魔鯨討ちの段

景事 禁じられた段

「磯良、神楽にいざなわれ、いでたる其の姿の凄まじさ。星霜せいそうの時、藤壺、貝、海藻の絡まるおどろおどろしさ、まこと奇怪の一言に尽きにけり」


 しんと鳴るが如き、沈黙の底で浮かぶ舞台がある。上がる者の足元をひた隠す手摺が寄席よせ側に配置された舞台は、此の舞台の主役が演者ではない事の証左か。


 御簾内みすうちにはいて然るべきの囃子はやし――笛、太鼓、鐘、鼓他――の姿は無く、虚空にたゞ翳を灯すのみである。幕は開いてはいるものゝ、観る者のいない舞台がうろたる沈鬱に包まれているかと言えば、逆だ。


 朗々と語る浄瑠璃の感情と豊かな声色が生み出す拍子が、演ずる役者のいない舞台に響き渡り、心得のある者ならば其の情景を容易く思い浮かべられる程に、篭められた情念の程は深い。


 浄瑠璃語りたる太夫のみが吟ずる世界には、常にはあらぬ調べや言の葉があれども、聞く者の耳の内へと滑り込む神通力があった。むしろ、舞台を彩る人形や共に音景色で心情を描き出す三味線が無いからこそ、却って太夫の生み出す情景が色濃く心身に沁み入る。


 素浄瑠璃。と呼ばれる、浄瑠璃語りまたは其れに三味線を加えた、舞台演者なき浄瑠璃だ。華やかに演ずる者の不在は確かに、鑑賞する者へ鮮烈な印象を与える事は叶わぬだろうが、だからこそ浄瑠璃の浄瑠璃たるをもっとも彫り浮かばせる。


 舞台上手うわて、客席にせり出す形で狭い舞台が存在している。其処が太夫と太棹がしのぎを削るゆかである。


 二人が並んで座る程度しか許されぬ空間で語っている老人の姿は、安曇野のものだ。常とは異なる声色は、普段の沈着な彼よりも余程情感に満ち満ちており、得も言われぬ熱と圧が内包されていた。


「おゝ磯良、其の禍々しくも醜き姿。しかして、宿りたるたまの美しさよ」


 安曇野の謡う声景色は何処か厳かで、畏敬の感が滲んでいる。そして、此の段、たして尋常のものであるかと言えば、否である。基本を崩し、時折、調子こそあるものゝ、完全に意味の取れない語りが入る。情感が篭められているからこそ、其の奇怪さは目に映るほどに判然と浮かび上がっていた。


 景事けいごと


 演目としての筋を物語ではなく、曲節と舞踊を主とした段である。世話物や時代物と異なり、叙情的側面から構成される演目は、物語の筋とは関係なく観るものに特段の感慨を与えるものだが、そも〳〵此の段は人に向けてのものではなかった。


 神に捧げる段――其の一方で禁じられたとして伝わる、演目だった。密やかに太古より継承されていた此の段は、現代に於いて、遂に其の意味が暴かれた。


 たけいななきの情感が弦を震わせ、安曇野の語る情感と綯い交ぜとなって、幽玄ささえ伴う美しさとなって顕現した。其れは、時間を切り取る芸術ではない、流れる時を惜しむ叙情の世界の事象となって、婀娜あだな色気すら孕んで、妙なる夢幻の情景を映し出していた。


 唐突に差し入った三味線の独特な音色に眼をやれば、かみしもを着た盲目の美青年が、悩ましい表情で弦をかき鳴らしていた。


 彼の美しさに負けぬ太棹ふとさおの音色は重みの中にも悠久の奥行きを感じさせる。瞑目したまゝの清顕が弾く――と呼ぶよりもいっそ叩くが如き太棹のこえは、安曇野の渋みの効いた響声と時に競い、時に手を結びながら一縷いちると化す。


 安曇野も清顕も感じ入っていた。太古の海景、深海より海棲生物を纏わりつかせて顕れた異形の姿を。醜いとまで形容された其れは、しかし未だ人類に及ばぬ存在であり、そしてある意味では神の姿でもあった。


 舞台に翳が一つ落ちる。否、正確には三つの翳だ。一つと見えたのは、主遣いの翳が舞台に落ちる電燈に抜群に映えていた故だ。そして、残る二つの翳は影法師其のものの姿であったため、手摺の翳に溶け込んで姿を消していた。左遣いと足遣いは相貌を黒い布に包み隠した黒衣くろこの姿で、照明を殊更に反射する主遣いの貌だけがぽっかりと浮かんで見える。


 だが、彼らは此の舞台の主役ではない。彼らが繰る、生きているかと錯覚するかのような人形。其れこそが舞台を彩る演者である。


 蠢く人形のかしらは、不可思議な事に人間を模したものには見えぬ。おどろに乱れた髪に磯の一部と見紛う数々の貝や藤壺が貼り付いた姿は――奇しくも、浄瑠璃語りと太棹が謡う不可思議たる存在の似姿だった。


 常の段には無い、特徴的な歩法は其の歩数までが詳細に伝わっている。あえて醜く彫り出されたかしらおどろ〳〵しさとは逆説的に、人形は優雅で複雑な舞いを狂い踏む。其処に、濡れた乱れ髪を振り乱しての舞いは、神楽に誘われて海底より顕れいでたる姿が見えるのは、人形遣い達の巧みな操演故か。


 式楽たる猿楽、そして傀儡子の技芸、浄瑠璃と三味線が融和した姿は、蛭子命ひるこのみことの神霊を慰撫する人形戯が基となったとされる俗説がある。だが、かつての古神道で神や精霊の形代として、人形ひとかたという祭具が用いられたのは偶然ではないだろう。


 祭文の調べに乗せて、操演される人形は呪術的効果を求められたのならば、なるほど日本最古の人形劇とされる細男舞せいおまいが神事である事も頷ける。


 須臾しゅゆに満たぬ時の中で舞台は夢幻となり、そして情感の奥行きがごうと化して悠久に等しくなる。


 既に浄瑠璃語りが謡う言葉も意味を無くし、バチを叩きつけた太棹ふとさおこえを上げて哭き、人形は醜い男形というのに艶さえ伴って、傾国の踊り子もかくやといった舞いを見せつける。


 人形遣いが舞台を強く踏み、太夫の声色が潮に灼かれるが如くにしゃがれ、三味線の弦が血を吐く勢いで鳴り響く。


 かくも厳美な景事けいごとは、もはや不協和の域に達する程に狂い舞われているというのに、霊妙な符合を見せながら峨々ががたる神の頂きに届けとばかりに最高潮へと登り詰めていく。狂乱たる乱数的な動きは、其れ故に醜い人形を逆説的な美しさにいざなって――そして。


 安曇野の声が不意に止まった。


 まだ余地を残されているは、其れで中断された。しかし、何故と問う者がいよう筈もない。本来、禁じられた段である演目、神を降ろす段なのだ。


 神とはおそれ、人はかしこみ申し上げる立場に過ぎない。

 八百万の神々は鎭まっているからこそ、人に福をもたらすモノ。不用意に完遂させれば、荒神の怒りに触れるおそれがある。


 だからこそ、神を起こすヽヽヽ前に安曇野は口を閉ざしたのだ。空中分解を起こしたは、速やかに現実という永劫へと雲散霧消し、其れが伴っていた神々しい霊気もまた大気に溶けていった。


「素晴らしいでした。君たちの熱の程がに乗り移り、熱狂の内に完結するかのような……だからこそ、此処で止めるしかありませんでした」


 踊り狂っていた人形は、既にこうべ/かしらを垂れていた。其の様子に死人の気配が匂い立っていたのは、動く事こそが生命が生命たる所以であり、時の流れこそが生命と呼ばれる物の正体であるからなのか。


 もっとも激しい動きを見せていた人形遣いの荒い吐息が、舞台を支配していた。特に目立った息を乱しているのは、しとどに汗を流している主遣い――熱田大義であった。


「海上警備の業務遂行、お疲れ様でした。重傷者も出なかったと聞いて安心しています」


 安曇野は、控えていた東堂から手渡された手拭いで仄かに浮かんだ汗を拭った。着座しての語りとはいえ、心身の全てを叩きつけるが如き演目は、動きの大小に関わらず、演者に相当の負担を強要する。況してや、矍鑠かくしゃくとしているとはいえ、安曇野も老体である事は変わらない。むしろ、あれ程のを謡って……となると、致し方ない。


「はい……。恐れ入ります」


 荒い息混じりに大義が答えた。主遣いとして特段の負担を強いられた大義の身体からは、至る所から光る汗が滂沱ぼうだと流れ、着物に沁み入った汗の滲みが青年期の眩しさと混じり合っている。


 枯れ痩せていく一方の安曇野には望むべくもない、若さ弾ける健康美は、しかしかつての彼にもあったものだ。

 今では掠れて攫われてしまった己の頃に思いを馳せつゝ、老人は櫻冑會おうちゅうかいを担う若者達を睥睨する。は舞台よりも高みにあるとあっては、自然と大義ら人形遣いは老人を見上げる構図となる。


「一度、攻撃を受けたそうですね」

「はい。漁船に偽装した軍船でした。現地滞在の工作員を輸送していたようです」


 黒衣の亀屋頭巾を上げて、今度は石動が答える。


 イソラ參號さんごう艇榛名丸の主遣いである彼もまた、人形遣いとしての修行を受けていたのだ。平素なら主遣いを務める筈の石動だが、今回は左遣いを務めていた。


 足遣い、左遣いを経て主遣いを担うのが、通常の流れであるのだが、主遣いを演じて初めて他の二役について思い当たる事がある。彼が左遣いを演じたのは、平素ではできぬ其の工夫を試してみたくなったからだろう。


 大義としても、常には無い演じ易さに石動の確かな業前わざまえを文字通り体感し、其の確かさを思い知らされていた。


「ふむ。……であるならば、其れは特殊工作員――簡単に言えば、荒っぽい仕事専門の工作員であった可能性が高いですが、あまり優秀ではなかったようですね。何を目的としていたかは聞き出せましたか?」

「強情な者ばかりですが、どうやらテロを仕掛けるつもりだったようです。船の中には武器や弾薬、爆発物の類が密かに摘まれていました」


 日本語を理解していないわけではなさそうだが、多少の拷問では口を割りそうにない男達だった。いや、むしろ、喋る事で、一族郎党鏖殺みなごろしの憂き目に合うなど、想像するだに怖ろしい事態を引き起こす事になるのやもしれぬ。


「おそらくですが、彼らは自らの親――駐在工作員の正体も知らされていないのでしょう。水面下の脅威を掃き取る事はできましたが、目的に関しても現地で知らされる手筈だったと見て間違いありません」


 丁寧に汗を拭き取った手拭いを東堂に返し、老人は断言する。一刀両断の判然ささえ伴った其の響きには、一切の曖昧というものが存在せぬ、確信を以っての発言である事を窺わせた。


「何故、其処までおわかりで?」


 足遣いを務めていた勲が尋ねるのも頷ける。安曇野の自信に裏打ちされた声は、いくら確信があったとしても不自然な程に揺るぎの要素が見えなかったのだから。


「簡単な話です。そも〳〵、駐在工作員が此のような入国をするのは考えられません。彼らは基本的に正式ヽヽな方法で入国します。駐在工作員は現地での要です。少しでも疑わしい動きを見せてはいけません。よって、最新の注意を払って偽装をし、正式に入国するわけです。密入国などの入出国の情報を残さぬ不正規手段は、いずれ必ず露呈し命取りとなります。密入国する輩がまともな手合いである筈はありませんからね」


 訥々と語る安曇野の説明は簡潔であったが、其れ故に呑み込みやすく、各自の胸の内に沁み入った。


「特定秘密保護法――事実上の海外工作員への密告者防止法ですが、勿論完全なものではありません。軍事、産業への諜報活動を防止する法こそありますが、其れでも外国人に対する防護としては無きにしも非ず程度です」


 此れこそ、マスコミが牛耳られた日本という国の世論ヽヽが導き出した答えだ。体内の寄生虫に蝕まれて重篤の姿を顕わとした国は、更に外から更に毒を注入されているのだ。外患内憂などという言葉では到底言い表せぬ、半死人然とした祖国。彼らは救おうと立ち上がったのだ。古代よりの力、イソラを遣って……。


「尤も、日本国からの委託契約は終了しました。しかし、良い頃合いではありました。我らの目的ヽヽ、其の一歩目が基地の襲撃だったとすれば、二歩目はまさしく今回の業務だったのですから」


 目的、と老人が口にした途端、若者達は眼光を刃の如くに鋭くした。――老人の隣に坐っていた清顕もまた、鞘に収まった刀が、其れでも霊気の程を隠しきれぬように、瞼という鞘の内の眼光を光らせていた。


「第九の呪い……」


 大義の呟きが、ごうの時の流れに押し流され、そして粉々に砕けて消えた。

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