魔鯨討ちの段
景事 禁じられた段
「磯良、神楽に
朗々と語る浄瑠璃の感情と豊かな声色が生み出す拍子が、演ずる役者のいない舞台に響き渡り、心得のある者ならば其の情景を容易く思い浮かべられる程に、篭められた情念の程は深い。
浄瑠璃語りたる太夫のみが吟ずる世界には、常には
素浄瑠璃。と呼ばれる、浄瑠璃語りまたは其れに三味線を加えた、舞台演者なき浄瑠璃だ。華やかに演ずる者の不在は確かに、鑑賞する者へ鮮烈な印象を与える事は叶わぬだろうが、だからこそ浄瑠璃の浄瑠璃たるをもっとも彫り浮かばせる。
舞台
二人が並んで座る程度しか許されぬ空間で語っている老人の姿は、安曇野のものだ。常とは異なる声色は、普段の沈着な彼よりも余程情感に満ち満ちており、得も言われぬ熱と圧が内包されていた。
「おゝ磯良、其の禍々しくも醜き姿。しかして、宿りたる
安曇野の謡う声景色は何処か厳かで、畏敬の感が滲んでいる。そして、此の段、
演目としての筋を物語ではなく、曲節と舞踊を主とした段である。世話物や時代物と異なり、叙情的側面から構成される演目は、物語の筋とは関係なく観るものに特段の感慨を与えるものだが、そも〳〵此の段は人に向けてのものではなかった。
神に捧げる段――其の一方で禁じられた
唐突に差し入った三味線の独特な音色に眼をやれば、
彼の美しさに負けぬ
安曇野も清顕も感じ入っていた。太古の海景、深海より海棲生物を纏わりつかせて顕れた異形の姿を。醜いとまで形容された其れは、しかし未だ人類に及ばぬ存在であり、そしてある意味では神の姿でもあった。
舞台に翳が一つ落ちる。否、正確には三つの翳だ。一つと見えたのは、主遣いの翳が舞台に落ちる電燈に抜群に映えていた故だ。そして、残る二つの翳は影法師其のものの姿であったため、手摺の翳に溶け込んで姿を消していた。左遣いと足遣いは相貌を黒い布に包み隠した
だが、彼らは此の舞台の主役ではない。彼らが繰る、生きているかと錯覚するかのような人形。其れこそが舞台を彩る演者である。
蠢く人形の
常の段には無い、特徴的な歩法は其の歩数までが詳細に伝わっている。あえて醜く彫り出された
式楽たる猿楽、そして傀儡子の技芸、浄瑠璃と三味線が融和した姿は、
祭文の調べに乗せて、操演される人形は呪術的効果を求められたのならば、なるほど日本最古の人形劇とされる
既に浄瑠璃語りが謡う言葉も意味を無くし、
人形遣いが舞台を強く踏み、太夫の声色が潮に灼かれるが如くに
かくも厳美な
安曇野の声が不意に止まった。
まだ余地を残されている
神とは
八百万の神々は鎭まっているからこそ、人に福をもたらすモノ。不用意に完遂させれば、荒神の怒りに触れる
だからこそ、神を
「素晴らしい
踊り狂っていた人形は、既に
もっとも激しい動きを見せていた人形遣いの荒い吐息が、舞台を支配していた。特に目立った息を乱しているのは、しとどに汗を流している主遣い――熱田大義であった。
「海上警備の業務遂行、お疲れ様でした。重傷者も出なかったと聞いて安心しています」
安曇野は、控えていた東堂から手渡された手拭いで仄かに浮かんだ汗を拭った。着座しての語りとはいえ、心身の全てを叩きつけるが如き演目は、動きの大小に関わらず、演者に相当の負担を強要する。況してや、
「はい……。恐れ入ります」
荒い息混じりに大義が答えた。主遣いとして特段の負担を強いられた大義の身体からは、至る所から光る汗が
枯れ痩せていく一方の安曇野には望むべくもない、若さ弾ける健康美は、しかしかつての彼にもあったものだ。
今では掠れて攫われてしまった己の頃に思いを馳せつゝ、老人は
「一度、攻撃を受けたそうですね」
「はい。漁船に偽装した軍船でした。現地滞在の工作員を輸送していたようです」
黒衣の亀屋頭巾を上げて、今度は石動が答える。
イソラ
足遣い、左遣いを経て主遣いを担うのが、通常の流れであるのだが、主遣いを演じて初めて他の二役について思い当たる事がある。彼が左遣いを演じたのは、平素ではできぬ其の工夫を試してみたくなったからだろう。
大義としても、常には無い演じ易さに石動の確かな
「ふむ。……であるならば、其れは特殊工作員――簡単に言えば、荒っぽい仕事専門の工作員であった可能性が高いですが、あまり優秀ではなかったようですね。何を目的としていたかは聞き出せましたか?」
「強情な者ばかりですが、どうやらテロを仕掛けるつもりだったようです。船の中には武器や弾薬、爆発物の類が密かに摘まれていました」
日本語を理解していないわけではなさそうだが、多少の拷問では口を割りそうにない男達だった。いや、むしろ、喋る事で、一族郎党
「おそらくですが、彼らは自らの親――駐在工作員の正体も知らされていないのでしょう。水面下の脅威を掃き取る事はできましたが、目的に関しても現地で知らされる手筈だったと見て間違いありません」
丁寧に汗を拭き取った手拭いを東堂に返し、老人は断言する。一刀両断の判然ささえ伴った其の響きには、一切の曖昧というものが存在せぬ、確信を以っての発言である事を窺わせた。
「何故、其処までおわかりで?」
足遣いを務めていた勲が尋ねるのも頷ける。安曇野の自信に裏打ちされた声は、いくら確信があったとしても不自然な程に揺るぎの要素が見えなかったのだから。
「簡単な話です。そも〳〵、駐在工作員が此のような入国をするのは考えられません。彼らは基本的に
訥々と語る安曇野の説明は簡潔であったが、其れ故に呑み込みやすく、各自の胸の内に沁み入った。
「特定秘密保護法――事実上の海外工作員への密告者防止法ですが、勿論完全なものではありません。軍事、産業への諜報活動を防止する法こそありますが、其れでも外国人に対する防護としては無きにしも非ず程度です」
此れこそ、マスコミが牛耳られた日本という国の
「尤も、日本国からの委託契約は終了しました。しかし、良い頃合いではありました。我らの
目的、と老人が口にした途端、若者達は眼光を刃の如くに鋭くした。――老人の隣に坐っていた清顕もまた、鞘に収まった刀が、其れでも霊気の程を隠しきれぬように、瞼という鞘の内の眼光を光らせていた。
「第九の呪い……」
大義の呟きが、
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