クラベ渓谷第四堰堤工事現場 共和国協定千四百四十一年新春
冬と云わず夏と云わず谷底の暮らしというものは快適とは程遠いものになる。
だが、第四堰堤の基礎工事にあたって伐採にあたっていた者達は比較的明るい気分で年越しを送っていた。収容所や鑑別所の生活では制限されていたカミソリや煙草火口などの支給がおこなわれ、食事には少ないものの酒が出るようにもなっていた。
単純に信用されるようになったというよりは、谷底からの脱出は道具があっても困難だという地形によるものかもしれなかったが、ともかく待遇が改善されたことには間違いなかったし、警備隊の中には医者としての技量を持っているものも複数名含まれていた。
軍隊でも医者なぞ城と呼ばれるような要塞のような永久陣地か、将軍のいる部隊本部に幾人かいる以外では、帝国軍でも共和国軍でも軍医という者共は呪い師か処刑人と変わらないような、いかがわしい連中がいるだけだったから、昼よる徹して三名から十名の医者が待機していることは、千を超える人員が重労働をしている現場とはいえ、空前の大現場相当にかなり上等な扱い、贅沢とも云える待遇だった。
療院と云うべき設備も内容も間に合わせと云うにはかなりきちんと整っていて、三十名ばかりの医者がひどく清潔感のある白衣と汚れを寄せ付けなさそうなサビやクモリのない新品同然の器具を揃え、こればかりは間に合わせ感の強い貨車を下ろした診療所が資材基地に準備されていた。診療所そのものは一箇所だったが、貨物車を改造した負傷事故対応用の医療自動車も数両用意され、おっつけ医者と機材をもちこみ、それで足りない怪我人は診療所に運ばれる。
少なくとも前線よりも収容所の中よりも、よほど怪我人の待遇は良かった。
労務者が雑談凌ぎの周辺情報を求めて聞き出したところによれば、医者と云ってもせいぜいが駆け出しの卵のような連中であることは後に明らかになるのだが、そうは云っても体力とやる気のある若い医者は怪我人の対処のような気合と小器用さを知識や経験より先に必要とする医療現場では重宝された。
住まいと食事と労務の怪我の手当が十分なら、捕虜の生活も随分と気楽なものになる。
帝国領民とはいえ半数以上は金を使って生活を成り立たせるような環境にはなかった者たちで、誰のためとも知らない労働をやらされることに慣れている人々がほとんどだった。
労務者の中には最初からここに収容してくれりゃ面倒も起こらなかったのにな、などと暴動について語れる余裕も出てきていた。
労務の進捗は雪が降って当然に困難を増していたが、重機の扱いを覚えた労務者が増えてきたことで、さらに新しく新品の重機が送られてきて作業そのものの遅れは極端に目立っていなかった。
重機械類を扱うようになり始めてから、奇妙に労務者の間での殴り合いの喧嘩が少なくなっていた。ある程度以上問題を起こすような人物は労務から外されていたからでもあるし、そういう人間関係の問題の次の段階は、重機械を扱い森の巨木を一人何本も刈り取っている現場であれば、容易に想像もついた。
労務者たちは自分たちがおこなっている作業の成果を見るたびに労働の達成感とともに、共和国はなぜこれほどの力を持っているのに貧しいのだろう、と不思議に思っていた。
鉄骨ばかりだった鉄橋が、なにやら精妙な幅広の滑り台のような曲線をつけた城壁のようになったあたりで、おいおいまさか本当に俺たちはここに閉じ込められるんじゃないだろうな。などと笑っていた。
年が明け労務者の半数ほどが操作を覚え、一割ほどが自分の重機を割り当てられるようになったころ、伐採作業そのものはまだ四分の一も進んでいなかったが、現場作業の見通しと進捗から労務者たちにも自分たちがなにをおこなっているかの見当がつくようになっていた。
延々と続く堰堤。それも見上げるほどの大樹よりなお深く巨大な堰堤であることをついに意識した。
その水底に沈む森の伐採作業をおこなわされていた。
木材を使わず鉄を基礎にしている贅沢にも呆れたが、それが贅沢ではなく必要な投資であるとすれば見上げている鉄橋の高さなど及びもつかない高さを目指している可能性もあった。それを裏付けるように雪解けの雪崩を避けるように新たな鉄橋の建設が始まった。
先にあった鉄橋に寄り添うようにして作られているそれはひときわ高く足を伸ばしていた。それはまるで赤い毛糸で編まれた寒さよけの襟のような厚みを持っていてひときわの大きさを感じさせた。
どうやら堰堤を築いているのは本当らしいが、するとなぜに木を掘り返しているのかという疑問も出てきた。いくらかの答えにも行き着いた。
森がある程度の幅で切り開かれてくると、二つの鉄橋の間に重機が埋まるほどの空堀を延々掘り進め、谷の対岸の斜面のいくらかづつ食い込んで工事が一通り終わると鉄索が打たれ葦の茂みのようになった。その上から砕石や漆喰に混じって、まっくろく堅く煤けた木炭になった松ぼっくりが入っていた。
今までに刈った木やこれからの分で足りるのか、到底疑わしい高さと厚みをすでに堰堤は示していたが、足りなければどこから持ってくるくらいの知恵はありそうな大きさをすでに示していた。
なんにせよ、雪が消え花が散り夏が始まるまでに堰堤の内側に大小様々の千両を超える土木作業用の重機が並んでいた。
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