第5話:行き場のない感情
梅雨の曇り空がどこか憎い。
どうせなら雨でも降ってくれればよかったのに、と。
「――私の事をもう好きにならないで、と」
亜沙美の言葉に彼女は表情を曇らせる。
――好きにならないで、か。
優那自身も何度だって、そう言おうとしてきた。
本当に千秋の事を思えばそれが1番いいはずだ。
亜沙美のような純粋に彼を想う相手と一緒になる方が千秋のためだ。
――分かってるよ。それが一番いいってことは。
なのに、優那の口からは正反対の言葉が出てしまうのだ。
「それは断る。私は千秋にそんな言葉は言えない」
「……なぜですか? 幼馴染としての関係さえ守れれば、恋人が他にできようと関係ないはずでしょう。矛盾していますよね、先輩の想いって」
「さっきから聞いていれば、キミは自分の都合ばかり人に押し付けるんだな」
「双海先輩の事が邪魔だってはっきり言ってるんですよ」
「邪魔をしているつもりはないけど」
「十分に邪魔ですよ。千秋先輩の心にはいつも貴方がいるんです。その影がちらつくたびに私の心はとても傷つきます。本心で私を愛してくれていないんじゃないかって」
「……そんなことは私の知ったことではないさ」
真正面から攻撃的に言われて、亜沙美に対してイラっとする。
――この胸の奥底から湧くような気持ち悪い感じは何だ?
優那は亜沙美の言葉が不愉快でしょうがない。
千秋の恋人。
その立場に何の不満があるって言うのか。
――何をムキになる。私程度の邪魔者がいても困ることなんてないのに。
実際、優那と千秋が過ごす時間は朝くらいなものだ。
彼女だっていろいろと考えているのだ。
――わずかな時間さえ、幼馴染としての時間さえ奪いたいと言うのか。
独占欲っていうのも、ここまでくれば鬱陶しいものだ。
「幼馴染なんてやめてしまえばいいじゃないですか!」
「――っ!」
ふいにカチンときた。
――あぁ、なんでだろうね。こんなにも腹立たしく思えたのは?
優那の瞳にギラッと光る。
「そんな都合のいい関係あります? 幼馴染だなんて、今さらでしょう」
どうしようもなく怒りの感情がこみ上げてきた。
抑えきれない感情が爆発する。
「……さい」
「え?」
「うるさいんだよ、お前っ。私とちーちゃんの関係に口出しするなっ!」
だから、つい屋上に響くような大声で怒鳴りつけてしまった。
「ち、ちーちゃん?」
唖然とする亜沙美を睨みつけるように、
「お前の事情なんて知らない。私はちーちゃんに恋愛感情はない。だけど、幼馴染としては大切な存在だと思ってる。それの何が悪いって言うんだっ!」
「え、あ、あの」
「赤の他人に私とちーちゃんの関係を否定されてたまるか」
それが偽りのない優那の本音。
他人には理解などできない。
――私たちの関係は私たちだけのもの。
自分の心の弱さも、千秋自身の想いの深さも。
自分たちがどんな思いで今の関係を続けているのかさえも。
――他人には知らない事だし、他人には関係ないことじゃないか。
そんなことまで口出しされる言われはない。
怒りの感情が溢れ、亜沙美に対して敵意をむき出しにする。
「これは私の我がままか? だとしても、お前にそれを否定する権利はない」
幼馴染の距離感は長年の関係から築き上げてきたものだ。
他人にどうこう言われて壊すような関係ではない。
「彼が私の傍にいてくれる、世話をしてくれる、好意を向けてくれる……。私はそんな千秋を頼りにしている。それの何が悪い?」
「だ、だって、ふたりはただの幼馴染なんでしょう!」
「そうだよ。幼馴染だ。幼馴染って言うのは特別なんだよ」
「……で、でも、今は私が恋人ですっ!」
亜沙美もたじろぎながら負けじと優那の方を睨みつけてくる。
ここまでくれば、あとはお互いの意地とプライドの闘いだ。
「だから? 恋人気取りなら堂々としていればいいじゃないか。ただの幼馴染に嫉妬して、見苦しいとしか言えないな。逆切れして怒鳴られる筋合いはない」
「見苦しいですって!」
「そうだ。自分に振り向かせる気概もなく、ただ他人に八つ当たりするだけのようなお前にアイツが本気で振り向くとでも?」
「そ、それは……」
「甘いんだよ、お前。自信のなさを人にぶつけるな!」
そこまでまくしたてるように言い放ってから、優那はようやく冷静さを取り戻す。
恫喝されて驚いた表情の亜沙美。
――後輩相手に何を熱くなってる。バカな事を言ってる自分にも腹立たしい。
思わず、自分自身に呆れかえってしまった。
まったくもって恥ずかしい以外の何物でもない。
冷静さが急に戻り、居心地の悪さしか感じられない。
――何やってるんだよ、双海優那。私らしくないことをしてどうする。
そういう感情がまだ自分に残っていたとは驚きだ。
怒りも悲しみも、何かも失いかけている。
毎日を怠惰に過ごし、自分の感情を腐らせて生きていく。
面倒くさがりで何も興味を持てない。
それが今の優那だったはずなのに。
――やめてくれよ、私。千秋のことを考えてまだ、感情が溢れだすなんて。
それを、“未練”と呼ぶにはあまりにも……。
ふっと深呼吸すると優那は「もう行く」と歩き出す。
だが、亜沙美はそんな彼女に対して、
「――先輩はずるい。あれだけ愛されてるのに」
消え入りそうな声で呟いた亜沙美の言葉。
「どうして、千秋先輩を諦めさせてくれないんですか」
「……」
「貴方が諦めきれてないからじゃないんですか。そんなのずるいですよ。私はどうすればいいって言うんです。どうやって振り向かせろって?」
――あぁ、この子も必死なんだ。
彼氏に振り向いてほしくて。
でも、彼の心にはいつも別の誰かがいる。
そこに不安を持っても仕方がないと少し後悔する。
亜沙美の怒りは正しいものであり、優那が悪いのだと納得もできた。
――結局、私がダメなんだ。中途半端な私が……。
今度こそ、立ち去ろうとすると、勢いよく扉が開く。
慌てた様子で現れたのは問題の張本人、千秋であった。
「優那、無事か!? って、あれ?」
「遅すぎだろ、バカ野郎。彼氏なら彼女の面倒くらいしっかりみろ」
どこで聞きつけたのか、屋上にようやく千秋がやってくる。
彼女は一発、その胸にパンチを食らわせる。
「げふっ!?」
殴られてせき込む千秋は「すみません」と謝罪する。
「彩華ちゃんに修羅場の真っ最中と聞かされて飛んできた。えー、どういう状況?」
「ちょっと後輩相手にムキになった」
「ムキにね? あの思いっきり相手が泣きそうな顔をしてるんですが?」
「ふんっ。あとのフォローはお前がしろ。私はもう知らん」
「優那、またあとで話そう。……おい、愛紗美。これはどういうことなんだ?」
困惑した顔をしつつ千秋は亜沙美の方へと駆けよっていく。
初夏の風はどことなく冷たくて。
優那は何も言わずに屋上を後にする。
「千秋のバカ」
思わず漏れた言葉が階段に響く。
「……私、何て顔をしてるんだよ」
ふと見上げた先。
階段に設置された姿見の鏡に映る優那の顔。
「やめろよ、私。そんな顔をするなよ」
優那は言葉を震わせて顔を覆い隠す。
静かに瞳を潤ませ、今にも泣きそうな顔をしていたのだ――。
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