第237話・波乱の予感

 憂さんのお願いで風邪を引いたという陽子さんのお見舞いへと来ていた俺は、小さく開いた扉の隙間から手招きをする憂さんに応え、二人が暮らしている部屋の中へと入った。

 すると八畳ほどの室内に敷かれた小さな布団の上に、激しい寝癖が付いたまま、上半身を起こして座っている陽子さんの姿があった。


「こ、こんにちは。陽子さん」

「えっ!?」


 小さく頭を下げて挨拶をすると、陽子さんはまるで、鳩が豆鉄砲を食った様な表情で俺を見た。


「よ、陽子さん? どうしたの? 大丈夫?」

「キャーーッ!!」

「おおっ!?」

「ちょ、ちょっと陽子!? どうしたの!?」


 突然大きな声を上げた陽子さんにビックリしてしまい、俺は思わず身体を仰け反らせてしまった。


「よ、陽子! 落ち着いて!」

「だだだだって先輩! 龍之介君がこんな所に居て、私もこんな所に居て、憂先輩がここに居るんですよ!?」


 陽子さんは激しく混乱しているらしく、言ってる事が支離滅裂だった。


 ――やっぱり突然来たのは不味かったか?


「陽子さん! とりあえず落ち着い――」

「こ、来ないで龍之介君!!」


 取り乱す陽子さんを落ち着かせる為に近付こうとした瞬間、陽子さんは両手をサッとこちらへ突き出し、俺が来るのを力強く拒否した。


「龍之介君。悪いけど、一度部屋から出てもらっていいかな? とりあえず陽子を落ち着かせるから」

「わ、分かりました」


 動揺が収まらない様子の陽子さんに背を向け、俺は素早く部屋の外へと出た。


 ――あんな陽子さんを見たのは初めてだな……大丈夫か?


 そんな心配をしながら廊下で待っていると、各部屋の扉が小さく開くのが見え、その隙間から部屋の住人達がこちらを覗いているのが見えた。まあ、陽子さんの出したあの大きな声を聞けば、誰だって様子が気になるだろう。

 だけどこちらの様子を伺っている人達からは、怯えとか驚きと言ったたぐいの雰囲気は感じない。どちらかと言うと、好奇の視線を向けられている様に感じる。


「ゆ、憂先輩! 何で龍之介君が来てるって言ってくれなかったんですかっ!」

「ごめんごめん。ちょっとしたサプライズのつもりだったんだよ」

「サプライズ過ぎますっ!!」

「そんな事より陽子、龍之介君を待たせてるんだから、早く身支度しないと」

「あっ! そうだった!」


 その言葉のあと、部屋の中からドタバタとせわしなく動き回る音が聞こえてきた。

 まあ流石に、あんな寝癖が付いた状態で会うのは嫌だろうから、それは仕方がないと思う。だからさっきの陽子さんは、寝癖の付いた自分の姿を見られたから、動揺してあんな事になってしまったんだと思う。

 それつまり、憂さんがちゃんと陽子さんに身支度をしてもらってから俺を呼べば、あんな事にはならなかったってわけだ。まあ、憂さんはサプライズとか言ってたから、そこまで気が回らなかっただけかもしれないけど。


「――龍之介君、お待たせ。もう入っていいよ」

「分かりました」


 周りの観察する様な視線に晒されながら考え事をしていたから、部屋を出てどれくらいの時間が経ったのかは正確には分からない。けれど体感的には、十分くらいかなと思う。


「お、お邪魔しまーす」

「あ、あの。さっきはごめんなさい。龍之介君」


 再び部屋へ入ると、さっきの小さな布団の上で上半身を起こして座っている陽子さんの姿があり、俺が入って来るのを見てからペコリと頭を下げた。


「いやいや、気にしなくていいよ。俺が急に来たのがいけなかったんだから」

「ううん! そんな事ない!」


 寝癖が綺麗に整った頭を力強く左右に振り、その言葉を否定する。

 いかにも陽子さんらしい心遣いだとは思うけど、あの動揺を見せた原因は間違いなく俺だろうから、そこは申し訳なく思ってしまう。


「いやー、ごめんね、龍之介君。お騒がせしちゃって」


 そう言いながら陽子さんの視界から外れた憂さんは、俺が手に持っているお花と、ケーキが入った箱を見て目配せをしてきた。


「あっ、陽子さん。これ、お見舞いの品なんだけど、受け取ってくれるかな?」

「えっ? わざわざ買って来てくれたの? ごめんなさい、気を遣わせてしまって……」

「いやいや、気にしないでよ」

「うん。ありがとう」


 そう言うと陽子さんは、申し訳なさそうにしながらも、差し出した小さな花束を受け取ってくれた。

 しかしそんな陽子さんを見ていると、憂さんからの申し出とは言え、逆に気を遣わせてしまったんじゃないかと心配になる。それにこの品も憂さんが買った物だから、俺としては心苦しい。


「それとこれ、ケーキだけど、良かったら食べてね」

「おっ! ケーキかー! さっすが龍之介君、気が利くねー。ありがと♪」


 憂さんは俺が持っていたケーキの箱を受け取ると、次は陽子さんが持っている花束を受け取った。


「それじゃあ準備をするから、みんなで食べようよ。陽子、大丈夫? 食べられそう?」

「あ、はい。大丈夫です」

「OK!」


 憂さんは受け取った花束を邪魔にならない場所へ置くと、小さな食器棚から三枚の平皿を取り出した。


「あっ、そういえばコーヒーを切らしてたの忘れてた!」

「えっ? まだ残ってませんでしたか?」

「ううん。見事に空っぽ。ほらっ」

「ホントですね。でもおかしいなあ、昨日まではまだ残ってたはずだけど……」

「まあ、空っぽになってるのは事実だから、ちょっと近くのお店で買って来るよ。龍之介君、その間は陽子の事をお願いするね?」

「「えっ!?」」

「それじゃあ、ちょっと行って来るねー♪」

「ちょ、ちょっと憂さん!?」


 憂さんはそう言うと、素早く部屋を出て行った。


「行っちゃったね、憂さん」

「ごめんなさい。憂先輩はいつもあんな感じだから……」

「あ、いや、別に大丈夫だよ。それよりも、寝てなくて大丈夫?」

「うん。二人が来るちょっと前までちゃんと寝てたから、今は調子いいよ」

「そっか。それなら良かったよ」

「うん、ありがとう。あっ、緑茶のティーバッグならあるから、すぐに用意するね」

「俺の事は気にしなくていいから、ちゃんと安静にしてて」

「でも……」

「だったら陽子さんの代わりに俺がやるから、ティーバッグのある場所を教えてくれない?」

「……気を遣わせてごめんね」

「いやいや。気にしなくて大丈夫だよ」


 俺は布団から出ようとする陽子さんを止めて立ち上がり、お茶を淹れる準備を始めた。


「――はい。お待たせ」

「ありがとう。ごめんね、龍之介君にこんな事をさせて」

「いいのいいの。陽子さんは病人なんだから、遠慮なんてしなくていいんだよ。それよりも舞台が近いんだから、早く治さないとね」

「うん。そうだよね」


 そう言ってにこっと微笑むが、病気で弱っているからか、なんだか守ってあげたくなる様な雰囲気を醸し出している。いつもの快活な陽子さんも魅力的だけど、こんな感じの陽子さんも、これはこれで可愛らしくていい。


「そういえば、この前借りた舞台のDVD、凄く良かったよ」

「本当? 気に入ってくれたみたいで良かった」

「うん! 主役から脇役まで全員が個性的で、見てて凄く面白かったよ」

「そうだよねっ! 私もあの舞台大好きなの! 特にね――」


 さっきの弱っている様な表情から一変。陽子さんは元気な表情を見せながら、流暢りゅうちょうに話を始めた。

 そんな陽子さんを見ていると、本当に演技をする事が好きなんだなと思える。そして最近は陽子さんと演劇について話す事が多くなっていたから、俺はそんな陽子さんを見ているのがとても好きになっていた。


「――たっだいま~♪」

「あっ、お帰りなさい。憂さん」

「なんか楽しく話してる声が聞こえてたけど、何の話をしてたの?」


 憂さんは持っていた買い物袋を畳の上に置き、ニヤニヤとした笑顔で俺と陽子さんを交互に見る。


「二人で舞台や演技の話をしてたんですよ」

「へえ~、そうだったんだ。でも、興味が無いとそういう話ってつまらないんじゃない?」


 憂さんの言葉を聞いた陽子さんは、あからさまに表情を暗くした。

 多分だけど、つまらない話に付き合わせてしまった――みたいな事を考えてるんじゃないだろうか。


「いやいや。確かに前は興味がありませんでしたけど、陽子さんに頼まれて舞台の手伝いをした時から、ちょっと興味を持ったんですよ。だから今は、たまに陽子さんから舞台のDVDとかを借りて見たりしてるんですよ」

「ほほ~う。それはお姉さん初耳だな~♪」

「あうっ……」


 憂さんが楽しげに陽子さんへ視線を向けると、陽子さんはなぜか視線を逸らしてから顔を俯かせた。

 その視線にどんな意味が込められているのかは分からないけど、あまり良い意味合いが込められているとは思えないのは、憂さんの性格や普段の言動を考えれば、想像にかたくない。


「と、とりあえずケーキを食べましょうよ。ねっ? 憂さん」

「あっ、そうだね。食べよ食べよ♪」


 困っている様子の陽子さんを助ける為にそう言うと、憂さんの興味はあっさりとケーキに傾き、そこから三人でのケーキタイムが始まった。


「――ところで龍之介君。君は今、付き合ってる子が居たりするの?」

「へっ!?」


 それまでの会話の流れを無視した唐突な質問に、俺はかなり間抜けな声を上げてしまった。


「だから、龍之介君には付き合ってる子が居るの?」

「ど、どうしてそんな事を?」

「んー、そうだなあ……あえて理由を言うなら、私が気になるから――かな」

「えっ? 気になるから?」


 憂さんは人差し指の腹を口元へ当て、意味深にそんな事を言う。


「ちょ、ちょっと憂先輩!? 何を聞いてるんですか!?」

「何って、付き合ってる異性が居るのか聞いただけじゃない」

「だ、だから、何でそんな事を聞くんですか? 龍之介君が困ってるじゃないですか……」

「えーっ! 好きな人の事を知りたいと思うのは、おかしな事じゃないと思うけど?」

「「はっ!?」」


 その言葉を聞いた俺は、一瞬で身体が硬直したのが分かった。

 だってさっきの言葉は、誰に確認するまでもなく、俺へ向けられたものだろうから。つまりこれは、憂さんから俺に対する愛の告白と言っても過言ではない。


「それでどうなの? 付き合ってる子は居るの? 居ないの?」

「い、居ませんけど……」

「それなら良かった。それじゃあ、私と付き合ってくれないかな?」

「えっ!? そ、それは……」

「駄目なの?」

「いやあの、そういう訳ではないんですけど、いきなりだから何と言っていいか……」


 まさか憂さんから告白を受けるなんて夢にも思っていなかったから、心の準備なんて微塵もできていなかった。だからその告白にすぐ返答をするなんて、俺には無理だった。


「分かった。それじゃあ今度の日曜日に、舞台が終わったあとで答えを聞かせて。それでいい?」

「は、はい。分かりました……」

「うん、それならOK。それじゃあ、今日はもう帰っていいよ。何か用事あったんでしょ?」

「あ、はい。そうですね……それじゃあ陽子さん、お大事にね?」

「…………」


 陽子さんは俺の言葉には反応せず、じっと憂さんを見ていた。

 そして俺はそんな陽子さんを見て心がざわつくのを感じ、凄くモヤモヤした気分で部屋を出てからアパートをあとにした。

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