バイゼロン 共和国協定千四百三十八年白露降

 人口八千をやや下回るバイゼロンは豊かな農業の町だった。

 山からの川の水が絶えることなく、日照りは豊かで、土地はよく肥えていた。

 アペルディラやシェッツンという職人町を控え、派手さはないがマリンカーと並んで豊かな農業の町として地域を支えていた。

「案外近かったわね」

 沢で休憩を取るまでの苦労やその後の爆発寸前の態度を忘れた様子でリザが言った。

「――で、どこいくの」

「町役場だよ。地図が見たいだろ」

「そうね」

 バイゼロンの町長ボウゼルは、略綬をいくつもつけた隊長級と思しき女性軍人が突然現れたことで驚いていた。

 アペルディラには軍人会があるが、バイゼロンには軍人が興味を示すようなものはなく、税は定期的に収めているはずだった。

 だが彼女たちの目的が、街道経路の測量にある、という説明で町長はある程度納得した。

 二人がいかにも水浴びをしたあとの、旅の埃が張り付いた様子や生乾きの靴の匂いで、土地の者たちが鏡野と呼ぶシェッツドゥン砂漠を抜けてきた、ということがわかったからだ。

 腕自慢の荒くれを気取る早馬がぬけたり、シェッツンの陶芸家が釉薬の原料を求めて砂漠に入るということは、よくあることで珍しいことでもなかったが、女軍人が北回りに東側から越えてくるというのはちょっと珍しいことだった。

 気象の変化が西から起こることの多いシェッツドゥン砂漠では、当然に出立の日の天候を選べ砂漠の先の天気が読みやすい西から入ることが多い、というのは早馬にとっては、命懸けの賭けを勝ちやすくするための常識であったし、旅人を見送る側にとってもある程度の常識であった。

 山の此方側は、天気が必ずしも安定していないため、下るに下れず険しい道を踏み外すこともある、という町長の説明に、初めてこの地に足を向けたらしい軍人は少し驚いた様子でもあった。

 如何にも軍人らしい杜撰な豪胆さに町長は内心呆れつつ、冒険に成功をした強運を喜び薄く微笑んだ。

 バイゼロンの町の管轄区は、ラゥルゥ山脈の西側で例外的に塩野原への入り口の峠道を商業路線として管理しているが、道にカネを払うことを嫌う連中が、沢の崩れた跡やその北側に通じる峠道を使うということだった。

 塩野原への有料道は、シェッツンの陶芸家たちにとっては、材料を手堅く手に入れるための道のりで、道を整備してくれるとあれば、無理のない範囲でカネを払うことは吝かではなく、むしろそれで事故が減るならいっそありがたい、とバイゼロンの施策に協力をしていた。

 そのことは現金による蓄えを確保しにくい農村にとっては、貴重な現金収入の機会である。

 一方で塩野原の採掘所は、結晶の色艶形という採掘を巡る争いや季節ごとの氾濫現象のために、事故が多い土地で、バイゼロンとしても対処に頭を悩ませているという。

 鏡野を横断する鉄道と称する大型の駅馬車の設定を考えている、と云う女士官の話に、ボウゼルは前にも幾度かそういう話はあったんですがね、と憐れむような諦めたような気の毒そうな複雑な顔をして見せた。

 型示通信塔も軍の計画の一環として建てられたが、結局軍が運用することはなく、塩ノ原への有料道の関所と麓との連絡をおこなうために使われているという。

 見晴らしは良いのだが、ともかく雨季になると天候が不安定で通信塔を一年維持することが難しかった。

 ウラゥルゥ山地の東側の土地の所有について尋ねると、驚くことに誰の土地でもない、誰も管理していないことになっていると説明した。

 元来、州としてアペルディラが管理する建前なのだが、過去にアペルディラは共和国への税負担の減額を求めて、地積を小さくするという荒業に出た。

 そのときに切り捨てられた土地がシェッツドゥン砂漠鏡野盆地で、共和国には直接地税を徴収する機能はなく、住民税や企業法人税は州に収めることになっているので、アペルディラは国に地税を払わず、商業税だけ手に入れて丸儲けということになっている。

 結果として無法の地を作った。

 そのことがバイゼロンの困惑の種でもあるのだが、ともかく鏡野盆地はアペルディラには属しておらず、共和国には直接的な司法行政治安機構がないために、どこの司法行政管理下でもない。ということになっている。

 そのことが、鏡野盆地を走る予定だった型示通信の管理者を誰にするのか、という問題のトドメに繋がった。

 現在も、塩野原の採掘場では様々な事件事故が相次いでいるが、アペルディラの司法行政は管轄外の地域のこととして無視を決め込んでいる。

 このことにデカート州をはじめ、幾つかの州自治体が懸念を表明しているが、直接的な動きには今のところ繋がっていない。

 マジンが鏡野盆地の北部の測量結果を示し、相応に実績を積みながら移動していたことを知ったボウゼルは、地元の州のだらしない体制が未だに改められないことに憤りを隠せないようだった。

 その勢いのまま町長は、いっそ軍でもデカートでもが司法行政権を確立してしまえば面倒も減るだろうに、と零した。

 現実、鏡野盆地で起きている刃傷沙汰は少なくなく、盆地の氾濫直後の質のいい結晶の採掘を妨害するために、関所の目の前で事件を見せつけるようにおこなわれることもある。

 悪いことに麦の刈り入れの忙しい時期に、鏡野盆地の氾濫或いはお磨きと呼ばれる一週間ばかりの短い雨季があって盆地に薄く水が張り、その後ひとつきほどで緩やかに再結晶するのだが、その乾いた直後から縄張り争いがはじまるという。

 当然に自警団の出番となるわけだが、最初からその気の無法者と兼業農家の自警団では、やる気と腰のすわりで押し負けることも多い。

 土地の者としては舐められてなるものか、という面子の問題もあるが、アペルディラ当局は全くの及び腰で仕事をする気がないので、全くうまくいっていない。ということだった。

 そういう意味では二人はマシな時期に来た、とボウゼルは言った。

 まっ平らな磨かれたような盆地が、雨季のしばらくとその前後の合せて半月あまりは大荒れに荒れる。

 竜が暴れるとすればこうなるだろう、と云うほどに雷がそこここに降り注ぎ、遠目でさえ恐ろしい有様であるという。

 それが終わると、しばらくして鉱夫たちが殺気立つ時期が来る。

 街の連中もよそ者に警戒を強める。

 町長として好ましくない流れなのはわかっているが、今のところ処置無しだということだった。

 人を殺すほどに価値が有るのかどうかは実のところわからなかったが、大きな設備も時間もないままに巨大な水和物の結晶が精錬されて、結晶の色形によって見分けがつく成分が、なにかの役に立つとなれば、一種の丹炉のようなモノで眼の色が変わるというところまでは、マジンにも伝わった。

 ソレが霊薬だ、と言われれば、ネズミに与えてから試し給え、と云うべきところだが、陶芸家が使う賢者の石、ということであれば、美術芸術というものがときに人を殺す価値を持ち得ることは、認めざるを得なかった。

 ボウゼルは二人を町役場の敷地にある自分の家に泊めてくれる、と申し出てくれるほどの歓迎ぶりで少々困惑してしまったが、理由がないわけではなかった。

 ボウゼルは軍がバイゼロンに注目することを深く希望していた。

 豊かと言っても、暴力沙汰には脆弱な農業以外に目立った産業のない町では、暴力に対抗するためには、軍なり行政司法なりという権威と実力の後ろ盾が必要だと感じ始めている。

 手近な権威の保安官はといえば、春に起こった関所での銃撃戦で死んだ後に後任が決まっていなかった。

 秋の雨季が近づいたこの時期にあって、騒ぎが起こる可能性は高く、保安官の不在は目下の町の不安材料になっている。司法行政の干渉の少ない、自給自足が可能な家族ぐるみの自由と自立という農業主体の、自治体が描く夢の様なバイゼロンの豊かさは、アペルディラ司法行政当局の責任放棄にも等しい背任、と感じられる措置によって、まさに踏みにじられていた。

 シェッツンの町長マサイラゥも、バイゼロンで起きた保安官の殉職、という事件の展開には大きく動揺したが、人道と礼節をわきまえるように、と陶芸職工の幾つかの組合に訓示を示したのみで、それ以上の実効ある措置をとることはできなかった。シェッツンにしたところで、町の外に出た者達の動向を追いかけられるほどに、人材豊富な組織体制であるわけではなかった。人口四万五千の陶芸職工の町と言うのは、そこそこ以上に大きいとも言えたが、二万の農民と二万の職工とその家族がいて、三千の商人やその他の人が様々に出入りしている、というに過ぎず、戸数で五千を超えることのない町だった。陶芸の盛んな街といっても、一皮むけば結局はちょっと文物豊かな農村の寄合というだけの街に過ぎない。保安官が五人いて、役場主導の百人規模の自警団が十ある、と言っても町の外に出せば、ただの愚聯隊と変わらない連中だった。

 州都であるアペルディラは、戸数八万の規模の街に、公称一万人の郷土騎士団という名の民兵組織を抱えていた。公僕はすなわち率先して郷里を守るべし、という題目で元老議員と司法行政の公務員全てが騎士団員ということになっているわけだが、時代錯誤の甲冑武者に連発銃を備えさせても、訓練不足でまともな部隊編成もなく、戦力として扱いようもない組織だった。

 名前と題目と装備と現実の乖離は、団員の高齢化によって推し進められ、実務から引退すべき騎士団員によって、司法行政の公務が滞るという事態に発展していた。

 今のところアペルディラは、共和国軍の砲兵用の時計製造を殆ど一手に引き受けている職人町であったから経済的に豊かで、浮浪者に至るまで凍死や餓死が出ないような状況だったが、ここしばらく軍とは折り合いが悪く、国費国税の滞納や戦争税の要求に対する抵抗などの動きをみせている。

 デカートが金銭物資の協力は惜しまない一方で、軍の報告の詳細や審問を要求しているのに比べると、こちらは端から対立的な姿勢を見せていた。アペルディラ製の新型装備の納入が軍に拒否されたから、ということのようだったが、意図の詳細は遠くバイゼロンの町長には不明だった。

 アペルディラの工房が、軍の騎兵向けにパーカッションロック式の多銃身銃を提案して却下されたのは事実だった。

 独自口径の二十シリカの銃弾を使う騎兵銃として提案がされていたが、独自口径の銃弾であることや、四本の銃身を束ねている都合、銃が重く四発ともに癖が違い的に当てることが難しく、威力の上でも同時期に登場した金属薬莢銃に比べて劣る、という点で却下されていた。一本の引き金で四本の銃身の口金を順番に落とすのだが、その順番が外からわからないという点も、シリンダー式に比べて面倒くさいとされた。

 アペルディラの郷土騎士団は、その騎兵銃を二千丁ほど装備していた。当初の予定では数万の生産の予定で、シェッツンやバイゼロンなどの周辺の自治体の自警団にも配備される予定だったが、様々な理由で画餅に終わった。

 だが根幹のところで、アペルディラの工房では万を超えるような小銃を営々と作れるような大きな鉄砲鍛冶の工房はなかった。十数万丁の軍からの注文を当て込んで、後に投資を見込んで、という計画で、それ以上の根拠があったわけではない。

 つまりはアペルディラの鉄砲産業の生産体力の方に問題がある。

 そういう話題だった。

 しかしそう云った画が描けるほどには、アペルディラに鉄砲産業の芽がないというわけでもなかった。

 アペルディラのコートラスミツといえば、拳銃では知られた鉄砲工房で、鉄の薬室を青銅のシリンダーで固めることで安く精度の高い、半ば使い捨ての耐久部品としてシリンダーを生産していて、それを真似た工房が十ほどもある。軍用の回転式騎兵銃に対応したシリンダーも生産していて、そちらの納品は今も続いている。話を聞いているうちに、モイヤーとガーティルーの拳銃が、まさにコートラスミツの作であることがはっきりした。

 騎兵銃の問題は様々な表現ができるが、三十五シリカという銃口規格が定まったマスケット銃を各地の師団が手近な鉄砲鍛冶から買い揃え、自らの好みの拳銃を士官が自弁で気ままに買い揃えることの意味を取り違えたまま、売り込まれた銃であるようにも感じられる。

 三十五シリカ連装のほうが良かったんじゃないだろうか、と口にすると、それは既に少数が納入されて、評判も悪くなかったということだった。

「それで軍に対して逆恨みしているのかしら」

 リザが不思議そうに口にした。

「というよりは、一儲けを当て込んで吹き上がったバカが、無能の言い訳のダシに軍を使っているという程度だろう。だから連中には自分たちの悪意の自覚はない。それどころか軍が様々な計画を途中で投げ出す無責任について、正当な糾弾をしているつもりになっている。だから今の軍の苦境も、良いザマだ、という空気の連中が多い」

 ボウゼルが肩をすくめるように言った。

「救われないですわね」

「もちろん、アペルディラの時計職人にとっては、軍は大きなお得意様だから、軍人を吊るして殺せ、っていう雰囲気であるわけでもない。せいぜい生意気な連中が苦しんでいるのを、薄ら笑いで楽しもうって腹でしょう」

 ボウゼルが口にした言葉にリザが薄笑いを浮かべた。

「敗残兵をあざ笑う田舎者って正直良くある話だけど、戦況が逆転しつつある今、このまま共和国軍が帝国軍を押し返しちゃったらどうするつもりかしら」

「どうもせんでしゃろな。せいぜいお祭りが終わったか、という程度じゃないかと」

「デカートとしてはどう思う」

 バカバカしそうに口にしたボウゼルの言葉に鼻でため息を付いて、リザはマジンに話を振った。

「有意義なお話を伺わせていただいた、と思っている。人員の話は当然にあるが、デカートが盆地全域を領分とするために、地積応分金を負担することを働きかけてもいいと思う。今は南の端での揉め事で収まっているようだが、戦争が終わればこの先広がるのが目に見えている。ボクの事業にとっても極めて危険な状態だ」

 マジンは元老としての立場も合わせて口にした。

「技師さんのおっしゃることはどういうことですか」

 軍人がその場雇いか軍属の測量技師を連れていたもの、とばかり考えていたボウゼルは、不思議そうにリザに尋ねた。

「こちらの、ゲリエ卿はデカート州元老院議員でもあられます。ヴィンゼにお住まいの議員には、軍が兵站業務で深く大きくお世話になっています。この度はヴィンゼとアペルディラとをつなぐ鉄道連絡線事業計画の可能性を、実地の測量で確認するために、アペルディラまでおいでになる途中でした。共和国軍としても大きな興味のある事業計画ということで、同行させていただいています。突然の訪問に快い歓迎を頂き、バイゼロン町長には感謝いたしております」

 少佐のおつきの技師と思っていたら、少佐が技師の警護だったということでボウゼルは目をむいた。

「少佐の部下の方はどちらにおいでですか。現在も測量中ですか」

「参謀旅行のようなもので、今回は同行させておりません。ゲリエ卿の測量技術の手際は驚くもので、先ほどの測量図は卿がお一人で起こしたものです」

 ボウゼルにとって、子供というより孫かもしれないような年若い人々と話すにあたって、軍人という手間の掛からない流れ者、という気楽さで野良猫に餌をやりながら愚痴を云うようにしてしまったが、隣の州の元老に土地の恥をツマミに愚痴る、というのはいかにも軽率であった。気まずくボウゼルの言葉が止まった。

「有料の関を越えるのには、なにか割符免状のようなものが必要ですか」

 ボウゼルの内心を割くようにしてマジンが尋ねた。

「いえ、特には、関を渡るのに一人一タレル。家畜一頭一タレル。行李は車輪一つで一タレルですが、通行免状割符のたぐいは不要です」

「測量はしてもよろしいですか」

「結果をお知らせ頂けるなら、こちらからお願いしたいくらいですが、そうでなくとも別段断る権限もないというのが、件の目下の悩み事でして」

 ボウゼルはそんな風に皮肉に笑った。

 田舎の生活道路というのが関の山の道路を想像していたが、それでも日に五十人からが通うことが珍しくない道ということがあって、それなりに踏みしめられ手入れされた道だった。

 轍やぬかるみが埋められ土留が設けられ、馬なり牛なりに車を牽かせても逸れたり落ちたりしないような努力や作りは、山越えの街道としては上等の部類だと言えた。

 少なくとも機関車が横転して往生するような道ではなかった。

 バイゼロンの多少遅い日の出とともに登り始めると、関を抜ける頃には明るい朝日が目に飛び込んでくる。

 畜獣もなしに軽快に山道を登る機関車に関の番人は驚いていたが、二人で十タレル払えばそれ以上は文句もなくに通してくれた。

 関の番屋は二つあり、番屋の間だけ通用する木簡を免状にして料金をとっていた。そこを無視して通ることは山羊ほどに身軽ならともかく荷駄を通すことは難しかったが、抜けてしまえば峠の盆地側はゆるく、道無き道が広がっていた。

 巨大な砂浜のような砂地の斜面は、往来によって踏み砕かれた石塊が砂になったもののようで、これが毒の砂だと思えば姿勢の低い小さな機関車にとっては余り気持ちの良いものではなかったが、ともかくも昨日の下り坂よりは多少は楽かと諦める気分にもなった。

 この手の鉱夫というものは朝早いか夜遅いものだろうと思っていたが、ここでは夕方、日の傾く頃から黄昏の終わり星が出るまでがひと賑わいであるらしい。

 別に鉱夫に興味が有るわけでないので測量を始めると、起点とした標識から三十リーグを超えているらしく、ここはちょっとした標高があるはずだが五キュビットしか高さのない水準点は地平線の下に隠れてしまっていた。

 代わりに地形を頼りに大雑把な位置を確認してゆくと、水準点から約三十八リーグと出た。

 きちんと水準目標を定めての数字でないので、千キュビットかそこらの誤差があるが、ヴィンゼ方向の向こう側の丘までの距離としては四十三リーグほどで、馬が一気に突っ切るには少々無茶が過ぎるだろう距離だった。

 そのまま丘陵の等高線をなぞるように少し北上して、次の峠口を探るのは下草もない枯れた土地ではそれほど難しいことではなかった。頭の上の雲を眺めると櫛で削ったような雲がかなりの速さで流れちぎれていた。バイゼロン側では多少の雨が降っているかもしれない。

 次の峠からはかろうじて陽炎に溶けるように水準点がみえたが、どうやら水準点をかなり北の方に設置してしまったらしい。

 塩の盆地は下膨れのナスかウリ或いは細いひょうたんのような形をしていて、今回は踏み出しが北東の方に寄りすぎていたようだった。

 バイゼロン側から東のヴィンゼ側を眺めてゆくと、どこも代わり映えのしない目印の少ない地形でヴィンゼ側から考えなしに踏み出すと、盆地の北東部に踏み出し始め、少しゆくと目につく頂きを巻くようにして遠回りをしてしまう。

 ああなるほど。と測量をしながら道のりを思い出し、マジンは反省していた。

 それでも手探りで測量をしてゆくと、バイゼロン側に四つある峠口から一番細いところで十八リーグ、どういう風に走っても六十リーグを超えるような幅はなく、馬にとっては一日で越えられるか四日がかりになるか、という死活だったが、機関車にとっては暑く埃っぽい時間をどう我慢して乗り切るか、という程度の話題にすぎない。

 ただ、バイゼロン側の峠口はあくまでウラゥルゥ山地を抜けられる抜けやすいという程度の意味であって機関車で抜けるのに面倒がないのは一番南の関を設けられた道だけだった。

 他の三つは上りは何とかなるが、下りは荷駄を通そうと思えば、かなりおぞけるような道のりで日々通うとなれば、それなりに手入れをする必要があった。この距離ならマジンの一人旅なら徒歩のほうがまだましな山道だった。

 ヴィンゼ側の水場がどうなっているか記憶にないが、一番道の作りの良い関のある峠道とヴィンゼ側の頂きの細いところでは距離で三十リーグほどなので頑張れば一昼夜あまりというところだった。

 誰がどういうつもりでここを渡ることを思いついたのかは知らないが、なるほど腕自慢馬自慢がついぞ挑みたくなる道のりだった。

 竜が荒れ狂うような雨季という風景がどういう季節か、というものはさておき、距離的な往来の目処や公算は十分に立った。

 毒野原では落ち着いて食事ができない、というのがリザの強い意見で、全くそれにはマジンも同意できることだったので、日が高く暑く感じるうちに忙しなく測量を切り上げて、陽の色が弱くなる前に関を抜けた。

 塩の採掘場には誰もおらず少々残念に思っていたが、峠を超えて理由はわかった。バイゼロン側はなかなかの大雨で、砂塵にまみれた装備がみるみる洗われる勢いだった。

 雨音がうるさすぎて停まってリザと話すにも大声を出す必要があった。

 砂塵で白っぽく汚れた風防が一瞬で洗われたのにありがたいと思ったが、この土砂降りでは水の膜で明かりをつけても十数キュビット先が見えない有様だった。

 麓登り口側の関にようやくたどり着くと多少は雨脚が弱くなっていた。天気が良い日が続くと午後にこうした強いにわか雨が降ることが多く、濯ぎ雨と呼ばれているらしい。こうした雨を待って雨上がりに鉱夫たちが夕方の採掘に現れるという。

 流石にこうも濡れてしまうと人里のそばで野営をする気にはなれず、風呂が使える宿があるかと尋ねると、立派なのがあるという答だった。

 人口一万に満たないどん詰まりの農村だったが、温泉地でもあるバイゼロンは立派な湯屋を構えていたり、或いは山から降りてきた者達向けに、食事と湯浴みに服を脱げる店があったり、気の利いた土地の料理で鳴らした宿があったり、と彩りのある宿の揃えがあった。田舎町には違いないが花も実もあるバイゼロンは、随分と伸びやかに豊かな土地だった。

 紹介された楊梅亭はむやみに高くもなく安くもなく、ヴィンゼの酒場の宿よりもだいぶ上等な宿は、気楽な旅先としてはキトゥスホテルよりもずっと好ましいようにも感じた。

 山越えで疲れた靴の手入れを頼んでみれば、翌日には綺麗に乾いて油を敷いて艶まで出ていたし、奥まった川べりの湯屋付きの離れとはいえ、吠えるようになるまでリザを啼かせても中居も主人も落ち着いた様子であった。

 食事も量も彩りも豊かな盛り付けで鳥肉鹿肉に川魚野菜粥と種類も豊富だった。黒パンとラードにチーズと腸詰めか干し肉くらいの朝食を想像していた二人には衝撃と言えた。

 鳥か犬かというくらいに燥いで盛っていた二人は意趣返しかと疑ったがそういうわけではなく、夕餉よりも朝餉に力を入れるのがこの辺りの習慣であるという。理由はいろいろあるが、薄暗い中での食事よりも、朝の陽の中のほうが食事の色も映え力を入れた分、美しく彩れるという理屈であるらしい。ともかくも払いが増すというようなことはないと宿の主は請け負った。

 あれだけ出発に際し、道中においても幾度かすねてみせたリザの機嫌もすっかり直っていた。

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