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「よく頑張りましたね」
凛と耳に届く静かな声。全ての音がシャットアウトされたような感覚。
「近衛さん……っ」
百合の花束を抱えた近衛がそこには立っていた。
別任務だったと告げられてから音信不通だった彼女が今、目の前にいる。
喜びよりも驚きの方が勝り、開いた口が塞がらなかった。
近衛はそんな蒼斗の横を抜けると墓前に花を供えた。
「あなたがあまりにも近衛は何処だって訊くものだから、仕方なく来てあげましたよ」
「仕方なくって……あの近衛さん、借りていたグローブ、お返ししたいんですけど……」
「あぁ……その必要はもうありませんよ」
「え?」
「あれはもうあなたが使っていてください。私にはもう、必要ありませんから」
貸していたことを思い出したのか、すぐに興味が失せたよう目を細めた。
「近衛さん……?」
「この際だからはっきりさせておきますけど、私はあなたを死神と知って治安維持局に潜入し、監視していただけなんですよ」
そよそよと撫でてるような風が、ふいに荒れた。
「瀬戸から聞きました。あなたが何故私を気にかけるのはわかりませんが、私はあなたの思うような人間ではありません」
百合の花弁が風にさらわれる。
「今日はさよならをするために来たんです」
「え?」
「近衛静は実在していません。私が創り出した一つの個体でしかない。必要がなくなればいつでも抹消し、捨て去ります」
――だから、これでお別れです。
まるで突き放すような冷たい言葉。
蒼斗は呆然としながら近衛を見つめれば、至極真面目な面持ちだった。嘘ではない、ようだ。あまりにも唐突すぎて何を言われているのか理解するのに時間を要した。
「近衛さんは、それでいいんですか?」
「いいも何も、何度もしてきたことです。今更どうとも思いません。だから早々に私のことは忘れてください」
忘れてください――その言葉は蒼斗にとって聞きたくない言葉だった。だから、頭で考えるよりも先に答えが出ていた。
「嫌です」
近衛は存在していないのかもしれない。
けれど、蒼斗にとって目の前にいる近衛静は確かに存在している。たとえ偽りのものであったとしても、特機隊で過ごした日々は間違いなく本物で、大切な思い出だ。
「僕は近衛さんを忘れたくないです」
――近衛は君を単なる監視対象としか思っていないよ。
「だって、僕は今の今までずっと、あなたに救われてきました。あなたがいなかったら特機隊で生き延びることができなかったし、早いうちに殺されていたかもしれない。」
――そんなに近衛がいいのか?
「人は誰かの記憶に残らなければ生きていけない。死んでしまったら尚更です」
――近衛さんが羨ましいわね。
「僕は、大好きだったあなたを忘れたくない。あなたが誰であろうと、あの時の思い出をなかったことにしたくない」
近衛の表情が驚愕に色を変えた。予想していなかった蒼斗の告白に開きかけた口を閉ざす。
「このタイミングで突拍子もないことを言うんですね」
「僕は本音を言ったまでです」
「別れの前に、しかも死者の墓前でいう言葉じゃないですけど」
「だからこそですよ。ここで言わないと僕は前に進めない」
「エゴですね」
「えぇ、そうです。僕は自分が思っている以上に自分勝手なんです」
言って後悔するよりも、言わないで後悔するほうがずっと辛い。
「近衛静がいなくなるなら、次は誰になるですか?」
「さぁ、分かりません。私は誰にでもなれますから」
「辰宮と同様に?」
「彼女のように器用にはなれないですよ。強いてカゲロウみたいに、生まれてはまたすぐ土に還るようなものです」
カゲロウは短命で子孫を残す役割を終えると土に還ってしまう。
そんな儚い存在であったからと口にしたくなるが、あまりにも近衛が寂しそうに笑いながら言うものだから、自然と言葉を飲み込んでしまった。
「ありがとうございます」
蒼斗は差し出された細い手と近衛を交互に見遣った。
「今の今まで近衛静として生きていた中でいろいろな男たちに言い寄られてきましたが、あなたといた時が一番楽しかった。あなたの気持ち、嬉しかったです」
蒼斗は礼を言われたことに思わず面食らってしまった。あの近衛が――。
告げる前から終わりを迎えていたこの恋。目の前に手を握ったら、もう本当に別れが来てしまう。
初めから分かっていた結末。蒼斗は名残惜しそうに、小さな手をそっと握った。
「泣かないで」
じわりと目元が滲んだと思えば、頬を伝う涙。
「誰のせいで、こんな……っ」
「こんな非情な女の為に泣く必要ないわ」
あぁ、そうだ。本当に近衛は非情な女だ。
手を伸ばせば届きそうなのに、寸前ですり抜けて、挙句の果てには二度と届かない場所に消えてしまう。
こんな辛い思いをさせられているというのに、愛してしまったから……憎くてたまらないのに憎み切れない。嫌いになれない。
「あなたにはあなたの居場所がある。何があっても絶対に諦めないで」
もう声を発してしまったら、とまらなくなりそうだった。だから何度も頷くのが精いっぱいだった。
蒼斗が片手で乱暴に涙を拭い、鼻をすするようになると、近衛の両手が蒼斗の頬に触れ下を向かせた。
何だと反論する前に、額に伝わるほんの少し温かなぬくもり。瞬きのようなぬくもりが近衛の口付けだと気づきカッと顔が熱くなるのはすぐのこと。
近衛は蒼斗が取り乱している間に手を離していた。
「さようなら、蒼斗さん」
近衛は蒼斗の隣を通り過ぎ墓地を去った。
芝生を踏みしめる音が次第に遠のいていくのに振り返れない――否、振り返らない。
――さようなら、近衛さん。今まで、ありがとうございました。
近衛の気配が完全に消えた。
ついに蒼斗は両膝をつき、拳を握り嗚咽を漏らした。
初めて出会ったときから自分に対する扱いが雑だった。
でも蒼斗をよく見ていて、困っていた時に不器用ながら手助けをしてくれた。
休憩所で会えば、他愛のない話に付き合ってくれた。
自分が特別なんじゃないかと勘違いをしてしまいそうになるくらい、周りと確かに違っていた。
もっとも、それは単なる監視対象だったからという理由であれば綺麗に片付いてしまうが。
締め付けられるような胸の痛みに、これが世にいう失恋かと痛感しながら、蒼斗は静かに涙した。
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