第21話:……さよならっ

 

 それはあまりにも突然の出来事だった。

 弘樹とのデートはゆっくりと時間が過ぎていくように感じていた。

 綺羅はカルガモの親子が池を泳いでる姿を見ていた。

 小さなヒナが一生懸命に足をばたつかせて泳ぐ様はとても可愛らしい。

 

「綺羅」

 

 甘い声で弘樹が呼んだので振り返る。

 彼は綺羅を自分の方へと引き寄せる。


「お前ってホントに可愛いやつだよな」


 ふっと彼の腕の中に抱き寄せられた。

 温もりが伝わってきて、心地よい。

 弘樹の瞳は綺羅を見つめていた。


――今から“キス”されるんだ。


 直感的にそう思った。

 

『キラだってキスとかしたいんじゃない?』

 

 有希に言われた言葉をふと思い出した。

 綺羅にだって興味がないわけじゃない。

 好きな人とキスしたくないわけがない。

 こちらに近づいてくる弘樹の唇。

 あとはただ受け入れればいいだけなのに。

 

「――だ、ダメっ!」

 

 思わず、綺羅は拒絶してしまった。

 弘樹から離れるように身体を押して距離を取る。

 とっさの事とはいえ、綺羅は自分がした行動にハッとする。

 

「……綺羅?」

 

 弘樹がこちらに不思議そうな顔を見せた。


――私、今、何をした……?

 

「……ぁっ……」

 

 キスされそうになって、それを無意識に拒んだ。

 何でこんな真似をしたのか自分でもよく分からない。

 彼女の心臓の鼓動がドクンドクンっと激しく高鳴る。


―どうして拒んだの? ヒロ先輩にキスされたくなかった?

 

 困惑しながら、自問自答するけども。


――やだ。やだ。やだ。怖い。気持ち悪い。


 自分の中で不安が渦巻いてしまう。

 どうして拒んだのか、その理由は綺羅にも分からない。

 

「えっと、その……綺羅、俺は……」

 

 ただ、綺羅達の間に嫌な雰囲気が漂う。

 お互いに気まずい感じになってしまい、綺羅は彼から目をそむけた。

 

「……帰る」

 

 綺羅は近くに置いてあったバッグを掴むと、その場から立ち去ろうとする。

 

「ま、待ってくれ。綺羅、俺、お前を傷つけるつもりじゃ」

「……さよならっ」

「綺羅っ!」

 

 逃げるように彼の前から綺羅は走り去った。

 彼女は逃げた。

 自分勝手な行動をしてしまって。

 関係を壊してしまいそうになったのが怖かった。

 ある程度走って、立ち止まると、そのままへたり込んでしまった。

 

「……何やってるんだろう、私」

 

 当然ながら、弘樹の事が嫌いではない。

 彼にキスされると思ったら、何だか良く分からない気持ちになった。

 

「心の準備ができてなかなったから?」

 

 そうなのかもしれないけども、あんな風に拒むことはなかったのに。

 あれでは、綺羅が弘樹を嫌いで突き放したようにも思われても仕方がない。

 綺羅は弘樹の事が好きだ。

 この気持ちだけにはちゃんとした自覚も持てる。

 

「だったら、どうして拒んだりしたの?」

 

 自分で自分の気持ちが、分からない。

 

「……ヒロ先輩。私、なんで?」

 

 見上げた空からいつしかポツッと降り始めた雨が綺羅を濡らす。

 それに混じるように“温かな雫”が綺羅の頬を伝ってこぼれ落ちた。

 

 

 

 

 茫然自失状態の綺羅は家に帰った。

 服はすっかりとびしょ濡れで冷たい。


「ただいま……」

「おかえりなさ……って、びしょびしょじゃない!?」


 七海からは「傘を持っていなかったの?」とずぶ濡れ姿を注意される。


「綺羅?」

 

 娘の様子がおかしいことに気づき、声をかけるも、

 

「何でもない。お風呂に入るから着替えだけ用意しておいて」

「え、えぇ。分かったわ」


 そのままお風呂場に入ると彼女はシャワーを浴びる。

 どうしようもなく落ち込んだ気持ち。

 

「はぁ……」

 

 頭からシャワーのお湯をかぶりながら綺羅は何度目かのため息をつく。

 昨日までの綺羅は初めてのデートに浮かれていた。

 

「今日の朝だって、ヒロ先輩が喜んでくれるか期待しながらお弁当を作ったのに」


 服を選ぶのだって、お気に入りの中からまだ新品のワンピースを選んだ。

 弘樹は清楚っぽい服の方が好きだと思って、彼の反応を楽しみにしていた。

 好きな人に可愛いと思われたい。

 好きな人に褒められたい。

 綺羅にも人並みの女の子みたいな感情がある事に自分でも驚いていた。

 

――私は今、恋をしてる。

 

 自分もひとりの女の子なんだって分かった。

 それなのに。


「……何で、あの時、キスを拒んじゃったの?」

 

 何度も、何度も繰り返して綺羅は言葉にする。

 静かなシャワーの音だけが響く。

 自分がしてしまった行動に説明ができない。

 本能で動いてしまったとしか言いようがない。

 明確な理由があったわけでもなく、嫌だったわけでもない。

 

「私、どうしちゃったんだろ」

 

 シャワーのお湯で涙混じりの顔を洗い流してから綺羅はお風呂場から出る。

 髪を拭きながら自分の部屋に戻ろうとすると、

 

「綺羅ちゃん、初デートはどうしたの? 何かあったぁ?」

 

 リビングでテレビを見ていた能天気な姉の声に綺羅はげんなりとする。

 

「……何でもない」

「何でもないって、せっかくオシャレして出かけたのに。帰ってきたらずぶ濡れだし。気になるじゃない。あっ。もしかして、彼氏と喧嘩でもした?」

 

 どうしてこの姉はどうしようもなく、綺羅をイラッとさせるんだろう。

 

「私が落ち込んでるのは見れば分かるでしょ、空気を読んで」

「気になるから聞いてるんじゃん。お姉ちゃんが相談にのるよ?」

「うるさいっ。それ以上、私を怒らせると潰すわ」

「へ?」

「プチっと蚊のように潰されたいの?」

「ひっ!? お、お母さん、いつも以上に綺羅ちゃんが怖い~」

 

 震える夢遭は後ろにいた七海に助けを求める。

 挑発的な態度を見せたのは夢逢の方だと知っているので呆れる。

 

「お願いだから、夢逢は少し空気を読みなさい。貴方の悪いところよ」

「えー。私は心配してあげてるのに」

「それと綺羅。何があったのか知らないけども、お姉ちゃんにやつ当たりはやめなさい。夢逢も夢逢なりに心配してるのよ。多分」

「そうだ、そうだ!」

 

 綺羅は七海にそう言われて姉の方を睨みつける。

 

「……ちっ」

「し、舌打ちされたぁ!? 姉として、相談くらい乗るよ?」

「夢逢お姉ちゃんに話す事なんて一言もない。むしろ、イラつくから視界から消えて欲しい。さっさと立ち去って。もう家から出て行って。帰ってくるな」

「妹思いの姉に、そんなに言わなくてもいいじゃんっ」

「……」

「あんまりひどいと拗ねるよ、私、拗ねるからっ。ぐふっ!?」

 

 彼女は髪を拭いていたタオルを夢逢に投げつける。

 

「……不愉快な姉、黙れ。それ以上うるさいと本気で潰す!」

「ぐ、ぐすっ。うぇーん。今日の綺羅ちゃん、ものすごく怖い~」

 

 ぶるぶると子羊のように震えて部屋の隅っこで脅える夢逢であった。

 

――八つ当たりなのは分かってる。

 

 けれども、不安が自分の中を支配していて感情を制御できない。

 弘樹との関係に亀裂が生じた。

 

――この恋人関係がもしかしたら、終わってしまうんじゃないか。


 その不安だけしかない。

 情緒不安定気味な綺羅には余裕がなかった。

 

「どうしたらいいの。私は、どうすればよかったの――?」

 

 行き場のない負の感情だけが綺羅の心を支配していた――。

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