第173話・不吉な始まり

 まだまだ寒さのゆるまる様子が見えない、二月十四日の朝。

 俺は暖かい布団から嫌々抜け出し、窓の方へ近寄ってからカーテンの片側をシャッと横に引いた。すると窓の外から明るく暖かな陽射しが部屋の中へと射し込んできた。

 ここ最近は悪天候続きでどこか気分の晴れない日が多かったけど、今日は本当に珍しく暖かな陽気が窓の外から伝わって来ている。

 本当ならここで、『珍しくいい天気になったな』とか口にするところだけど、今日の俺は天気の良さによる晴れやかさを感じていられる気分ではない。

 その理由は言うまでもないだろうけど、今日がバレンタインデーだからだ。

 今日は望む望まざるに関わらず、多くの野郎共が憂鬱ゆううつな一日を強いられる日になる。そして最近では、バレンタイン撲滅運動と称し、動画でバレンタイン撲滅を訴える集団も居るくらいだ。

 俺はこのバレンタインというイベント自体を否定する気はないけど、それでもこの日本独特のバレンタインの在り方には異議を唱えたい。

 そもそも日本におけるバレンタインとは、女性が男性に対し、親愛の心を込めてチョコレートを渡す――というものだ。そしてこの日本独自の風習が広く浸透した理由が、製菓業界の販売戦略だというのは広く世間に知られている内容だろう。

 そしてこの販売戦略が広く日本に浸透してきたのは、意外にも1970年代後半の事だそうだ。ちなみにホワイトデーは、1980年代前半頃に登場したらしい。

 まあ、チョコレートを扱う会社も品物を売らなければ会社が潰れてしまうのだから、色々な販売戦略を考えるのは当たり前だろう。

 しかし、この日本独自のバレンタインシステムが誕生した事により、いったい毎年どれだけの野郎共が肩身の狭い思いを強いられてきたのだろうかと考えると、涙がこぼれ落ちそうになる。

 これは俺の友達の話になるんだけど、そいつはクラスで自分以外は女子しかいないという高校へ通っているんだが、去年のバレンタインデーに電話でそいつの口から語られたエピソードが、もう聞いていて悲惨だった。

 なんでもその友達は、一個くらいは義理でもチョコを貰えるだろう――などと淡い期待を抱いていたらしいのだが、結局誰からもチョコを貰えなかったらしい。そこまでならまあ、どこにでもあるバレンタインデーストーリーだが、これはその内容が結構キツイ。

 聞いたところによると、そいつは教室で平静を装って本を読みながら周りの様子をうかがっていたらしいんだけど、クラスの女子達は取り出すチョコレートの箱を同じクラスメイトの女の子友達に手渡していたんだそうだ。

 最近はちまたでもよく聞く『友チョコ』というやつらしいが、そいつはその光景を見ながら、ずいぶんと肩身の狭い思いをしていたらしい。

 もしも俺がそいつと同じ状況に置かれたとしたら、きっと学校を早退して家で布団を被って泣いていただろう。ホント、日本の製菓業界は余計なイベントを考え出してくれたもんだ。

 そんなバレンタインデーにまつわるネガティブな話を思い出しつつ、俺は制服へ着替えてからリビングへ下りて行く。


× × × ×


「杏子、大丈夫か?」


 花嵐恋からんこえ学園へ向かう途中、俺は今日何度目かになる問い掛けを杏子にした。


「うん……大丈夫大丈夫…………」


 昨日から寝る間も惜しんで作っていたというチョコレートが入った紙袋を左手に持ち、フラフラとおぼつかない足取りで歩く我が妹の姿は、誰がどう見ても大丈夫そうには見えない。

 杏子はこれでとても凝り性なところがある。だから今年のバレンタインのチョコレートも、相当に張り切って色々な物を作っていた。

 去年のバレンタインなんて、俺はチョコレートの塊から削って作ったという、可愛らしい猫の彫刻の様なチョコレートを杏子から貰ったんだが、あれは完成度が高くて食べるのが本当にもったいないと思ったくらいだ。もちろん食べ物なんだから最終的にはちゃんと食べたが、その猫チョコの姿は今でも俺の携帯の写真フォルダにしっかりと保存されている。


「凝り性なのもいいけど、ほどほどにしとかないと体調を壊すぞ?」

「分かったぁ~、気を付けるぅ~」


 そう言いながら眠そうにフラフラと定まらない歩き方をする杏子を支えながら、俺は杏子と一緒に花嵐恋からんこえ学園へと向かった。


「――くわあぁぁぁ~」


 教室にある自分の席に座った俺は、両手を上に思いっきり伸ばしながら開口一番唸り声を上げた。ご丁寧にも我が妹である杏子を、教室まで送り届けて来たからだ。

 そしてその時に杏子と同じクラスメイトである愛紗から、『先輩も大変ですね』と、ちょっとした同情を頂戴したのだが、なぜかその時の愛紗の表情はとてもにこやかだった。


「ようっ! 龍之介。今日は――」

「言っておくが、お前に貸す金はないぞ?」

「俺、まだ何も言ってないんだけど……」

「何だ? 借金を頼みに来たんじゃないのか?」

「ちげーよ! まあ、小遣いが厳しいのは確かだが……まあ、それはそれとして、俺の用件はこれだ!」


 渡はテンション高くそう言うと、さっきから後ろに隠していた両手を俺の前へと出した。

 するとその手には一つの小さな箱が握られていて、それは俺が見る限り、この時期にはどこのお店にも置いてありそうな感じのバレンタインチョコが入った箱の様に見えた。


「何だ? 『バレンタインチョコを貰った』って自慢でもしに来たのか? だとしたら十秒以内に俺の前から立ち去らないと、無言で腹パンを決めて気絶させたあとで、水洗トイレの便器にその頭を突っ込むぞ」

「お前さあ、そうやって平然と怖い事を言うなよな」

「いーち、にーい、さーん――」


 引いた表情でそんな事を言う渡の言葉を無視し、俺は断罪へのカウントダウンを始めた。


「ま、待て待て!! 違うって! これは女の子に貰った物じゃない! 自分で買ったんだよ!」


 ――自分で買った?


「何でわざわざ自分でチョコを買ってるんだよ? 虚しくないか?」


 俺が哀れみの視線を向けてそう言うと、渡は『違う違う!』と言って自己チョコである事を否定した。


「これはな、お前に渡す為に買って来たんだよ」

「…………」


 俺はその言葉を聞き、身体がピシッと硬直したのが分かった。


 ――今コイツは何と言った? 俺に渡す為に買って来たと言ったか? なぜだ? 何の為にだ?


「……渡、アホも休み休み言えよ?」

「誰がアホだ! 俺は本気だよっ!」

「本気で俺に惚れてんの!?」

「馬鹿言ってんじゃないよ! 最近はな、男友達に送る強敵と書いて『とも』と読む、強敵ともチョコってのがあるんだよ。知らないのか?」

「そんなものは知らん。知っていたとしてもいらん」

「ええー!? そんなこと言うなよ~。せっかく面白そうだから買って来たのによー」


 そう言って渡はグイグイと箱を押し付けてくる。そしてそうこうしている間にも、俺達のやり取りは周りから奇異な目で見られていた。


「分かった! 分かったから落ち着けっ!」

「ふふん。分かってくれたらいいのだよん。そんじゃ、ホワイトデーの三倍返しに期待してっからな~」


 渡は無理やり押し付けた箱を俺が受け取ると、満足した様子で教室を出てどこかへ行ってしまった。

 それにしても、ふざけた事を言う奴だ。あんなセリフは俺が貸してる千円を返してから言えと思う。


 ――にしても、バレンタインで最初に受け取ったチョコが渡からなんて、今年は厄年だったかな?


 とても憂鬱な気分を抱えながら、渡から貰った強敵ともチョコを机の中へと仕舞い込み、俺は大きな溜息を吐き出す。

 こうして俺のバレンタインデーは、不吉な様相を感じさせながら幕を開けた。

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