軍都 共和国協定千四百四十一年大暑

 夏の論文は花火についてだった。

 爆発を伴う化学変化と運動方程式と各種元素の燃焼による炎色反応を軸にした論文発表は、四色フィルムによるカラースライド付きだった。

 それまで白黒だったフィルムに各色のフィルターを重ねてそれぞれの色層を抽出し感光させる。作業としては各色の光線をかけて印画紙に感光させるか、撮影と同じフィルムで逆転させる。

 手間の少ないポジフィルムもあって作業自体は簡単なのだが、生産の調整が面倒なので、まだあまり使っていない。

 ともかく、分光光度計とプリズムを写真の片隅においた実験の写真に色が付いている、それっぽく見える、という幻燈の衝撃は論文の内容以上の衝撃を公演会場に走らせた。

 拡声器の声に聴衆のどよめきが拾われるほどの状態で、講演時間の都合から説明をせずにしばらくスライドを見せることになった。

 論文の内容自体は、かつてから一般的ではないものの知られていた研究成果を明示的に連続的に取りまとめたもので仰天するようなものではなかったが、一昨年の論文との接続部分が多いことに気がついた聴衆もいた。

 写真の技術についてはロークに手引書を書かせてもいたが、ここしばらくで町中に写真が増えてきていた。機材をあちこちに卸しているというのもあるが、電灯が一般的になったことで自宅で現像を楽しめる人が増えてきていた。

 工房が銅板や銀板に或いは製品に写真や印章をエッジングしたりという応用などもおこなわれていた。

 市井の巷が分かりやすく技術を楽しんでくれることはマジンにとっては喜ばしいことだった。

 そんな風に季節の変わり目、風景の変わり目を感じていると、リザが軍都に呼び戻されることになった。もともと彼女は流産の経過確認で後方に飛ばされていてデカートの情勢調査と軍連絡室の需要品の整備という名目でローゼンヘン工業の生産品目についての実用性の確認と報告を兵站本部とは別に軍令本部に送っていた。

 それは単純に武器弾薬という品目を超えたものの調査で、後方から現場を支えるという意味での兵站とは真逆の、前線の生活としての軍務のための研究資料ということだった。

 送った資料の中には粉ミルク、乾燥マッシュポテトやパンプキンフレークなどの乾燥粉末食品や缶詰食品或いは鎮痛剤、局所麻酔薬、抗菌剤、抗生物質などの医薬品、ヨウ素剤や塩素剤とそれを使う殺菌浄水器、防虫剤、固体携行燃料、オイルライター、携行ガスコンロなどのあからさまに特殊な用途製法を経たものもあれば、石膏包帯やハンダを使った添え木、工具や遠眼鏡、時計、手回し計算機、方位磁針、軽量組み立て家具、野営具や雨具などのどこにでもあったはずのものが奇妙に洗練された物もあった。

 あらかたのものはローゼンヘン工業の運営のためにある程度の定数を維持するための生産装置と拠点を作って、余剰分や有期分を送り出していたデカートの市場に流通させていたが、セレール商会の発案と注文で市場に流れ、あちこちで使われている色とりどりの四角い蓋付きの四分の一ストン缶などのように巡り巡って軍でもそろそろ見慣れたものもあった。

 直接送れないようなものも写真をとってそれを送っていた。報告書本文よりも分厚い写真は重みで張り付いたりもしていたが、気がついてからは対策に硫酸紙をのせるなどして対処していた。

 リザ自身は試射を見ていないが、地下の武器を並べた展示室にはここしばらくで個人を目的にしないような大仰な作りの銃器があることは気がついていた。

 例えばそれは城塞や大きな舟の壁に大孔を開けることを目的にしたものか、少なくとも蜂の巣にすることを目的にしたものであることは雰囲気から明らかだった。或いは自動車や列車を狙うためのものかもしれない。

 マジンはリザの任務について大方を承知していたし、欲しければ必要なだけ言ったらあげる、と言っていたからリザは思いついたものを遠慮無くねだり、大本営軍令本部に送っていた。値段がわかるものもわからないものもあるが、ともかく資料として送りつけていた。

 マジンにもリザにもとくにそのことに何かを感じたり考えたりということはなかった。

 そして軍都に呼び戻されたなら当然に戻るのが責任だった。

 エリスがいるので便乗はできない。

 既に十日くらいの不意の不在は問題がない状態になっていたからロゼッタに館への言伝を頼んで、マジンがリザとエリスを軍都に送ることにした。

 こういう時に無任所の二人がいるのは都合が良いと、ヴィルとヘルミに運転手を頼んで軍都に足を伸ばすことにした。ボーリトンは口数が少なく落ち着きがあり、しかし動きに切れがあって若いと、デカートの元老たちには評判がよろしく、ローゼンヘン工業と直接関係ないところで外回りをすることが増えていた。

 二人に同行を命じてよかった。

 マジンはその直感を感謝した。



 それに気がついたのは運転をすっかり二人に任せて後ろの座席で旅の退屈しのぎにイチャイチャ盛りがついている主家二人を見るのが嫌になってルームミラーを後ろの窓からずらしたヘルミだった。

 変なボロ小屋が建っているなぁ。と少し前から運転席に座っているヘルミは思っていたのだが、こっちがいいペースで走っているのにまだ見えていた。フェンダーミラーに目をやると砂煙をあげていた。

「ちょっと、アレ。変なのいるんだけど」

 声をかけただけでは目を覚まさない助手席のヴィルにヘルミは車載の小銃を放ってよこした。

「どうだろ、先いかせたほうがいいかな」

 気分的に速度を上げて逃げ始めたヘルミがヴィルに意見を求めた。

 その瞬間、後ろで答えの代わりの音がした。

 ゴウン。

 鈍い響きと爆炎をたなびかせ、後ろの貨物車が大砲を放った。

 誰かが無線を使っている事を示す灯りが車載の通信機に点滅している。

「なんだろ」

「あのキチガイに決まってるだろ。どうせなんか口上謳っているんだよ」

 ヴィルがヘルミの気のない問いかけをバカにしたように断じた。

「じゃぁまぁいいか」

「撃っていいのかなぁ。……撃っちゃおうかなぁ。……俺これ訓練以外で撃ったことないんだよな」

 そう言いながらヴィルは装填操作を幾度か失敗する。

「いいからっさっさと撃っちゃいな」

 色々苛立ちが募っていたヘルミが乱暴に云った。道が砂礫混じりで窓を開けた途端に車内の空気が砂埃に荒れる。

 ヴィルがバラバラと弾ける薬莢を砂塵に撒き散らしながら運転席を狙うが、車が跳ねるのにあわせて腕の先の銃が跳ね回り、狙いが定まらない。

「当たらないぞ。これ」

「当たんないって、あんた弾替えた?それ羊どかすための青弾だよ」

 ヘルミが必死の形相で運転して答えている先に、窓を開けた窓から先ほどとは大違いの重低音が響く。

「た、弾。どこだっけ」

 狼狽えるヴィルにヘルミは鼻で笑う。

「足元、懐中電灯の脇。それと、目の前の雑具入れ」

 ヴィルは弾倉を引っこ抜き慌てて実弾の詰まった弾倉を押し込む。

 目の前をのんびりと走る馬車を見てヘルミは急減速と急ハンドル。滑って回る後輪に一瞬の機械制御のハードブレーキとカウンター。回転が止まった車が突っ込んでくることに仰天する御者と馬とに目があって、その向こうの武装車輌の運転手と目が合う。逃げる方向への速度が落ちたことに気がついたヘルミが慌てて必死のポンピングアクセルを踏むと機械がすべての制御を一旦放棄して運転手の司令に従う。切りきっているステアリングに再びのハーフスピンが始まり切りっぱなしのハンドルを慌てて戻すと再び制御に割り込んだ機械の助けを借りて見事に立てなおった。綺麗なアクセルターン。

「なに今の。お前すごいな」

「知らない。すごかったね。そんなのいいからあの大きいのどうにかしてよ」

 さっきよりも随分近くなったことで、多少ぶれてもどうとでもなる距離になった。

 窓にあたっているはずだが、そんなものは屁でもないとばかりに銃弾になれた男は動揺もしない。

 ヴィルは慌てて次の弾倉をひっつかみ弾を込める。

 無駄でもともかく窓に向かって放つとボツボツと青い鳥の糞のような弾痕が窓ガラスにひっつく。

 途端に男が慌てた。

 ワイパーを動かし始めたがなかなか落ちない。そのうちに後ろで大砲の音がした。僅かにぶれた車体が岩にすくい上げられ、転がるのを砂塵の中で見ながらヘルミがミラーをズラし直す。

「すげぇ。オレ。まさかのワイルドガンマンデビュウ。アレって賞金いくら位だったんだろう」

 あまりに見事な射撃結果に我が事ながらマレリウヌが感動を口にした。

「顔見てないから知らないけどガーバン一家とか言うのが辻強盗として駅馬車や軍の輜重襲っているらしいから、ソイツラなら合わせて二万五千タレルくらいだったかな」

 繋がったまま乳繰り合っている間の急展開に見守るだけだったマジンが記憶の中の情報を口にする。そのままひとつ前の席に寝ているはずの我が子の様子を確かめる。

「ああ、そういえば春からワイルの西が要警備地域になってたわ。……ちょっと、まだ抜かないでよ。紙。……まってって」

「エリス、心配じゃないのか。って寝てるか。……。ふう」

「ふうって、もう入れないで。今入れたらあふれる。あふれる。汚れる。ってもういいわ。もう」

「ふたりともお見事。偶然なのはわかっているが、ともかくなかなか見事な切り抜け方だった。ヘルミ。馬車にぶつけなかっただけでなくその後うまく切り返した」

「オレはどうでしたか」

 ゴシュルの運転判断を褒めるとマレリウヌが自分の手柄はどうかと勢い込んだ。

「お前はアレだ。カッコつけて片手で撃とうとするな。肩帯を使えばあんなブレないぞ。だが、窓を抜けないのに気がついて目潰しに切り替えたのはなかなかの機転だ。あの位置じゃ車輪撃ってもまともに当たらないし。一つ潰したくらいじゃ、よほど運が良くなきゃあんなふうに吹っ飛びはしない。ふっとんだのは運転手のミスだが、それを誘ったのはお前の目潰しだ」

「え、や、あ、それほどでもあるっすけど」

「慌ててて、青弾が入ってるの気が付かず突っ込んだだけでしょ。まだ残ってたから良かったけど、最初撃ってたのに戻しただけだもんね」

 荒事を抜けたゴルシュがひどく冷静にからかうように突っ込んだ。

「えあ、それでも、ま、いいや。暑いから窓閉めて冷房入れてくれ」

 ガーバン一家はここ一年余りのうちにどこからか手に入れた貨物車に二門の騎兵砲を積みバトルワゴンと称し、速度と火力に物をいわせて襲撃を繰り返している駅馬車強盗団だった。

 騎兵砲は元来千キュビット程度の騎兵突撃直前の戦闘か小さな砦などに向けて使われる小型の砲だが、優速を持って位置を自由に定め移動中に準備発砲することで、騎兵による運用よりも大きな自由度を持った強力な武器になっていた。

 所詮二十人ほどの盗賊団なので十分な規模があれば対処可能だが、機関銃でもなければ撃ちぬけない運転席の安心感で極めて狡猾に敵を見極めてくる野盗で、軍の輜重も人員と行李に被害を出していた。

 自動車を対象に狙う盗賊がいるというのはさっきのやり口からアタリがついて、ことによるとさっきの馬車も当たり屋の口かもしれなかった。

 獲物として自動車を狙うとして移動中に騎兵砲でまともに当たるわけはなく、側面から後方を狙って前へ追い立て頭を抑えて地形で獲物の自爆を誘う。というのはひどく手慣れた手法だった。

 そう考えれば真後ろで大砲の爆音がしたのを馬車がのんびり無視するのも分からないではない。

 夜通し走るだけの油は積んでいるがどこで入れようか、という話になってマジンはワイルに立ち寄ることを決めた。

 立ち寄ってみれば、それらしい店をあっさりと見つけた。油屋なのだが、大豆油と称して菜種油を売っている。ここしばらくの大豆油の値の跳ね上がったのを忘れた様子だ。信用できるなら良心的とも言えるが、胡散臭い。とはいえ料理に使ったり灯火に使うなら菜種油だろうが大豆油だろうが大した違いはない。せいぜいが正札の間違えでした、でことが済んでしまう。

 仕上がりに香りのクセがない分だけ菜種油のほうが高級だというかもしれない。

 だが、ローヘン工業製高性能点火薬といって何か酢のようなものが売られていた。

 確かに会社の名前も違うし薬の名前も違うが、なにに点火できるのかは少し気になる製品だった。

 内心ニヤニヤしていると胡乱な風体の男たちが集まってきた。

 三人は軍の手配書で合計三千八百タレル。小者には違いないが上官殺しの脱走兵だった。

 残りはデカートの手配書では見たことがない顔だった。

「さっき町に入ってきたメルクゼクスはアンタのかね」

「何のことだ」

「黒くてツヤツヤピカピカしたかっこいいのりものはぼくちゃんのでつか。ッて聞いてんだよ。坊や。……その感じじゃ。おとうさまにおねだりした感じか」

 男たちがニヤニヤ笑うのに事情が飲み込めなくてリザに耳打ちする。

「……どういうことだろう。なんかボクの知らない名前でクルマをよんでいるようだが」

「多分、あれよ。アナタ、お金持ちの御曹司に見られてるのよ。きっと。あれ、買うと高いんでしょ」

「一千万タレル。ってのは卸値だから、普通はもっと高いのか。まぁ確かに安くはないな。どうするのがいいんだ。こういうのは。軍人的にはどうなんだ」

「あたし今こんなヒラヒラだから軍人ぽく見えないわよ」

 リザは車の中でいちゃつきやすい軽い布地を重ねた姿になっている。

「ま、そっちの若奥さんを車の代わりにくれるってならそれでもいいぜ」

「どっちも嫌だと言ったら」

「ボコる。両方くれるって云うまでボコる。その間若奥さんとお話する。旦那殺すのがいいか、股開くのがいいかって話題だ」

「わかった。贅沢言ってボクが悪かった」

 マジンはそういった瞬間、三人の心臓を打ち抜き、いきなり殺されると思わなかった動きの止まった残りの四人をみぞおちを銃口で突き上げた。

 反応を考えれば単にこの地方独特の旅人への挨拶だったのかもしれない。 

 生きているはずの四人をベルトで足首を二人づつ束ね上に三つの死体を乗せて引きずる。

 車にもどり多少乱暴に車の窓を叩くと中で寝ていたマレリウヌが目を覚ました。

 エリスもゴシュルと遊んでいた。

「無事か」

「はぁ。まぁ。エリス様もいらっしゃるんで特にどこもいかなかったですが。何かありましたか」

 マレリウヌの鈍さというべきか暢気な豪胆さが今はいっそ幸いだった。

「雑具入れから手配書のたばを出してくれ。……そのままでいい」

 昼間の騒ぎで疲れたのか運転席でマレリウヌは仮眠をとっていた。

 保安官事務所に行くまでに三人の共和国軍で上官殺しと脱走兵として手配された三人の名前と顔をリザが確認した。残りの四人は記憶が無い。保安官事務所に四人を道端で倒れていたということで預けると保安官助手に案内を頼み軍連絡室で生死問わずの三名の身柄を引き渡し、軍都中央銀行引き換えの小切手を受け取った。

 現金でないことにリザが仰天した。

 法務担当の憲兵ハシュメド少佐の云うには周辺治安がかなり治安が悪化していて、軍連絡室の現金の準備が不安定になっているという。

「軍人が襲われたりはしていないんでしょうね」

 という質問はかなり迫っていたらしく、直接はないが家や家族が狙われることはあるらしい。

 また、駅馬車が襲われることで郵便や為替が混乱しているという。

 ワイルは複数の街区が入れ子状に組み上がっている一種の城塞都市であるが、中心が最も古いというわけではない。

 幾つかの水源を囲うように町ができ、一番大きなところがそれぞれに囲われるようになった。

 街の形としてはみかんの皮を向くように歪んだ放射状の農地を含む街区がおおまかに七つ。

 へその部分にワイルのオアシスが存在する。

 そのそれぞれの城塞の内側の街区は別世界のように落ち着いているが、外側は荒れていた。

 ワイルの豊かな荘園城郭の主たちはたがいに争う気もないが収める気もなく、周辺の土地の税をつまみ食いのようにして吸い上げることで満足していたし、整理された水源と耕地はそれぞれに一二万ほどの民に恵みを与え多少余らすくらいにワイルの荘園城郭の中は豊かだった。

 荘園城郭を維持している城主たちは、大オアシスの水源管理を主な接点として交易と交流の場としてワイルの中心のオアシスを公開の場と定め、治安協定をつくっていた。

 当初は交易商の組合と城主たちの囲い込みや力の押合いがあったが、ワイル周辺の荒廃が進み北街道の焦点、一大拠点となるとギルドが逆にワイルの城主たちに利益を分配するようになっていった。

 ワイル周辺にはかつてはそこそこに森がありそこを拠点に入植を試み果たした者達もいたが、水源の規模が小さく農地に向かなかったことから、森を刈り散らしたあとは荒廃が進み遊牧化したり離散したりした跡地に流れ者が転がり込み治安が荒れていった。森を刈り尽くし無理な耕作で荒れた土地は埃っぽい砂漠同然の荒れ野になっている。かつて森の木々が吸い上げるようにしていた水源も再び地の奥に潜った。

 死んだ土地というと大げさだが、ワイル周辺の土地は小川のあるヴィンゼに比べて水脈を探すことが難しいのは確かだった。

 扱いの難しい土地に転がり込んでくるのは、バカか貧乏人という原則で云えば、バカで貧乏なまともな仕事につけない連中が多いのはしかたがないことだった。

 定期的に土地取得に関する規制が取り沙汰されるのは、荒野を独立農や小作に押し付けるような詐欺まがいの行為とそれが常態化したことで治安の悪化が循環加速している事を憂慮しての事だった。

 少佐の話はここしばらくの調査で大方知っていることを裏付けた。

 なぜ今更に荒れているという問いは様々に憶測があるが、そこそこに大きい理由は捕虜の脱走騒ぎで賞金稼ぎや奴隷商が大手を振って動き始めたということ。

 もともとワイル周辺は離散破綻しやすい小規模な独立農が多い土地だから、その離散破綻を飯の種にしている人買い人売りの多い地域でもあった。賞金稼ぎや奴隷商という人狩り連中が公金目当てに動き出し、田舎でも肩慣らしをしているということだった。

 もう一つは自動車が普及を始めたこと。

 自動車のもつ圧倒的な機動力は賞金稼ぎや奴隷商という犯罪者と紙一重の後ろ暗いものたちにとっては突入に際しての破城槌であり脱出に際しての夜霧のようなものだった。

 一晩に百リーグの荒野をまたぐとなるとその間にある全てを探すことはできなかった。

 見も知らぬ聞きもせぬ敵が突然あらわれるということもある。

 馬より早い移動手段であるというそれだけで圧倒的であるのに、貨物車に至ってはほとんどの銃が効かない。

 まぁ、そういう自動車であるからこそわれらの祖国を救ったわけでもあるのですよ。と目の前の二人が何者か知らぬ様子で憲兵少佐は言った。

 ワイルの周辺の大方の土地の無謀な開墾に比して城市の中の農場はそれなりに連続的な農地の維持に成功していた。

 七つの城郭はそれぞれに閉鎖的ではあるが気風や人口はそれぞれに差があり、その由来には様々に噂もあり噂の根拠としてはその差の理由について語るものが多いが、噂が流れること自体がワイルの不安定さを表していた。

 城主たちの競り合いによって公には司法行政の統一は各城郭外には存在しなかった。

 そういうわけで不穏な噂は予てからおおく、周辺の無頼は城主たちの城外の手勢であるという話や、城内の水源に不安を抱えた城主が収奪に様々に悪意を巡らせているという話もあった。

 軍の立場というものもワイルの城主たちからすると外様の一大派閥でそれぞれに目障りでもあるらしく、オアシスに寄ることは不問であったが、協力的とも言いがたい状態だった。共和国軍の組織や体制は町ぐるみ村ぐるみの反乱の対処には向いていても、蚤虱の如き無頼を相手にするには向いていなかった。

 保安官は駅馬車を据えている都合いくらかはいるが、事実上の自営業でギルドの顔役の一人という程度の意味しかない。

 ローゼンヘン工業でも城主たちと直接の接見の機会を探っていたが、この僅かな期間ではなかなかに難しかった。

 日が傾き始めて今日はここに止まるのかと考えていた二人の執事にマジンは運転を替わらせた。月と星の灯りと記憶を頼りに走ると、遠目に前照灯の見慣れた灯りが見える。車幅灯を頼りに道を外れて迂回すると一グレノル半の貨物車を囲むようにしている武装集団がいた。

 警笛代わりの青弾は昼間の騒ぎで尽きていたし、そのつもりで設計していた貨物車の運転席に機関小銃の銃弾は効かない。そういうことならなにか持ってくればよかったと思っているうちに別の灯火が近づいてきた。どうなるかと見守るうちに、待ち構えていた連中が気が付き、思った通り戦闘が始まった。

 両方共それなりのつもりだったらしく賑やかな様子で結構。と、その場を立ち去ることにしたが、状況がかなり悪いということは明らかだった。

 軍で何か動きがあったか、と尋ねるとリザは肩をすくめた。

 夏の初めに軍都に足を向けた折の兵站部長の態度を思い出せば、これまで気が付かなかったことこそが鈍いほどのことだったのかもしれない。

 オルカキラー、ハンターキラーを準備するのは鉄道事業が至ってからでよいと考えていたが、そうはゆかないらしかった。



 軍都につくとリザはその足で養育院にエリスを預けた。

 エリスは両親と別れることにしばらく愚図っていた。

 だが、祖母のような担当官になだめられてようやくしぶしぶ落ち着いた。

 おとうちゃま、と泣き声でエリスに云われてマジンはひどく感動している自分を発見した。

 その歳頃、上の娘達四人はどうしていたかというと、ほとんど無理やり狼虎庵で自活していて、あまりかまってやっていなかったことに思い至って、今更ながらに惜しいことをしたと思ったり、申し訳なくも思った。

 その話をするとリザは笑ってそのままホテルについてきた。

 軍令本部に戻らず、二週間張り付いて過ごすつもりだという。

「そういうわけで帰っていい」

 とマジンがいうとマレリウヌもゴシュルも心細そうな顔をした。

 結局ヴィルヘルミ二人とも二週間小遣い付きで軍都滞在をすることになった。

 今回は獣の間ほどの豪華さではなかったが、十分に豪華な続き部屋でリザと二人でぺったり張り付いて過ごすというのは本当に久しぶりで、それが半月ともなると初めてだった。

 セントーラが出奔する前、十日ほど休みをせがんで二人で館の一室にこもったことはあったが、セントーラと二人裸で過ごしていた割にはローゼンヘン工業の事業のこれからの話ばかりで特別さはあまり感じなかった。

 使用人はいるとはいえ粗方が役持ちで、おはようおやすみから箸の上げ下ろしから下の世話までという執事もローゼンヘン館にはいないし、家のことを全部面倒見られるほどの使用人がいるわけでもない。

 強いてあげればセントーラがそういう役分だったが、だいたい自分で全部やり始めるマジンにとっての面倒事はローゼンヘン工業の線を引き、物を揃えたあとの面倒を見ることで、館の中のことはある程度整っていれば、すきによし、ということでこだわりもなかった。

 リザはリザで少佐に昇格したのが早すぎて、従兵を張り付けるような習慣がないままに中尉参謀の気分のままに自分一人で全て進める習慣が身についていた。

 ふたりとも、人の目は気にしない質だったけれどやりたいことやるべきことが多くて、半月も自堕落に過ごすことに耐えられもしなかった。

 鉄道が軍都まで通るようになったらこんなことはできなくなる。

 というのがリザが思いついた理由であるらしい。

 すでにデカートの州境を離れ更に伸びゆく線路はいくらかの未定の事項を残したまま東に伸びていた。

 マニグスの脇では物資の集積が始まっていて線路が伸びる前に駅舎周辺の土地の整備をおこなっていた。

 秋には駅が落成するが、その頃には線路そのものは一部既に山間の集落部に伸びているはずで、駅の位置と名前について調整している。

 交流のある小規模な集落にありがちのことだが、互いの格がはっきり決まることは後々の禍根を残すことにもなる。

 ラジルが調整にあたっているはずだったし、その成果をもってミョルナに乗り込む手はずになっていた。

 気分のウチでは三年かそこらで軍都にせまる。

 既に人員一万七千にまで膨れ上がった事業構想は次第に夢想ではなくなっていた。

 年内には捕虜労務者を数えずに二万を超えるはずだった。

 軍都到着後の人員は運行状態にもよるが最低五万想定で八万。

 最大想定では十八万ということも覚悟の話として語られていた。

 とはいえ、これは現場人員を中心にした話で、事務書士人員についてはこれまでどおりの比率でいるという前提だった。

 だが事業現場の距離と人員に比して級数的に増える事務の煩雑さを考えれば更に膨らむだろうとマスは言っていた。

 電話と鉄道や自動車の往還による事務効率の向上を考えてもこれまでのように事務一人で現場百人を支えるということは既に無理になり始めていた。

 州境をまたいだ瞬間から税制が全く変わり法律も変わる。

 デカートを出た瞬間に起こった衝撃が軍都での人員の大量雇用だったわけで、セントーラの出奔と時を同じくしてデカートの境を離れたということはある意味で全く運が良かった。

「私と結婚したいって云うなら、もう少し私にかまっても良いんではなくて」

 リザと結婚をするために始めた鉄道事業が全くこのような形で総花的な展開を迎えるとは思わなかった。

 当初思い描いていた構想は、地図に殆どまっすぐの線を引き、小銃を必要な数届けてあとはどこぞに事業を売却するつもりでいた。

 十億タレルで繋がるとか言っていたが、既に人員設備込みで二十億タレルをつぎ込んでいた。

 自分の甘い見通しというのもあるが、単線で長距離鉄道を敷くことの実用性の低さを考えれば計画が複線に拡張された事自体に異論はない。

 ミョルナの工事次第というところもあるが、五十億タレルというところで決着すれば一応見通しの範囲内ということになる。

 マスの調査の見積り積算ではこの後、約二十から四十億タレル人員拡大と基地設備を考えれば三十五億を中間値とするということだったので、多少超える。

 電話と電灯も二十年破綻がなければ資金回収ができる見込みが立っていた。

 この数年でリザはどこでも気持ちよく性の快感を感じられるようになったが、その中でも彼女がいう、かゆいところをかいてやりながら、結局二人はマジンの事業の話を口にした。

 無言でむつみごとを二週間も続けられるほどには二人は互いに飢えてなかったし、体力には余裕があったが意識を飛ばし合ったり感覚の限界に挑戦するような性の興奮を半月も続けるほどに逼迫していなかった。

 リザの体は太ってはいない肩から乳と腰から尻腿への張りが目立つ素敵な体つきだと思っていたが、半月の間に肋と腹筋から骨盤がますます肉食獣めいたえぐれ方をするようになっていた。

 軍服のズボンを履いたリザは自分が出発した時よりも痩せていることに驚いて鏡の中の自分の顔の様子を確かめた。

 静養を目的としたはずの配置で痩せたなどと思われることに不安を感じていた。

「今度は妊娠を検査してから配置につけよ」

 とからかうと耳を引っ張られた。



 大本営の門で制服姿のリザと別れると見慣れた車が四両いた。

 マジンが拾ってもらうつもりだった、就職希望者の面接を行うための幹部たちを載せた車だった。

 一行から青弾を分けてもらおうと近づくとタイヤの空気が抜けている車両がいた。

 運転手に話を聞くと、途中ワイルで襲撃があったらしい。

 ウチで作っている軽自動車に追いかけられるとは思いませんでした。

 といった彼らは笑ったが、少なくとも二丁機関小銃を持っていた奴がいました、という報告は笑って流す性質のものではなかった。

 来るべきものが来たという印象で言いようによっては他人任せで運べばこうもなるという反省でもある。

 けが人が出なかったことで笑っているらしい。

 笑っていないで車輪の交換をしろ。

 ブレーキや足回りの割れかけがないことを確認しろ。

 死にたくなければ、自分の手と目で確認しろ。

 などと、運転手たちに発破をかけて、マジンも気分を入れ替えて大本営の役場に持ってきた新型の青弾を装備課に試験依頼を出しに入った。

「お、いるじゃないか。――だれだ。来てないとか言ってたの。来てるぞ」

 装備課の戸口をくぐりマジンの顔を見るなり、挨拶もそこそこに装備課長が怒鳴った。

「別件だったので、予定はなかったのですが、前に話だけした青弾を持ってきました。機関銃用が二百と迫撃砲用が十発です。迫撃砲用は試験の要目と所定数がわかったら追加で持ってきますが、別件だったのでとりあえずということでご勘弁を」

「機関銃用も二百じゃ足りないが、まぁいいや。ところで、別件ってのは調達課じゃないのかね」

 装備課が確認するように言った。

「いえ、特には。ようやくうちの者達も育ってきたところですので今は任せようかと思ってまして、ご挨拶くらいしか用がないようにしています」

「ま、商売繁盛でお店が賑わうのはいいとして先々を考えれば家組織だからね。ローゼンヘン工業の連中が来ているってんで調達課がアンタを探してたんだが、そういうことなら逃げ出したほうがいいかもね」

 机の脇に積まれた試験品の銃弾の入った箱を眺めながら、装備課長は曖昧な表情で口にした。

「一大事ですか」

「ウチで一大事っつうたらいっぱいありすぎてしょうがないからあれだけど、感じからするともっと早くやっとけってことだと思うよ」

 そんな装備課でのやり取りがあって調達課に向かうと調達課長と就職課長と人事部課長と参謀本部の中佐が会議をしているところに引きこまれた。



 四人とも人のよさ気な円熟味のある壮年から老人への境の人々で、三人の課長は退官准将としてラッパで見送ってもらって退官できるかなぁ、とか暢気なことを考えている人々ではあるが、その実、共和国軍の背骨を支える本部課長の要職にある人々だった。

 彼らは現役の士官下士官をローゼンヘン工業に送り込む方法について相談していた。

 まさに今日というのは、デカートから訪れるローゼンヘン工業の専門家意見を求めての事だったのだが、危うく空振りになるところだったという。

 ひと月前ローゼンヘン工業に書簡を送ったので、反応が早いローゼンヘン工業であれば間に合うだろうという観測込みの日程で会議予定はすすめられていた。

 半月ほど所要でデカートを離れていて連絡が取れなかったことをマジンが詫びると、会議の参加者はむしろ会議に間に合ったことをねぎらった。

 前例がないわけではないのだが、これまでは退役して復役するなどの方法をとっていて所属についてひどく曖昧になることが問題だった。

 立場によって入ったもののその後先方が損害を被った例などがあり、戦時様々差し迫り忙しい折に危険な方法をとりたくない。

 まして今回はこれまでとは桁が違う人数を送り込みたい。

 これまでの概要の流れをまとめるとそういうことだった。

 目的によって対応を考える。

 としか言えない話だった。

 彼らの話の焦点は、自動車一般の稼働数の減少問題である。

 掘り下げれば、自動車の稼働数減少を人材によって抑えられないか、或いは部分的に再生できないかという問題で、その人事的研究に関する意見交換をおこなっていた。

 兵站本部としてまた現場の希望としては、車輌装備の導入量の拡大で対処したいところだが、評議会の予算計画や製造元への打診はそれぞれに非常に低調暗澹たる先行きで、直接的な保有車両数の拡大よりは現有する装備車輌の稼働率改善を着手するほうが打開策としては見込がある、と参謀本部の研究は導いた。

 既に稼働不能或いは稼働に不安を抱えている車輌を再利用するべきだ、という研究結果である。

 また、各種車輌の長期的運用を可能とすることで車輌導入計画そのものを穏やかにする効果も期待されている。

 具体的には、デカートではすでに自動車の修理整備専門の工房というものがあって、一部についてはローゼンヘン工業を介さぬまま修理出来ている、という市況報告があった。

 それを軍でおこなえないかという話題である。

 将来的には毎年千名程度の専門兵を全軍で二万名ほど育成するとして、とりあえず五百名ほどの自動車作業兵、整備兵を育成したいということだった。

 確かにローゼンヘン工業でも機械整備修理の人員の拡大を急速におこなっているが、五百名と言うのはなかなかに大きな規模だった。

 併せて更にやや先走った将来の研究としては鉄道兵と呼ぶべき専門兵科の創設が必要だろうという話があって、そちらはおそらく八から十個大隊、二三個聯隊管区を考えているという。人員数で一万から二万。

 さらりと言われた数字が単なる計算上のものであるとしても、今まさに通過中の規模であるローゼンヘン工業と同じものを軍が必要と考えているということは、なかなかに恐るべきものであった。

 そういうわけで、できれば参謀出向配置という形を取りたいのだが、会社の内機に触れるような配置も困る。

 こちらの推薦人員を受け入れてもらうことを前提に条件を整えたい。

 そういう話だった。

 ここしばらくで採用している退役軍人の質を考えれば、送り込まれる人材の質は心配していないが、それでもどこまで必要かという話題に至る。

 軍令本部の希望は研究をおこなった中佐によれば、前線で戦闘によって行動不能になった各種車輌を陣地線まで引き戻し、兵站線に後送可能な状態に整え、兵站にて再出撃に耐える状態に復帰させること。

 その全てを満たす体制を作ることが、軍令本部の希望だった。

 むろん軍令本部は作戦と前線部隊の代弁者にすぎないから、希望は命令ではないことは前提として、兵站本部として希望完遂を前提として対応を協議したい。という会議の第一回であった。

 要求そのものは極めて単純で部分的には既に満たしたうえで、各種自動車は運用されていた。だが、その状況や扱いについて十分に完成しているとはいえず、高価なそして極めて有効な兵器である自動車輌を遺棄或いは無稼働な状態で放置している現場が増え始めた。

 また、参謀本部の研究も装備の稼働率を調査した結果、単純な任務や戦区によらず稼働率に著しい差異があり、またその稼働停止に陥った状況にも偏りがある、ということで装備の性能や単純な数量を考えるよりも、運用の整理とそれに適した体制の整備を行う必要がある、と報告していた。

 運転手の選別は比較的各部署でおこなわれている対策であったが、その車体点検についての管理者の選別はおこなわれていないことが多かった。

 運転そのものは比較的容易に扱える自動車だったが、その構造について熟知している者は少なく、各種の不調の対処についてもしばしば思いつきでおこなわれていた。

 使える道具ということで前線の師団が統帥権の名目で調達した装備として始まったことが装備の運用や調達を含む扱いにおおきく差をつけていた。そして実績はやはり部隊によって大きく異なっていた。軍令本部としての統括で設置されたギゼンヌ広域兵站聯隊が車輌装備の稼働率を含む運用実績を高く維持していたことに注目した。

 ギゼンヌの車輌管理はリョウバールマン大尉による一括管理を受けていて、取り扱い人員についても彼女の専任で運転搭乗と整備管理の専任人員を選抜されていた。また、その管理領域への立ち入りも厳重に管理されていた。

 ある一定の期間、ローゼンヘン館にて車両生産を含む技術習得に費やしたリョウバールマン大尉と、極めて速成であったがやはり直接にゲリエ卿の師事を受けた数名を軸にすることで、未だに稼働数を維持しているギゼンヌ広域兵站聯隊の実績は今後の自動車輌運用の雛形と実績として満足すべき経過を見せている。

 前線の師団でそういった完全管理を期待することは様々な面で危険ですらあったが、ともかく最低限陣地線に連絡接続している拠点が共和国軍によって維持されている事実を拡大し、またその修理拠点への後送を可能とする体制を前線に持たせたい。

 その現実に向けた可能性として初動人材の教育を車輌装備製造元であるローゼンヘン工業に期待したい。

「極論を言えば、陣地からの後送は分解して運び出すことでも良いのだ。むろん陣地でおこなえる物事には限度があるから、それをわきまえて貰う必要はある。だがともかく、師団本部の予備人員で扱える程度の装備や人員数で故障車輌の管理をおこなえるようにしたい。

 兵站本部としては師団本部の人員装備等の定数予算が拡大することは認めている。

 それが達成されるかはまた別であることは、機関小銃の納入を通してわかってもらえたと思うが」

 と調達課の課長が口にした。

 調達課の課長がここにいる理由は、自動車輌について馬匹の厩務課長や製パン糧食のように部門が分かれる前に問題が明確になったからで、きちんと時期が進んで仮に車輌課が編制されればそちらが引き継ぐことになる。

 人事部の記録課長や就職課長についてもほぼ同様で人材の大規模な出向というものは憲兵本部の内部調査くらいしか前例がなく、民間企業への技術習得を目的としたものというとおこなわれていなかった。

 装備課長がいない理由は、どんなに複雑になっても軍装ではなく、行李の一種だろう、という理屈からだったが、参加を打診して日程が合わないと返事された。翻訳すれば興味が無いということになる。

 とはいえ、組織の論理からすれば決裁を求めない非公式の会合に雁首をそろえる本部課長は暇人の集いということになる。

 ローゼンヘン工業の見解を代弁できる人物がいなければ、暇人の集いという以上の意味を得ることもできず、全く危ない事態だった。

 もしできることであれば、我社の警備部の訓練指導を軍のどちらかの方にお願いしたいところです。というと、参謀本部の中佐は興味ありげな様子だった。

 軍では部隊戦闘や警備体制について部隊単位で様々な報告があるが、その研究となると散逸がちで、研究を元に実態を組み上げるとなると更に少ない。それぞれの戦場は様々あまりに異なり、着眼が少しずれるだけでとんでもない仮説や展開になる。

「可能不可能で言えば、五百名の技術習得を目的にした研修を行うことは可能です。見積り予算をお答えできる状態ではありませんが、こちらでは教官、車輌現物と予備部品、工具、教本、被服を準備します。あとは期間の生活諸雑費。というところでしょうか。研修期間については壊さない程度に扱えるようになるのは、半年程度が我が社での標準的な実績です。この辺は早い遅いがありますが、歌や絵に比べると生来のものとはかかわりなく基礎を積めます。ただ、ある程度から先は急激に素養が問われるようになるのは、他の様々と同じです。ほんとうの意味で任せられるという社員は未だに二桁です」

 現場の状況に見当がつくこの場の佐官たちには、壊さないことまで、という研修内容はまさに期待していることだったので、納得した様子だった。

 故障車輌の程度がわかる資料か現物があれば、というと参謀が写真を一束見せた。

 泥にまみれた遺棄車輌が塹壕に突っ込み逆立ちしていたり、横転捻転した状態のものや樹木や壁に突き刺さったりという、風景写真だったり、部位の拡大だったりとしている。

 多くは参考にならないが、つまり写真をとった者達も多くはなにを取ればよいのかわかっていないという状況はわかった。

 実車として二両の四グレノル貨物車が整備課で保管されているが非稼動状態であるという。

 顛末報告書によると、なにがなんだかわからないまま動かなくなりました。ということだった。

 会議がひとまずの閉会を迎え整備課にあるという非稼働の二両を見せてもらうことにした。

 顛末報告書とは別に整備課長は顛末を知っていて、酔っ払った兵が祝いと称して吸気口から酒を飲ませた。酔っ払った調子でその後しばらく動いていたが、更に飲ませたバカがいて、その後止まったそうだ。排気口から酒混じりのなにやらがこぼれて下痢をしたと笑っていたが、その後なにをしても動かなくなったということだ。

 普通吸気口はキャビンの下に隠されていてサージタンクとエアフィルターが水と埃からエンジンを守っているのだが、溺れるほどに飲ませたというのはカップにいっぱいという量ではなく一瓶ということなのだろう。シリンダーヘッドのシールを飛ばして機関本体を守ったのなら対処は簡単だった。クランクシャフトが折れるほどのことになっているかもしれない。

 エンジンをみればヘッドカバーがすっかり煤けていた。由来怪しげな燃料の異常燃焼に備えたガスケットと減圧ヒューズがちぎれていることもわかった。正位置に戻るくらいの異常であればとりあえず動くくらいはするはずだが、動かないということは弁がもげている。

 ヘッドカバーを外してみれば全てのシリンダーの安全弁が折れていてヘッドカバーの内側に食用油と果実酒の奇妙に甘い香りを撒き散らしていた。

 不正燃料対策にシリンダー単位で安全弁を設けたのは構造上の無駄であるのだが、こういう事件事故が当たり前なら今後もしばらく必要な工夫になる。

 もう一両は分解調査後、再組み立てをおこなった車輌だった。作業は完全なはずだったが、試運転で稼働しなくなった。採寸をして図面を起こすまでの注意を払ったが、職務上の責任としてともかく壊したことは認めた。

 幾つかの部品は使い捨てで分解して組み立てるまでに壊れるものがあるはずなので、どこかでそれが壊れ外れているのだろうと見当がついたし、試運転でどこかを壊したのかもしれない。試運転後の分解調査は部下に任せてその後の再組み立ても部下任せということだから、装備課長のお里も知れるヘタレっぷりになにか言って良いのかどうかわからなかったが、礼儀正しく鼻で笑うだけにとどめておいた。

 大佐殿におかれては小役人っぷりは腹も立つが、善良な腰抜けとしての常識も利いていて、人としてのバランスはまあ取れている人物だった。

 腹立ちまぎれに、分解試験の結果は奥様やお子様には話されましたかとつい聞いてしまったが、口を開いて閉じて、軍機だ、と返すくらいにはひねりが聞く人物でもあった。

 なにがおこったかという話は彼にとってはもはやどうでもいいくらいの話であるらしい。

 両方共自走はできなかったが牽引には支障がないので、二つに分けて四両でそれぞれ引っ張って帰らせることになった。



 ワイルの公館は本国よりもよほど整理されているが、それでも犯罪者手配書を頼むと七つの部屋で七人の担当者がそれぞれに手配書を持ってきて、中には人物が被っていて金額の違う手配人がいるなどしていた。それぞれの部屋が遠く離れていなくて幸いだった。

 被った者の扱いについて尋ねると、連れて行った司法局の引き渡し支払いになるということで、何枚あっても使えるのは一枚だけということになる。

 高いところが得なのかと尋ねると、金額の上ではそのとおりだが、実績を積む上では付き合いもある、という云われ方をした。賞金稼ぎは司法を敵に回すことは面倒でよほどのものでも後ろ盾を必要とする。城市内での補給を考えれば様々な取引は必然だし、安心できる安全地帯を確保するためにも官警との無駄な衝突は避ける方がいい。そういうことであるらしい。

 ワイルのオアシスに店を手に入れたいのだが、と話をするとオアシスは水辺の立ち寄りは自由に許されているが、岸から百キュビット以内の土地に建物を立てることは許されていない。また千キュビット以内の建物の建設は城主の合議が必要になる。それ以遠の城市外については空いた土地ならどこでも良いことになっているが、争いを避ける賢さがあるならギルドの仕切りに従うのが良いだろうということだった。ギルドは軍都の公館には事務所を構えていない。事務書士の紹介を頼むとそんな身分の者がこんなところにいるわけないだろうと云われた。各城市の法律や会計を牛耳るということは生活に困らないということであり、どこかに流れる必要が出るわけもない。

 それに城市の外には目の前に争うべき敵がすぐ脇にいるのだから、敵を求めてはるばる遠くに足を向けない。不穏なような尤もなようなことを言われた。

 ミョルナの公館はもう少し友好的だった。

 マジンの顔は知らなかったが、ローゼンヘン工業についての様々は聞き及んでいて、隧道による冬季の往来を自由にするという計画について広く前向きに受け入れているということだった。ともかくミョルナにとって山間の雪は致命的な部分があって、山に穴を通すという画期的な構想とあっては感謝に堪えない。と、ひどく前向きだった。

 ミョルナの手配書を求めるとかなりの厚みがあった。本国からの連絡が悪く期限分全てを取ってあるということで風呂を沸かせるほどの量があった。

 その風呂を沸かせるほどの手配書を読み込むのはなかなかの歯ごたえで、似顔絵のないものもあった。

 町中を一巡りしてキトゥスホテルに戻るとマレリウヌとゴシュルが寝こけて役に立たなかったことを詫びた。

 二人は日付の感覚を失うほどにのんびり過ごしたらしく、翌日二週間どうやって過ごしたかを確認すると、軍都のあちこちの店やら名所やらをめぐったという。

 マジンにとっては名所というと軍学校と博物館くらいであとは大本営と各地の公館くらいかということだが、古戦場跡地でもある軍都はめぐる気になればいろいろあって、古い砦やら物見やらという土地をめぐっていた。見晴らしも風のめぐりもよく気持ち良い場所が多いという。

 帰りがけに軍学校に寄って様子を見て娘達の軍服やら外套靴やらを整えて、ヴィルヘルミのおすすめの店で食事をして娘を送り届けて帰った。

 二人の選んだ店はちょっとおしゃれな他所からの旅行者向けで安くはないがまずくもなく、気取った雰囲気と珍しい料理で客の目を楽しませる店だった。

 高級というのではなく盛り場の雰囲気に娘達は店内を物珍しげに眺めていたが、カビた煙草の香りとそれにかぶさった強く安い香水の匂いをマジンはあまり好きになれそうもなかった。

 ヴィンゼの酒場ほど荒んでもいないし、高級を鼻にかけた店でもなく貧乏人でも軍服を着ていれば入れる客を選ばない店で、デカートにない面白みのある店ではあったが、肝心の料理がもうちょっと味付けが好みだったら良かったとマジンは思う。だがヴィルヘルミには文化の交差点、都会の香りを感じさせる店であるらしい。

 そうかね、と思って改めてあたりを見渡してみれば、様々な装いの人々が自国風料理を口にして、面白がったり文句を言ったりしている。

 そういう風に自国や他国を望郷の風景としてを楽しむ店だと思えば、気にしないでいいのかもしれない。

 純粋に料理を楽しむという意味では軍都という町は雑みのある香りが多すぎて、なにを食べても奇妙な香りがつきまとう。

 大体は軍人という職業の香りで、のどかな田園の香りとはだいぶ違う種類の汗の匂いが街の空気に充満している。その緊張を隠すためのタバコやコーヒー香水などはいっときの気紛れにはなるのだが、カビた空気に染みこんだそれは緊張と披露恐怖の香りになる。

 できた葉巻を湿気らせ干しなおしたキツい香りの煙草と炭の一歩手前の泥のようなコーヒーは安酒が回るまでのつなぎに使われていた。

 よい物をわざわざ安く楽しむのは、と軍都に来た当初は思ったものだが、前線に張り付いているうちにいろいろ物足りなくなった戦場帰りが、軍都に持ち帰って流行らせたということらしい。

 柳の木と松の葉で燻して干したものを二十年ものの軍靴で蒸らしたものという逸品を試させてもらったことがあるが、煙草を咥えているというよりは腐葉土になりきれない落ち葉を咥えて牛の小便を眺めている気分になった。

 きつく淹れたコーヒーの香りがするという弁が試させてくれた人物の自慢であったが、工程を聞いた時には、職人の苦労は何だったのかという思いと同時に過ごした日々が創る嗜好について思いを馳せないわけにはゆかなかった。

 五回生になった娘達二人は今まさに泣いたり笑ったり出来ない状態であるらしい。

 とうとう士官候補生として扱われるようになったふたりは、自分のやりたいことを他人にやらせる側に回ったのだが、自分のやりたいことを他人に伝えて自分のやりたい水準まで他人にやらせる、という作業がどうしてもうまくゆかないという。

 軍学校の士官候補生の部下というのは基本的に自分の預った従兵生であり、指導教官としての教育軍曹であるわけだが、どこそこまで自分と一緒に走るという作業或いは掃除とかでさえ、ときにうまくゆかない。それは体力が技術がとかそういうのももちろんあるのだけど、そういうことを繰り返していると何かこうもっと根幹的なところでうまくいっていないことを感じるという。

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