鶏の爪の生えた両足が強引に小室から引き剥がされたせいであろう。血に濡れ少なからぬ肉片が爪に絡んでいるのが見えたが、他に方法があったわけではない。


 グゲェエエェエエエッ!!!


 だが、強烈な一撃さえも怒りの炎に油を撒いた程度に過ぎなかったらしい。

 一度は横倒しになった凶鶏が体躯をくねらせただけで跳ね上がり、瞬時に体勢を整えた姿はしっかりと両足を踏ん張り、戦意を漲らせ、いかなる負傷も見受けられはしない。


(これも効かぬか――)


 月齊の手に残る感触は、修行の過程で撲殺した猪のそれを遙かに上回る堅いもの。手応えが示すように、所詮は“痛み”を与えただけに過ぎないと知る。


 ゲケェエッ!!


 それは威嚇か凶鶏なりの殺害宣言か。ぼたぼたと涎を垂れ流し、殺意と分かる光に溢れたつぶらな瞳で月齊を睨みつける。それへ――


「五月蠅いっ」


 すでに間合いを詰めていた剛馬の一言が凶鶏の首を刈り飛ばす。そう思わせる鋭利な殺意であり、相応しき斬撃だった。

 自身に起きた悲劇を知らぬ胴体は棒立ちのまま、斬り飛ばされた首が、草地に落ちてもガチガチと歯を鳴らす。

 頭を失った切り口からびゅうと噴き出す血潮の勢いが凶鶏の力強い拍動を感じさせ、鉄錆びた臭いが鼻をつくときには、ようやく首なしの胴体が倒れ伏していた。


「…………」


 月齊の苦戦が嘘のように抵抗もなく首と胴体を切り離してみせ、別に三頭もすでに同じ道を歩ませている。だが、懐より取り出した布きれで刀を拭う剛馬の表情には彼らしからぬ翳りがあった。


「今の手応え……とんでもなく筋の強い肉だ」

「それほどか?」

「ああ。万雷の御仁を斬ったときに似ているな」


 それこそとんでもない・・・・・・台詞と内容に、月齊を除く二名がこの戦いで一番驚いた表情をつくったのは無理もない。


 『軍神』を斬る『第九席次』――


 それはまさに禁断の妄想。

 だが一方で、剣士ならば思わず生唾呑み込む組み合わせに、これ以上ないほど眉を上げ目を見開くも、彼らをして二人の強者の戦いを幻視するなど能わない。

 いや、いかなる腕前あろうとも、ある領域に達した者達の“戦いの真実”など、同じ高みに立てぬ他者ごときが、妄想であっても脳裏に描き出すことなどできるはずもなかった。

 すぐに無駄な足掻きをやめて困惑げに首を振る二人とは違い、月齊だけは、斬りつけた・・・・・が正しい表現であることを知っていたが、あえて訂正はしない。

 すでに事切れている小室の身体を静かに見下ろしているだけだ。


「……あんたの棍が効かないとは、ちとまずいんじゃねえか?」

「そうと分かれば、やりようはある」


 無神経な剛馬の言に月齊は淡々と応じる。一切の異論なく認めようものなら、それはこの探索行の終わりを告げることになるからだが、剛馬もそれは分かっているはずだ。


「お主もここで戻りたいわけではあるまい?」

「無論。ただ、それぞれにとって・・・・・・・・厄介な相手がいるという事実を軽視するわけにもいくまい」

「棍に耐え、あるいは刃に耐える化け物が出てくると?」

「その両方も、な」


 実戦を好む剛馬をただの腕自慢と侮る兵は多い。だが、人と人との戦いは、体力やわざあるいは精神力を駆使しての頭脳戦がその神髄だ。

 一定の高みに立てば、馬鹿が勝てる隙間など髪の毛一本分も存在しない。それが葛城剛馬の“戦いの哲学”だ。

 実戦を求める――それは考え抜いた剛馬が修練では絶体に磨かれぬ、殺気渦巻く“独特の肌感覚”を純粋に磨きたいがための行動だ。そうでない仕合は感覚を鈍らせるだけ。勿論、それを本気で実践することは、甚だ常軌を逸した行動であると剛馬自身理解した上での選択であった。


「今後は、似た肌を持つ化け物が相手の場合、儂は敵の行動阻害に専念する。攻めは主らに任せたぞ」

「刃が通じぬ相手の場合は、逆でいいな?」


 儂は問題ないがね、とうそぶく剛馬を含めて生き残った二名も異論はないようだ。

 己の剣が通じる――その自信が揺らぎ、他者に妄想とそしらせぬためにも、もう一度、やり合えるという確信が欲しい。皆の瞳に滾るものがそう告げている。


「楠に元部、ちょいとこいつ・・・を見てみろ」


 剛馬が悪餓鬼みたいな口ぶりで促すのは、大量の血を流して死んでいる化け物鶏の遺骸確認だ。何でそのようなことをと訝しむ二人を手招き、さらに「触ってみな」と巫山戯ふざけた台詞を吐いて月齊の眉をしかめさせた。


「おい――」

「こいつらのためだ。できればあんたにも・・・・・そうしてもらいてぇな」

「何だと……?」


 月齊の声に怒りはない。むしろ素直な疑念がたっぷりと含まれている。状況も弁えずに和を乱すような男ではないと月齊がよく知っているからだ。


「儂らには少し、剣におごりがある――それを先の戦いで感じたのよ」

「そのようなこと――」


 剥きになったのは先の戦いで出番すらなかった元部だ。大口を開けたはいいものの、続く言葉が見つからずにつぐんでしまう。


「対人ならば剣で劣ることはない。まして臆することなど決してない」


 分かっていると剛馬が告げ、だが小室は萎縮し、月齊でさえ固着させたのは紛れもない事実。これまでの如何なる戦場においてもなかったことであり、想定されぬ事態であった。

 ならば、他の隊員が問題ないとどうして云えようか?

 己ら第一班の探索を皮切りに、今後、第二・第三と随時投入されることが決定づけられている。それがもし、自分達と同じように、壮絶な死出の旅路になってしまったら?

 単なる森の探索で、どれほどの犠牲を払うことになるというのか。

 剛馬が抱いた危惧は、面子にこだわるがために、看過されるようなことなぞあってはならぬものだ。

 “幸い”と云うべきか、烈士たる隊員が後れを取った主な要因ははっきりしている。


「隊長も云っておろう? “知らぬ”ということほど、恐ろしいものはない――俺たちはこいつ・・・をとっくりと眺め、撫で回し、喰らう必要があるのさ。恐怖の源・・・・ってやつをな」


 化け物鶏のそばにしゃがみこんで、剛馬が首のない傷口をぐちぐちといじり回す。「つくりは普通の生き物だな」と呟き、指先をすり合わせて血の粘り具合を確かめるのを他の者達は真剣な表情で見守る。

 知らぬから怖れる。

 馴れぬからおぞましく感じる。

 それらが判断を、肉の動きを阻害すれば、いかに修練を重ねた剣士であっても、知らず剣筋を鈍らせよう。

 ならば体験すればいい。

 知り尽くすまで、馴れるまで――何度でも。

 誰もが剛馬の言葉を斟酌しんしゃくし、体裁か実利かの葛藤に顔を歪める。だがそれも少しの時間にすぎない。何が大事かと考えれば、それを優先することこそが、結局は体裁をも保てると気づくが故に。

 はじめに動いたのは月齊であった。 


「お主らしい馬鹿げた考え・・・・・・だが……(悪くはない)」

「はん?」


 最後は胸中で呟いて、月齊も剛馬の隣で膝を折り、「なるほど」、「確かにこれでは……」ぶつくさと独り言を重ねながら、忌々しい強靱な皮をつねったり揉んだりし始める。それを互いに顔を見合わせた楠と元部も黙って追随した。


「ふむ。腹の方が裂きやすい……やはり外側の方が皮が厚いということか」

「ならば正面からの“突き”が有効というわけですな」

「それにしても……なぜこのような短い手に?」


 互いに忌憚のない意見を述べ合う中、元部の疑念に剛馬が顎で斬り飛ばした頭部を差す。


「あの丈夫な顎と牙、それに太い足をみろ。目にもとまらぬ速さで獲物に襲い掛かり、一度食いつけば梃子てこでも離れず咬み千切る。……前足を使う必要などないのだろうよ」

「理に適っていると? ……うぅむ」


 見た目の異形に某かの“理”があるなど思いもしなかった元部が唸り、「犬だってそうであろう」と剛馬が諭す。


「二足か四つ足かの違いはあれど、胴と同じ太さの首が、獰猛に発達した顎をしっかと支えている。武器はあくまで口に生えた牙であり、前足は獲物を抑え込むためのもの。そして奴らは必ず獲物の首に食らいつく――それは生き物のほとんどが首を急所とするからよ」

「成る程。奴らの狙いが“首”と分かれば……」

「あの“速さ”を覚えておろうな?」


 自信を覗かせる元部に「油断するな」と剛馬がすかさず釘を打つ。


当てるだけでは・・・・・・・刀は斬れぬ――実戦の中で“一葉”を使えねば、真に会得したとは云わぬぞ」

「……」


 その痛烈な言葉に元部がキッとにらみ返す。こめかみに青筋を浮かべ瞳に一瞬といえど“怒り”を見せたのは、剣士としての自尊心を傷つけられたが故か。


「剛馬――少し口が過ぎるぞ」


 さすがに月齊が副班長とは思えぬ無遠慮な物言いを窘め、元部に誤解するなと仲裁に入る。


「刹那に命を賭ける剣士われらにとって、例えわずかであっても刃の曇りは命取り――こやつなりに“業の在りよう”を説いただけ――」

拙者も・・・“一葉”を為したのは、つい半年程前にござった」


 月齊の言葉を途切らせたのは、己の未熟を晒す元部の重苦しい言葉だった。「小室に至っては――」そう続ける声に明らかな悼みが混じる。


「――つい先日のこと。つまり、あやつは拙者の朋輩というべき男」


 無論、剣の未熟を理由に言い訳をしたいのではなない。だからこそ、剛馬に他意なしと元部は腹を割る。ただ――


「悔しいのです――」


 それは積み重ねたものがあるからだ。

 そして積み重ねたものを活かせなかった・・・・・・・からだ。それを悔しがらずに何としよう。


 “一葉”とは一流派の皆伝相当――そこに辿り着かんと小室が投じた凄まじい鍛錬を共に歩んだ元部だからこそ、誰よりも知っている。

 ほとんどの者が耐えられないからだ。

 意外に多くの者が『抜刀隊』の門戸を叩き、ほぼ同じ数だけ去って行く現実。

 例え鍛錬を続けられても、途中で心身を壊すか命を落とす者さえいるその苦行。そうして“一葉”という剣の高天原に辿り着くのはほんの一握りともなれば。

 そこに小室と元部は辿り着いた。

 天高く燃ゆる剣人達の列席に名を連ね、晴れて『抜刀隊』の隊士となった。

 騎馬隊でも鉄砲隊でも、まして赤堀衆でもない。

 『抜刀隊』に憧れ、挑み、彼らと肩を並べるに至ったのだ。

 それ故に、本日、斥候の先陣に選ばれて小室と互いに血奮いした――見せてやろうぞ、と。


 選外となって羨望を向けてくる朋輩達に。

 高みから見下ろす“席付”の者達に。

 己らが血と汗で練り上げた、この“剣”を――


 刃を止められたあの時・・・、小室は何を思ったであろうか。

 たかが皮一枚を斬れぬ己の不甲斐なさか、想像を絶する怪異の強靱さへの畏怖か。

 少なくとも、一撃に己のすべてを込める剣士にとって、足下が揺らぐほどの衝撃を受けたのは確かであったろう。

 血尿を流した鍛錬のすべてを否定された思いであったろう。


 ――違う、と云いたかった。


 そうではない、と伝えたかった。


 お前は(己は)決して間違っていないのだと。


 “席付”には決して分からず、元部にだけは己のことのように感じるものがある。

 滾るような熱いものが。


「……小室の失態は紛れもない事実。されど、あやつが先陣として選ばれたのは決して間違いではありませぬ。まして剣力が劣っていたなどと」


 譲れぬものがある。

 月齊と剛馬をしっかりと見据えながら元部は静かに誓いを立てる。


「この元部もとべ軒岳けんがく――小室がいかなる剣士であったか、拙者の剣で証明してみせる所存っ」


 実のところ、元部が誰に向かって語っていたのか月齊と剛馬には分かっていた。

 戦場で仲間が倒れるたび、その思いを繋いでいく作業をこれまで何度も繰り返してきた彼らだ。殺し合いという狂気の炎に焼かれながら、それでも己を保つ精神力は何を持って育まれるものなのか――。

 隊員ならば、いずれは受ける“戦いの洗礼”が元部にも巡ってきたというだけのこと。彼もまた、死した朋輩の意志を胸に、さらなる一歩を踏み出さねばならぬ。

 この道を歩む限りは。


「……まずは、この鶏からできるだけ多くのことを学んでおくんだな」


 相変わらずあまり配慮が感じれぬ剛馬の物言いに、それでも若干の柔らかさを感じとったのだろうか。身体の強張りを解いた元部が素直に頷き検分に戻る。


「湿っぽいのが苦手でな」

「ええ」


 承知しているともう一度頷く元部の声や表情はいつもの調子に戻っていた。そのまましばらくは、皆で黙々と作業を進める。

 遺骸をいじり倒す異様な光景ではあったが、まるで世の真理を探究する学者の如き真摯な眼差しが、その倒錯した光景を厳粛な勉学の場に変事させていた。無論、瞼を閉ざす月齊に関しては“黙祷を捧げる僧侶に似た”という表現になろう。 

 実際、この奇妙な行為が原因か否かは別にして、この一件から彼らの戦い振りが、より洗練され場馴れしたものに変わることになる。

 後に“忌み子”の無庵が行った聴聞の記録において、月齊はこう述懐している――我らにとって必要な儀式・・であったのだ、と。


「墓も作ってやれぬ――赦せ」


 やがて出立の準備ができたところで、生き残った面子は別れ際に再度、小室の下に集っていた。

 このまま放置すれば、遺骸は獣の胃の腑に収められよう。だが、土葬はおろか火を焚くわけにもいかない状況だ。

 小室が所持していた背嚢の中身は分配し、あとは腰の小柄を唯一の形見として月齊が懐に偲ばせる。


「拙者も――」


 ふいに、元部が佩いていた刀を手にとるや、小室の傍らに跪いて、互いの刀を交換した。


「文句はあるまいな、小室」


 あっても云わせぬとばかり言い放ち、立ち上がるや「共に行こうぞ」と腰に佩く。それを最後に、皆で短く手を合わせ、小室への供養とした。

 経も読まねば墓もない。

 それは己にも置き換えられることであるが、戦場で遺棄されるのと怪異な森に捨て置かれるのとでは、どちらが幸せかなど分かるはずもない。

 ただ、小室の意志をそれぞれに継いで一行はさらなる奥へと分け入るのだった。


         *****


 奥へ進むに従い、生える植物は多様性を広げていき、同時に見覚えどころか耳にしたこともない種類の草木が増えてくる。

 人を襲うものだけでなく、棘に麻痺毒を有するものもあり、最悪のなのは幻覚を見させる花粉を放出し、同士討ちを引き起こす質の悪い植物だ。

 結局は幻視もできぬ月齊の活躍で難を乗りきることができたのだが、天然の罠による疲労があまりにひどく、休息を取る間隔が増えてきたのは仕方ない。

 降り注ぐ木漏れ日が、ふいに暗く翳って代わりに大粒の雨を降らしても班員達に驚きはなかった。


「……今の今まで晴れていたんだがな」

「まあ、そういうこともあろうさ」


 別段気にした風でもなく答えた剛馬もだいぶこの森の異常さに馴れてきたようだ。


「無念だが、そろそろ潮時であろうな」

「そうだな」


 月齊も誰かに確認をとりたかったわけではない。声がいくぶん沈んでいたように、“火柱”の正体を明かすと豪語しておきながら、その場へ到達さえできなかった事が悔やまれるためだ。

 だが、隊に犠牲を出さぬためにも、自分達が得た情報は必ずや持ち帰らねばらないことは十分に理解していた。

 今から戻り初めても、任じられた約束の期限はどうしても過ぎてしまうだろう。雨の勢いが落ち着くまでには判断しなければならない。


「んん?」

「どうした、元部?」


 一行は丘の麓を回り込むような形で進んでいた。咄嗟に雨宿りに選んだのは、岩肌が垂直に切り立ち、頭上に張り出した大枝がひさし代わりとなっているところだ。

 振り返れば、元部が岩肌に近づいていき、首を左右に巡らしたところで「あっ」と叫んだ。そのまま一歩右に踏み出すと、ふいに元部の身体が消えてしまう。


「おい――?!」

「元部っ」


 楠を筆頭に慌てる班員達の目の前で、今度は右からひょっこり姿を現してくる。


「“錯覚”ですな」

「何だって?」


 云ってる意味が分からず剛馬が聞き返す。


「離れたところから見れば、単なる岩肌にしか見えませぬが、実際は壁が二層平行に並んでいるのです。無論、人為的なものではありませぬ。ただ――」


 視線を落とす元部に楠は何か気づいたらしい。走り寄って地面を眺め回し、大きく頷く。


「人らしき足跡があります。ただ――」

「お主もか」


 やはり言いよどむ楠に剛馬が苛立つ。


「明らかに両足で歩いておるのに、足形が獣のようなのです」

「ほう……?」


 もはや人面の獣や両の足で歩む獣がいても驚くに値しないが、それでも興味はそそられる。


「何体だ?」

「難しいですね……最低でも三、四体おろうかと」


 林野の戦いは、その地形条件から接近戦が主体となり、多人数よりも少人数の戦いになってくる。即ち『抜刀隊』の独壇場であり、自ずと林野に特化した技能を開発し身に付けるようになってくる。

 そうした技能のひとつとして、地に残された人や獣などの『痕跡』を読み取る術があり、楠は隊の中でも秀でた力を示していた。

 それ故、楠の見立てを剛馬だけでなく全員が素直に信じたのだ。


「両の足で歩く獣なら、前肢は我らと同じように得物を持つかもしれぬ」


 月齊が脅威の診断をすべく推論を提示すれば剛馬が慎重に別案を述べる。


「そうかもしれぬし、獣のように爪を用いるやもしれぬ」

「獣が下地となっているのであれば、膂力も凄まじいかもしれぬな」

「肉体の大きさや目方はどうだ?」


 剛馬が楠にさらなる情報の読み取りを促す。


「足跡の大きさや歩幅から察するに、大きさは五尺(約150㎝)より下。目方についてはあの化鳥と同じ十五貫程度(約60㎏)かと」

「我らとあまり変わらんな」

「ならば、智恵も同じかもしれぬ」


 剛馬が子供のような瞳でぎらついている。新たな脅威の出現に喜びを隠しきれぬらしい。


「焦るな。智恵あるならば、悪戯に敵対するは愚行とも云える」

「様子を見よと? それで死んだら元も子もないぞ」


 見極めに間を置く愚を思えばこそ剛馬の意見は一蹴できない。それでも月齊の決断は覆らなかった。


「悪いが“先手必勝”は禁じる。備えはしておき、殺意の有無は確認する」


 班長として出された命に剛馬もそれ以上の異論は挟まない。「心得た」と応じて、元部が見つけた天然の隠し通路を見やる。


「その先を確認したあたりで、今回の探りは終わりとしよう。“火柱”の懸案は調べられなかったが、持ち帰るべき情報は十分に得たからな。楠、先導を頼む」


 あらためて月齊が宣言し、出立を促すと楠は黙って頷き先行する。だが、いかほども歩くことなく楠が後ろ手に「待て」と合図を送ってきた。


「この先は岩場に囲まれた窪地です。あれは――」

「どうした?」

「洞穴です」


 思わず月齊と剛馬が顔を見合わせる。


「何やら枝葉で入口を覆っておりますが、人の手・・・になるものかと……」


 先ほどの足跡を考慮すれば、本当に“人の手”ではあるまいが、問題はそれが示唆するものだ。


「……“ねぐら”だな」

「……“塒”であろうよ」


 互いに意見を述べ合いながら、考えていることはその“塒”を調べるか否かだ。“異界の森”に棲まう生き物の実力を侮れぬ事は骨身に染みている。洞穴に棲みつくモノが凶鶏のような力を有し、しかも何体もいて敵対などしてしまっては……。

 月齊が判断材料を得ようと楠に小声で問いかける。


「気配はあるか?」

「入口付近であれば、何も感じられませぬ」

「深さは?」

「奥まで見通せませぬ。ちなみに入口の幅は三間(約5.4m)あろうかと」

「でかいな……」


 複数いても不思議ではない大きさであり、この一事をもって調査断念を決断するのが当然であったろう。

 だが、その危険度の高まりとは別に、“火柱”と同格の貴重な発見とも捉えられた。うまく調べられれば、班として誇れる手柄を挙げることになるのではないかと。


「儂はやれるぞ?」


 月齊の穏やかな仏面に、ある種の“栄誉欲”が浮かんでいたのか剛馬が乗り気で煽ってくる。


「班長殿っ」

「我らならやれます」


 誘惑による葛藤が他者の意見を求めさせたのか、向けられた仏面に元部は当然のこと、楠さえも調査実施の決断を促してきた。

 ならば決断はひとつしかあるまい。


「“洞穴”の調査を我らの最後の仕事としよう」


 月齊が宣言し、同時に内心胸を撫で下ろす。皆の賛意を得られたおかげで、形として、己の我が儘で皆を危険にさらさずにすんだからだ。だが、月齊は気づいていなかった。

 己がいつの間にか、懐にある小室の小柄を握りしめていることに。それらを目にしたからこそ、班員達が意志を固めたということに。

 口にせず、素振りも見せずとも元部に限らず誰もが胸にわだかまっていた思い。

 これは、小室の死に意味を持たせるための戦い・・であった。

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