○ りんご

 一口かじると、気分がスッキリとした。

 もう一口かじると、急に視界が開けたような感じがした。

 さらにもう一口かじると、頭の中で光が弾けて、数え切れないほどのことが明らかになった。

 ケプラーが星々の運動を真円で説明する為にどれほどの努力をしたか。すなわち、彼がどれほど神を愛していたか。

 アレクサンドリア図書館の風通しのいい中庭で行われるわずか半日の討論が、二千三百年後に某先進国で学生が受ける四年分の講義より遥かに充実していること。

 ウミガメが涙を流すのは眼球の乾燥を防ぐ為でなく、子供たちを待ち受ける過酷な試練を思ってのものであること。

 点Pは何の為に辺ABを往復するか。

 世界大戦の責任は誰と誰と誰にあり、そのうち誰と誰と誰が正当な裁きを受けずに生き延びたか。

 ラスコーリニコフに自首を決意させた決定的な要因は何だったか。

 飛魚のアーチをくぐって宝島に着いた頃、お姫様が誰と腰を振っていたか。

 今後予定されているたくさんの悲劇を防ぐ為の正しい行動とその期限、成功する確率。

 瞬く間にあらゆることを蓮太郎は理解した。ベータエンドルフィンが力強いドルフィンキックで脳髄の海を泳ぎ回っている。

 全てを把握し、高速で正確な計算と検算の末に導き出した結論は、この頭脳のまま生き続けるのは辛過ぎるということだった。

 覚悟が足りていなかった。

 ただちに覚悟を決める胆力もなかった。

 受け止める器がなければ、知恵は猛毒である。

 蓮太郎は素早く喉の奥に指を突っ込むと、川の流れにりんごを吐き出した。

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