第236話・ドキドキのご訪問

 陽子さんに電話をもらってから五日後の十六時頃。ちょうど夕飯の買物に出掛けていた時に、いきなり憂さんから電話がかかってきた。

 そしてその内容は、『龍之介君がよく待ち合わせ場所に使ってるっていう、時計搭の下で待っててほしいの』というもので、憂さんはそれだけを言うと、こちらの返答も聞かずにさっさと通話を切ってしまった。


 ――なんか慌ててたみたいだけど、どうしたのかな?


 本当ならとっとと夕食の買出しを済ませたいんだけど、憂さんにしては珍しく慌てていた様子が気になり、俺は買い物を後回しにして駅前の時計搭へとやって来た。


「来てないのかな?」


 きょろきょろと辺りを見回すが、どこにも憂さんの姿は無い。


「りゅ・う・の・す・け・くーん!」

「のわっ!?」


 その状況にどうしたものかと思っていたその時、急に背後から声が掛けられ、思わず両肩がビクッと跳ねた。


「ゆ、憂さん!? もう、驚かさないで下さいよ……」

「ごめんごめん。まさかそんなに驚くとは思ってなかったから」


 口では謝ってるけど、その表情は悪戯いたずらが成功した子供の様な笑顔だ。そしてこの笑顔を見る限りでは、本気で謝ってるとは思えない。けれどそんな憂さんの笑顔を見ていると、なぜか『仕方ないな』という気分になってくるから不思議だ。

 それにしても気になるのは、憂さんが左手に赤い薔薇が包まれた小さな花束を持ち、右手には小さな箱を持っている事だ。


「まあ、それはいいんですけど。俺を呼び出した理由は何ですか?」

「ああ、そうそう。わざわざ来てもらってごめんね。これからちょっと私に付き合ってほしいんだけど、時間は大丈夫かな?」

「これからですか? んー、どれくらい時間がかかるかによりますけど?」

「そうだなあ、最低でも三十分は居てほしいかな……」

「居てほしい?」

「ああ、それはこっちの話。まあ、一時間くらいって考えてくれればいいよ。どうかな? 大丈夫?」

「まあ、それくらいならいいですけど」

「やった! ありがとね! それじゃあさっそく行こう!」

「えっ? あっ、ちょ、ちょっとまっ――」


 その返答を聞いた憂さんは、すぐにどこかへ向かって足を進め始めた。俺はそんな憂さんのあとに続き、その歩調に合わせる。


「あの、憂さん。どこに行くんですか?」

「ああ。そういえばまだ言ってなかったね。それじゃあ、はいっ!」

「へっ?」


 その質問に答えを返してくれると思いきや、憂さんは唐突に持っていた箱と小さな薔薇の花束を手渡してきた。


「あの、これは?」

「実はね、陽子が一昨日おとといから風邪をひいてるの。それで龍之介君には、陽子のお見舞いをしてほしいんだよね」

「えっ!? 陽子さん、大丈夫なんですか?」

「とりあえず病院には行ったんだけど、陽子ってば今度の舞台の事でかなり張り切ってるから、まだ治ってないのに、『練習する』って言って聞かないんだよ。だから龍之介君にお見舞いに来てもらって、陽子にちゃんと休養する様に言ってほしいんだよね。それに龍之介君にお見舞いに来てもらえれば、陽子も早く元気になるだろうし」

「どうしてですか?」

「どうしてってそりゃあ――」


 そこまで口にして言葉を止め、憂さんは咳払いをした。


「まあとにかく、龍之介君には陽子のお見舞いをしてほしいんだよね」

「そりゃあ、陽子さんにはいつもお世話になってますから、お見舞いには行きたいですけど、どうして俺にお花とかを持たせるんですか?」

「ん? だって、お見舞いに行くのに手ぶらってのもどうかと思うでしょ? だからって突然呼び出した上に、お見舞いの品を買わせるわけにもいかないから、私がしっかりと用意をして来たわけだよ。だけど間違っても陽子の前で、『憂さんが買った物だよ』なんて言っちゃ駄目だよ? こういうのは渡す人と買った人が重要なんだから」

「は、はあ。分かりました」


 憂さんの言いたい事はなんとなく分かる。物ってのは貰う人やそれを手に入れるまでの過程で、嬉しさが倍増したりするものだから。しかしそれは、相手が自分に対して好感度が高い場合の話だ。

 そして陽子さんと俺に関しては、それには該当しないと思える。だけどそれでも、憂さんが陽子さんの為にそうしてくれと言うなら、俺はそれに従うつもりだ。だけど俺の本音を言わせてもらえば、嘘をつくのは後ろめたくて嫌だ。

 そんな申し訳なさを感じながら、俺は憂さんと一緒に下宿先へと向かった。


「――さあ。着いたよ」

「……ここが憂さん達が住んでる下宿先ですか?」

「うん。そうだよ」


 憂さん達が住む下宿先に来たのはこれが初めてだけど、そのアパートを見た俺は、意外だと思った。なぜならその木造二階建てアパートの外壁は、お世辞にも綺麗とは言えないくらいのつたで覆われていたからだ。

 俺のイメージでは、小奇麗でお洒落な感じのアパートに住んでいる――と思っていただけに、このギャップは相当なものだった。


「『ボロアパートだなー』とか思ったでしょ?」

「えっ!? あ、いや、そんな事はないですけど」

「あはは。隠さなくてもいいよ。ここに来た人はだいたい、今の龍之介君みたいな顔をするから」

「えっ? いやその、なんかすみません……」

「謝らなくていいって。ここに住んでる私達だって、ボロアパートだって思ってるんだから。さあ、時間が勿体ないから行くよ」

「は、はい!」


 アパートの敷地内へ入って行く憂さんを見て、俺はとてつもなく緊張をし始めた。なにせここから先は、女子だけが住む花園なわけだから。

 ドキドキと胸を高鳴らせつつ、憂さんの後に続き、ギギギッ――と、建て付けの悪さを感じさせる扉が憂さんの手によって開かれた。


 ――えっ?


 ワクワクしながら玄関へ足を踏み入れると、そこには俺の想像とは全く違う光景が広がっていた。

 玄関前の廊下には、大量の燃えるゴミ袋と、狭い廊下に積み上げられた段ボール箱が沢山あり、ある部屋の扉の前には、何枚もの洋服が雑に散らばっている。


 ――ここって女子寮……だよな?


 俺が抱いていた女の花園の美しいイメージは、入って数秒も経たない内に打ち砕かれた。

 世間ではよく、女子高に居る女子達を男子が見ると幻滅する――なんてたぐいの話を聞いたりするけど、これがそういう事なのかもしれない。


「凄いでしょ? 掃除をしてないわけじゃないけど、公演が近付くとこうなっちゃうんだよね」


 憂さんは苦笑いを浮かべながら靴を脱ぎ、玄関前にある大量のゴミ袋を避けながら廊下へそっと足を上げる。そして俺はそれを見て靴を脱ぎ、同じ様にそっと足を廊下へ上げた。


「私と陽子の部屋は二階にあるから、足下に気を付けてついて来てね?」

「は、はい」


 歩く度に、ギギッ――ときしむ音を立てる木製の廊下。

 その廊下は足を進める場所によっては床が沈み込み、その度に穴が空きそうで恐ろしくなる。そして俺がそんな恐怖を感じている中、憂さんは慣れた感じでどんどん先へと進んで行く。


「ちょっとここで待っててね?」

「はい」


 二階へ上がって廊下を進み、三つ目の扉の前へ来ると、憂さんは右手の人差し指を立てて口元に当て、そう言ってから扉を開けてそっと中へと入って行った。


「あっ、憂先輩。どこに行ってたんですか?」

「ん? ちょっと野暮用でね。それより陽子、すっごい人がお見舞いに来てくれてるよ~」

「えっ? 誰ですか?」

「ふふふ。今から陽子の驚く姿が目に浮かぶよ」

「えー。なんだか怖いですね」


 決して大きな声で喋ってるわけじゃないのに、壁が薄いせいか、二人の会話がわりとしっかり聞こえてくる。

 それにしても、憂さんのあの言い方はいただけない。あんな期待を持たせる様な言い方をして俺が入って来たら、陽子さんをガッカリさせそうだから。


「ふふふ。それじゃあ、ちょっと待っていたまえ」


 その言葉のあとですぐに部屋の扉が小さく開き、そこからちょこんと顔を覗かせた憂さんが、ニヤニヤしながら黙って左手を出し、おいでおいでを始めた。


 ――まったく、何がそんなに楽しいんだか。


 そう思いながら手招きに応じ、俺は扉の前へと歩みを進める。

 そしてそれを見た憂さんは部屋の中へと引っ込み、俺は扉のノブを掴んでそっと扉を開いた。

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