第203話・もしものお話

「龍ちゃん、お茶がいい? それともコーヒーがいい?」

「あっ、それじゃあ、お茶でお願いします」

「はーい♪ ちょっと待っててね~♪」


 久しぶりの水沢家のリビング。

 俺はそこにあるソファーに座り、茜の母親であるあおいさんの問い掛けに答えたあとで短く息を吐いた。そしてなぜ俺が水沢家のリビングに居るのかと言うと、結局追いかけていた茜に会う事ができず、のこのこと水沢家にやって来たからだ。

 しかし先に帰ったはずの茜はまだ帰宅しておらず、それを聞いた俺は出直そうとしたんだけど、久しぶりの訪問という事で碧さんにリビングへと引っ張り込まれてしまった。


「お待たせ~♪ 龍ちゃん♪」

「あっ、ありがとうございます」


 小さな緑色のトレーに湯飲みを二つ乗せて戻って来た碧さんは、それを俺の目の前にあるテーブルに置くと、もう一つの湯飲みを対面に置いてからソファーに腰を下した。


「ところで龍ちゃん、今日は何の用事だったの? やっと私を『お母さん』って呼んでくれる気になったの?」

「あ、いや。残念ながらそうではないですね」

「そうなんだ……はあっ、残念……」


 その言葉通りに、本当に残念そうな表情を浮かべて落胆の溜息を吐く碧さん。碧さんに会うと毎回こんな事を聞かれるけど、本気なのか冗談なのか未だによく分からない。


「ところで龍ちゃん。茜と何かあった?」

「えっ? どうしてですか?」

「だって龍ちゃん、前に茜が落ち込んでた時と同じ表情をしてるから」

「あ~、いや。ちょっと俺がやらかしたせいで茜がヘソを曲げちゃってるみたいなんで、話し合いに来たんですよ」

「なるほど。そういう事だったんだね。納得納得♪」


 俺の返答に対し、碧さんはにこやかな笑顔で頷いた。本当なら怒られたっておかしくはないはずなのに。だけど思い返してみると、碧さんはどんな時でもにこやかで、俺は怒ったところなんて一度も見た事が無い。


「すみません。どうも俺が無神経な事を言っちゃったみたいで……」

「でも、別に悪気があって言ったわけじゃないんでしょ?」

「はい」

「それなら今回の経験を踏まえて、同じ失敗をしない様にすればいいだけよ。人は誰でも失敗をするし、時には取り返しのつかない失敗もするけど、それを経験と知恵で乗り越えて行けるのが人間だから。ねっ?」

「はい。肝にめいじておきます」


 いつもは天然を大爆発させる碧さんだけど、こうして大人な意見や話も聞かせてくれるから、俺はそんな碧さんの事が好きだし、尊敬もしている。


「ただいまー」

「あっ、帰って来たみたいね」


 玄関の方から聞こえてきた声を聞いた碧さんはスッとソファーから立ち上がり、リビングの出入口を抜けて玄関の方へと向かった。


「ええ――――っ!?」


 碧さんがリビングから出て一分も経たない内に、茜の驚いた感じの大きな声が聞こえてきた。


「りゅ、龍ちゃん?」

「よ、ようっ! お邪魔してるぞ」


 リビングの出入口を自然と見れる位置に座っていた俺は、その出入口からちょこんと顔を出した茜に向かって軽く右手を上げた。お互いにぎこちないやり取りだけど、今は仕方ないだろう。


「それじゃあ私は夕飯を作って来るから、龍ちゃん、夕飯は食べて行ってね?」

「あ、はい。ありがとうございます」

「うんうん。茜、龍ちゃんをしっかりともてなしてね?」

「わ、分かってるわよ。龍ちゃん、私の部屋に行ってて、私もすぐに行くから」

「お、おう。分かった」

「あっ、部屋の中はあんまり見回さないでよ?」

「分かってるよ」

「タンスの中を見たり盗ったりしちゃ駄目だからね?」

「そんな事するわけねーだろ!」


 ――まったく……どんだけ俺の事を信用してねーんだ? 本当にタンスの中を覗いたろか?


 そんな事を思いつつも、俺はいつもの様な雰囲気に戻っている事に顔をほころばせた。


「――お待たせ、龍ちゃん。ちょっと手が塞がってるから、ドアを開けてもらっていいかな?」

「分かった」


 茜の部屋に来てから数分が経った頃、この部屋の主である茜がやって来た。

 床に敷かれた空色のカーペットに座っていた俺は、茜の要望に答えて立ち上がり、そっと部屋の扉を引き開けた。


「ごめんね、龍ちゃん」

「気にしなくていいよ」


 茜は俺の返答に『ありがとう』と言うと、部屋にある赤い小さなテーブルにトレーを置いてからコーヒーカップとショートケーキを手に取り、丁寧にテーブルの上へと置き始めた。


「どうぞ」

「サンキュ」


 小さなテーブルの上に置かれたコーヒーカップに手を伸ばし、それを口にする。

 茜が淹れたコーヒーにしてはやや苦味が強いけど、ケーキという甘いお供があるのでこの苦味はありだ。


「茜が淹れるコーヒーは、いつも状況にあった感じでいいな」

「そ、そう? 龍ちゃんならこんな時、どれくらいの甘さがいいのかなーとか考えてるからかな?」

「へえー。いつもそんな事を考えながら淹れてたのか? すげえな」

「そんな事ないよ。長い付き合いだからなんとなく分かるだけだし。それに龍ちゃんも私の好きな物とかよく知ってるから、お互い様だと思うよ?」


 字面にすれば十数年という三文字で終わってしまうけど、その十数年にはとてつもなく沢山の思い出が詰まっている。それはもう、言葉や文字といったもので表す事は難しく、俺という人間を形作っている大切なものだ。


「まあ、そうかもしれんが、俺は茜みたいに上手く気遣えてる自信はないな」

「それは私も一緒だよ。でも、龍ちゃんはちゃんと私の事を気遣ってくれてるよ? だって今日も、私の事を気にして来てくれたんでしょ?」

「あー、そのなんだ……確かにそうなんだけどさ……えっとあの、昨日はごめんな。無神経な事を言っちゃってさ」

「ううん。私こそごめんね。あんな事でいじけちゃって……」


 そう言って顔を俯かせる茜。

 これまでも茜のこういった表情を見る事はあったけど、今回は今までの中でも一番悲しそうに見えた。


「いや、茜が謝る必要はないさ。それに俺もあのあと、茜に同じ事を言われたらどう思うだろう――って考えたんだ」

「そうなの?」

「ああ。それで考えてみた結果、いい気分はしなかったよ」

「そうだったんだ。良かった……」


 その言葉を聞いたあと、茜はほっとした感じの表情を見せながら俯かせていた顔を上げた。


「……ねえ、龍ちゃん。前にこの部屋に来た時の事、覚えてる?」

「前に来た時の事? 茜が風邪でダウンしてた時の事か?」

「そうそう」


 あの時は俺の誤解のせいで、茜にはかなり迷惑をかけたと思う。少なくともあの時は、俺の態度が原因で茜が体調を崩したんだと思っているから、未だにその事を負い目に感じる気持ちはある。


「あー、あの時は悪かったな。俺が変な誤解をしてたから」

「ううん。その事はあの時にちゃんと話してくれたし、もう気にしてないよ。それにどちらかと言うと、話を聞いて嬉しかったくらいだから」


 茜の言う『嬉しかった』という言葉の意味を聞きたいところだけど、今は自重しておこう。話が妙な方向に飛んだら面倒だから。


「そうなのか? それで、どうしてあの時の事を覚えてるか聞いたんだ?」


 茜が何を言いたいのか分からず、俺は首を傾げた。すると茜は再び顔を俯かせ、恥ずかしそうにしながら口を開いた。


「……あの時にね、『もしも龍ちゃんにずっと彼女ができなかったら、可哀相だから私がもらってあげるよ』って言ったの覚えてる?」

「ああー。そういえばそんな事を言ってた気がするな」

「……それでね、もしも、もしもだけど、私と龍ちゃんが恋人になったらどんな感じになると思う?」

「俺と茜が? そうだな……」


 小学生になるまでは『茜は俺のお嫁さんにするんだ!』と言っていた時期があるから、そういうのをまったく想像した事が無いかと言えば嘘になる。

 あの時の茜はやんちゃなくせに泣き虫で怖がりだから、俺がずっと側に居てやらないとダメだと思っていた。しかし小学生になってからは茜が精神的に大人になってきているのを感じ、俺はいつからか、茜をお嫁さんにする――という考えをしないようになった。もう俺が側に居なくても大丈夫だろうと思ったからだ。

 でも正直に言えば、寂しい気持ちはあった。それはもしかしたら、ずっと側に居た相手が離れて行くのを感じていたからかもしれない。


「……まあ、茜は料理は上手だし、いつもはボーイッシュだけど可愛い所もあるし、変な遠慮をしなくていいから、恋人になったら楽しいかもな」

「ほ、本当!? そ、それじゃあ私と――」

「やったね茜! これで龍ちゃんと結婚できるねっ!」


 茜が何かを言おうとした途端、勢い良く開かれた部屋の扉から碧さんが入って来て嬉しそうに茜の両手を握った。


「ちょっ!? 碧さん、何を言ってるんですか!?」

「そ、そうよお母さん! 私は別に龍ちゃんと結婚したいわけじゃ……」

「そうですよ碧さん。今の話だって、もしも俺と茜が恋人になったら――っていう、『もしも』の話なんですから」

「えー!? そうなの~?」

「そうですよ」「そうよ!」


 二人できっぱりそう答えると、碧さんは『なーんだ。凄く嬉しかったのに……』と言ってから大きく頬を膨らませた。碧さんくらいの大人の女性が見せる仕草にしてはとても可愛らしいのだけど、この件に関して頬を膨らまされても困る。


「茜も龍ちゃんをお婿さんに貰った方が良いよ? 絶対に」


 絶対に――と碧さんが言えるほど良い要素を持っているとは思えないだけに、とても申し訳ない気持ちになる。


「そ、そんなの私の勝手でしょ!? お母さんには関係ないんだからっ!」

「そんな事ないよ? 私だって龍ちゃんの事が好きだから、茜のお婿さんになってほしいもん」

「ちょっ!? ちょっとお母さん! 変な事を言わないでよね!」

「別に変な事なんて言ってないもん!」


 それからしばらくの間、茜と碧さんの親子喧嘩――の様なものは続き、俺は口を挟む余裕もなく、ただその様子を苦笑い浮かべながら見ていた。

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