第4話:後に水たまり事件と呼ばれる

 

 これまでを振り返れば、伊月と亜衣の関係は特別なものだった。

 気重ねなく付き合える異性。

 幼馴染であり、兄妹であり、恋人のようである。

 学校へはほぼ毎日、一緒に登校して、帰宅も共にする。

 休日はといえば、どちらかの家でまったりしたり、共に買物をしたり。

 別々に過ごす日の方がはるかに少ない。

 それだけ自然の存在であるのは互いに居心地がいいからだろう。

 悪態をついても、相手に対して甘えられる。

 どんなことをしても、お互いに許せる。

 信頼の中に愛情が芽生えていても、当然とさえ思える。

 このまま、自然の流れで交際に発展する、と誰もが思う。

 そんな関係ゆえに、最後の一歩を踏み出すのはきっかけひとつだけだった。


「――どうしよう、伊月。したく、なってきちゃった」


 顔を真っ赤にさせ、薄桃色の唇から小さな声で囁かれる。


――幼馴染崩壊フラグ、キター!


 良い意味で幼馴染の関係を終わらせることができるかもしれない。

 亜衣からの思わぬ誘惑に人生で最も緊張する伊月だった。


――俺の片思いが報われるときが来ちゃったのか!?


 ドキドキと高鳴る心臓の音、心拍血圧ともに上昇。


――ここで、か? ここでなのか?


 伊月は目の前で顔を赤らめる亜衣から視線を逸らせない。

 甘い吐息のかかる位置、ぐっと縮まる距離。


「亜衣……?」


 緊張した面持ちで彼は亜衣の顔を覗き込む。


「こ、こっち見ないで」

「……それは本気か?」


 彼女の覚悟を問うと「聞くな、バカ」と悪態をつきながら小さく頷く。

 それはすなわち、OKサイン――?


――ま、マジでか。今まで生きていてよかった。


 生まれてきたことに感謝する。

 これまでの苦労を思い返しながら、


――ついにこの時がやってきたんだな。


 伊月の一方的な片思いではなかったのだ。

 なぜ、今、ここでと言う疑問がわいたが、欲望の前には疑問を投げ捨てた。


「分かった。亜衣がそこまで言うのなら」

「……え?」

「俺も初めてだから、うまくできるか分からないけどさ。痛くはしないようにする」

「……何を言ってるの?」


 きょとんとする亜衣と温度差を感じる。

 それも彼女なりの照れ隠しなのだと勝手に理解。


「照れくさがるなよ。気持ちは理解している。心配するな、俺、大事にするから」


 そっと亜衣の肩を触れて、制服の上着のボタンをはずそうとする。

 その光景に彼女は顔を赤らめたまま、


「……なぜ、服を脱がせる!? へ、変態なのっ!?」


 すぐさま亜衣が警戒心を持って声を上げた。

 突如、衣服を脱がされかけて彼女は戸惑いを隠せない。


「い、意味が分かんないんですけど!?」

「服を脱がずにするのか? 着衣プレイか……それも望みならば」

「……ハッ!? ば、バカぁ! こいつ、勘違いしてる!?」


 危機感を抱いた亜衣はバッと彼を引き離して距離を取る。


「あぁ、そうか。初めてだからな。うん、混乱してるんだろう」

「混乱してるのはアンタでしょ!!」


 近くにあったサッカーボールを亜衣は伊月に投げつけた。


「げふんっ!?」


 思いっきり、顔面に直撃してのけぞりかける。


「この野獣っ。変態、バカ伊月。こっちに近づかないで!」


 次々とサッカーボールが伊月を襲い掛かる。

 それを手で防ぎながら、彼は驚きの声を上げる。


「な、なぜだ。誘ってきたのはお前の方だろ」

「誘ってないっ!? ち、違うから!! 私、そんな意味で言ったんじゃない」


 ようやく納得したのか亜衣は真っ赤な顔で否定する。


「私はそんな誘惑なんてしてないわよ。とにかく落ち着け!」

「い、いたぁ!? お前なぁ、本気でぶつけてくるなよ!」

「変態淫獣のくせに! えいっ!」


 憤慨する亜衣からのボール攻撃。

 事態を把握してシュンっと肩を落とす伊月であった。


――ですよねぇ。そんな甘い話は妄想の世界にしかないってことか。


 期待していた気持ちがぽっきりと折れて、投げやりになる。


「そういう意味じゃないのなら、何だよ。アレ以外に何をしたくなるんだ?」

「……言わせないでよ」

「言ってくれなきゃ分からん。この高ぶった気持ちをどうしてくれる」

「そんなことを言われても、知らないわよ」


 伊月は放り投げられたボールをカゴに戻しながら適当に、


「まさか、トイレとか言わないよな」

「……っ……」

「あれ? 攻撃がこない?」


 そこは『違うわよっ』という突っ込みを待っていた伊月だったのだが。


「……マジですか?」


 その無言の肯定にさっと顔色が変わる。


――この状況でかよ、大ピンチじゃないか。


 笑い話ですまなくなってきた。


「……なぜ、そうならもっと早くに言ってくれない」

「言ってたし。勝手に勘違いして暴走したのはアンタでしょ!」

「うわぁ、マジか。それは……我慢できそうにないのか?」


 頷く亜衣自身も焦りと不安で顔色が青ざめている。

 世の中にはどうしても我慢できないものがある。

 限界ギリギリの睡眠と尿意である。


「仕方あるまい。おしっこなら、もうその辺でしちゃうとか」

「おしっこ言うな。バカ、変態っ」

「痛いから叩くなってば」

「ぐすっ」


 羞恥心から涙目になっている亜衣。

 今にも泣きそうな彼女にしてやれることは伊月にないのか。


「うぁっ……もう漏れそう……」

「あ、あわわ!? だ、誰かぁ、早く来てくれ~!?」


 本気モードのSOS、どう考えても間に合わないかもしれない。


――緊張感が増してきやがった。


 違う意味でドキドキし始めてきた。

 ここから先は時間との勝負だ。

 早く助けが来ないと一人の少女の未来を狂わせることになる。


――早く、早く来てくれ。誰でも良いから、早く!!


 願いを込めて、彼らは沈黙するしかない。


「うぅっ……ダメかも……」

「落ち着け、意識をそらすんだ。意識したら負けだ」

「伊月、うるさい……ぁっ……ああっ」


 色っぽい表情に自制心を試される伊月は別の意味でやばかった。


「こっち向かないで。うぅっ、ひぅっ……ダメ、だめぇ。あぁぁっ」

 

 尿意を我慢し、身悶える亜衣を前に伊月ができることなどもう何もなかった。

 そして、その事件は起きた――。





 しばらくした後、助けに来た女子生徒と教師が体育倉庫で目撃したのは。


「ひぅ……うぁ、ああぁ……」

「あ、亜衣? もう泣くなってばぁ」


 ぐすぐすと泣き崩れる亜衣を必死になだめる伊月の姿だった。

 ……残念ながら、水たまり事件は防ぐことができなかったのである。

 

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