第197話・幸せの瞬間

「はあっ……今日もかったるかったな……」


 桜の花が完全に散ってしまった頃の夕暮れ。俺は大きく息を吐きながら下駄箱で靴を履き替えて外へ出た。

 三年生に進級してからというもの、俺はテストと言う名の地獄に毎日苦しめられている。まあ、俺が苦しんでいるのはどこまでも自分のせいだけど、それにしたってテストの回数が多い。

 確かに大学受験だったり就職だったりと、三年生には色々あるから仕方がないとは思う。それは分かってるけど、それでもこのテスト地獄には眩暈を起こしそうになる。


「龍之介先輩!」


 本校舎の校門を抜けて帰路へ出ると、すぐ後ろから俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


「おっ、愛紗。こんな時間まで残ってたのか?」

「はい。教室でシナリオの制作をしてたら、こんな時間になってました」

「そっか。愛紗は頑張り屋さんだな」

「そ、そんな事ないですよ。私はやる事をやってるだけだから……」


 愛紗はいつも褒め言葉を素直に受け取らないけど、表情はいつも素直さを見せるから、そのギャップがとても可愛らしいと思う。


「そっか。それで、シナリオの進行具合はどうなんだ?」


 いつもの様に素直じゃない愛紗を見ながら、思わず微笑んでしまいそうな表情を引き締める。


「そうですね……多分、三分の一くらいは進んだと思います」

「三分の一か。結構進んでるな」

「そうなんですか? 他のみんなの進行状況が分からないから、自分ではペースが速いのか遅いのか、よく分からないんですよね」

「あー、確かに全員が都合良く集まれる機会は少ないからな。まあ、その辺はこれから改善していくしかないな」

「そうですね。あっ、そうだ。先輩、これから少し時間はありますか?」

「ん? 大丈夫だけど、どうかしたのか?」

「えっと、あの……もし良かったらですけど、少しお茶して行きませんか?」


 普段は愛紗からこんな誘いをしてくる事はほぼ無い。そのせいもあるからだろうけど、愛紗は誰が見ても分かるくらいに恥ずかしそうにしていた。

 そして俺はそんな愛紗の姿を見て、思わず表情を綻ばせた。


「な、何で笑ってるんですか!?」

「えっ!? いやいや、別に笑ってるわけじゃないぞ?」

「いいえ! 絶対にニヤついてました!」


 愛紗はそう言いながら、俺を見て口を尖らせる。

 思わず表情がニヤついた事は自分でも気付いていた。でも、すぐに表情を引き締めたから愛紗には気付かれていないと思ったけど、どうやらバッチリと見られていたみたいだった。


「そんな事ないって、愛紗の見間違いだよ」

「いいえ! 絶対の絶対にニヤついてました!」


 最初に『笑っていない』と言った手前、今更『笑っていた』とは言えない俺は、意地でも笑っていないという事でこの話を突き通すつもりだったけど、そこからしばらくの間、俺達は笑っただの笑ってないだのと、そんなやり取りを繰り返した。


× × × ×


 駅近くにあるワクワクバーガーの二階。

 俺は対面の席に座っている愛紗が新作のハンバーガーを口に運び、それを飲み込んだのを見てから口を開いた。


「美味しいか?」

「はい! 凄く美味しいです♪」


 嬉しそうな笑顔を浮かべてそう答えた愛紗は、手に持ったハンバーガーを再び口へと運んでかぶりつく。

 ここへ来る前に繰り広げた、笑った笑ってないのやり取り。俺はそれを終わらせる為にここへ誘ったんだけど、それなりに嘘をついた罪悪感はあったから、ここでのお茶代はおごろうと決めていた。しかし愛紗は『それはダメですよ』と奢られるのを断ってきたけど、俺は自らの罪悪感を少しでも減らす為、少し強引に奢る形に持って行ったわけだ。

 愛紗には俺の自己満足に付き合わせて悪かったとは思うけど、こうして美味しそうに食べている様を見ていると、奢った身としては嬉しくなる。

 それにしても、愛紗とはこうしてお茶する機会は結構あるけど、本当に美味しそうに、幸せそうに食べてくれるところが好きだ。見ているだけで心がほっこりしてくるから。

 こんな事を愛紗が聞いたら怒るだろうけど、この感覚は例えるなら、ハムスターなんかの小動物が一生懸命に餌を頬張ってるのを見ている感覚と似ている。要するに愛紗の食事風景は、俺にとって癒しを感じさせるわけだ。

 しかしそんな癒しの姿さえ、俺はじっと見る事は許されない。なぜなら愛紗のそんな姿を見ている事に気付かれると、『じっと見ないで下さい!』ってな感じで怒られるから。

 確かに食事してるところをじっと見られるのは嫌だと思うから、俺はまるで臆病な動物の様にしながら、チラチラとその様子を見るくらいにしている。


「もう一年が経ったんですね。先輩と再会してから……」


 美味しそうに食べていたハンバーガーを口から離し、愛紗は静かにそんな事を言った。


「そうだな。そういえば、再会した時に初めて来たのがここだったよな。あっ、しかもこの席って、その時と同じ席じゃなかったっけ?」

「えっ!? 覚えてたんですか!?」

「おいおい。いくら何でもそれくらいの事は覚えてるさ」

「いやあの……だって先輩、高校で再会した時は私の事を覚えてなかったから、きっとこの事も覚えてないんだろうなって思ってて……ごめんなさい」


 確かに再会当初は愛紗の事を忘れていたから、そう思われても仕方ない。だけど、ちゃんと途中で思い出したんだから、そこは許してほしいもんだ。


「まあ、そう言われると反論のしようもないけど。でも、あの時の愛紗が今日みたいに美味しそうにハンバーガーを食べてたのは覚えてるぞ」

「そ、そんな事は覚えてなくていいんです! まったくもう……」


 ニカッと笑みを浮かべてそう言うと、愛紗は俺の思っていた様な反応を返してきた。こういう分かりやすい部分がある事も、愛紗を可愛く思うところの一つだ。


「はははっ。わりいわりい。でも、結構忘れっぽい俺がちゃんと覚えてたのは、愛紗と居た時間が楽しかったからだろうな」

「えっ!? そ、そうなんですか? 別に大した事はしてないと思いますけど……」

「大した事をしてなくても楽しく思えるって、凄い事だと思わないか? それってつまり、自然体で楽しいって事なんだからさ」

「先輩は私と居るとその……楽しいんですか?」

「もちろん。特に愛紗と何かを食べながら話すのは好きだね」

「食事をしながらですか? どうしてです?」


 何かを食べながら――と言う部分が引っかかったのか、愛紗はスッと小首を傾げた。

 思わず口走ってしまったから説明するしかなくなったけど、まあ、この際だからいいだろう。これで怒られたら怒られたで仕方ない。


「まあなんて言うか、愛紗って幸せそうにしながら食べるから、その表情を見るのが俺は好きなんだよ」

「わ、私の顔を見てたんですか? もう……そんなところを見ないで下さい……」


 俺の言葉に顔を俯かせる愛紗。

 まあ普通に考えれば、好きな人にだって食事をしている表情を見られるのは嫌だろうから、愛紗のこの反応は当然と言えば当然だろう。


「えっとあの……わりい。これからは見ない様に気を付けるからさ」

「はい……でも、先輩が私の表情を見るのが好きなら、時々なら見てもいいですよ……」

「えっ? いいの?」

「と、時々ですよ? 三秒以上見つめたらダメです」

「三秒!? ちょっと短くないか?」

「三秒もあれば十分です! それ以上見つめたらお仕置きします!」

「お仕置き!?」


 いったいどんなお仕置きをされるのか想像もつかないけど、ここは素直に頷いておく方がいいだろう。


「分かったよ。三秒以上は見つめないよ」

「それならいいです……そ、それから先輩。今まで私の事を見つめてた罰として、これを奢って下さい」


 愛紗はそう言うと、テーブルの上に置かれている限定メニューの、木苺のシェイクが描かれたチラシを指差した。


「ええっ!? 今までのは無罪なんじゃないのか?」

「いいえ。それはそれ、これはこれですから♪」

「やれやれ、愛紗にはかなわねーな」

「ふふっ♪」


 俺はにこやかに微笑む愛紗を見ながら席を立ち、償いの品である木苺のシェイクを買いに向かった。そして買って来た木苺のシェイクを愛紗に手渡すと、愛紗はそれを本当に美味しそうにストローで飲み始めた。


「さ、三秒だけですからねっ?」

「お、おう」


 とても恥ずかしそうにそんな事を言う愛紗だが、もしかしたら愛紗は、俺が好きだと言ったその表情を見せる為に、わざと『奢って下さい』なんて言ったのかもしれない。まあ、これはかなり都合のいい考え方かもしれないけど、でもそう思うと、今の愛紗がなお一層可愛らしく見えてくる。

 そんな事を考えて心の中でニヤつきながら、俺はしばらく愛紗の癒しの表情を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます