棄民の歌

ローゼンヘン工業 共和国協定千四百四十二年春

 ミョルナへの道は街道と全く関係ないところから手を付けることになった。

 シベールと呼ばれる峡谷の集落は特に得るものもない集落だったが、それゆえに麓への道ができると聞いて一も二もなく歓迎した。幾つかの山を抜ける間道はあるが獣が通るのを人が使わせてもらうというような道で雪が降れば使えなくなる道だった。

 辛うじて貧しい耕地と高山山羊がいくらかの人々の糧を支えていたが、そこにいる人々もなにがあってここにいるのか或いはどうして祖先はここに至ったのか、疑問を持つのも諦めたような人々ばかりだった。

 そこに人がいるのを発見したのも集落を求めてではなく単に測量上ミョルナへの緩やかな傾斜とトンネル工事上の作業限界とミョルナから鉱山の入り組む地権の煩い地域を回避しつつマニグスへの最短経路を求めての事だった。つまり、ゆるやかに線路を傾斜させつつミョルナの高地に向かって弧を描いて線路を地図で辿った先にシベールがあった。

 どのみち山間をミョルナの高さまで登るには相応に道をうねらせるしかなく、現在ある街道のように狭苦しい地域で折り返すことは大編成の列車には無理だった。

 また旅籠を目指して一気に登るような必要もなかった。

 鉄道運行上の効率を求めればある程度ゆるく線路を敷いて距離を稼ぐほうが合理的だった。結果としてほとんど直線区間のない地上計画と百数十のトンネルをおよそ六十リーグ掘り抜いてミョルナに至る計画が立てられた。下りの計画も概ね似たような感じでワイル側への出口はこれまでの街道をやや離れた位置につけられる。

 測量はさんざんすすめられていてミョルナ全域には三年にもわたって新旧千近い測量班が作業をしていた。

 シベールは西のどん詰まりで絶壁に囲まれたような地形だったから測量班は頻繁な往来を諦めてしまうほどの有様だった。

 それでも工事が間近になると音響を測定するために集落に張り付くようになっていた。

 三人の測量技師を支えるために四十人ほどの補給班が夏のうちに物資を蓄え、多少の取引がおこなえるように余裕を見て物を揃えていた。もう少し往来の良いところであれば電波式の計測装置を配置することで工事の状況などを把握してそのついでに地下地形の把握もできるが、シベールはあまりにどん詰まりでいつ壊れるかもしれない機材を放置するよりも整備できる人員を配置するほうがだいぶマシな土地だった。

 それに迎えは冬のうちに来るはずだった。

 自前の測定点だけでははっきりわかることはあまりないが、周辺の無人測定点が垂れ流している電波情報を受信することでの振動の遅れなどから工事の進捗が順調であることはわかっていた。出てきたところが一キュビットずれていたことが残念と言えなくもないがともかく、シベールはごくあっさりと麓に街に出られる街道を手に入れた。

 今トンネルカッターの三号機がマシオンで組立てられている。

 掘り返した土砂は色合いや比重から大雑把に分別され粗方すべてがデカートのローゼンヘン工業で処理されることになった。

 分類作業の殆どは手作業だった。目の前を流れる石の列から他とは違う何かをみつけ拾う。実のところ直感勝負の当たりが少ない作業だった。

 フラムの鉱山組合から三百人ほどの鉱夫を講師指導係として指導を仰ぎ、二千人ほどの捕虜労務者を使うことで概ね八万グレノルの掘り出した岩石を採掘から鉄道搬送で搬送するまでの間に分類していた。労務者が何かを認め手にとりあげた八万グレノルさえも大方はなににというわけでもない花崗岩でバラバラと薄く僅かな石炭層があり、材料鉱石としてははい残念でした。という性質のものだったが、今はその石塊こそが第四堰堤の工事に欲しいものだった。

 ヨタ渓谷の流れに衝立を作る形で作られた三つの水門を持つヨタ水門階段はミズレー運河の回転昇降機に僅かに遅れて開通した。渓谷を大型櫓船の幅に合わせて多少手を入れなければならなかったことが、のちになってわかったからだった。

 ミズレー運河の落成式にはオゥロゥとイェンコに鈴なりになるほどのデカート元老とローゼンヘン工業と付き合いのある各地の有力者にその数名の随行客をのせてザブバル川からの水路とミズレー水郷の切り替えを楽しんでもらった。

 構造としては天秤のような水平振り子で舟を含んだ水域の水の重さは等しいことを利用したものになっている。そのため構造的に動力が必要なのは理論的には軸構造にかかる静止モーメントを上回る分の力だけという事になる。

 実際には水槽側と水路側の水門開閉という動力が必要で、各部で機構的なロックが不要というわけではなく、他にも雑多な船に合わせた水槽水面高さの調整や凍結防止のヒーターなどが必要であるが、カウンターウエイトによって減速がおこなわれ、また降下側の水槽が受ける水面の抵抗によって静止させられるために原則としてブレーキも不要ということになる。

 巨大な水槽が上下するという見かけ上の威容に比べれば、運行経費そのものは安く抑えられていて上流側の水位を僅かに上げ降下中に揃えることで動力そのものも極めて小さく、成行きで時計代わりに上げ下げをされるようになった大橋よりはだいぶ経費も抑えられることが見込まれている。

 そんな技術的な話題はさておいてもオゥロゥとイェンコが宙に舞う短い船旅を多くの来客は楽しんでくれた。

 今年四歳になるマジンの三人の子供たちは船の登り降りに合わせてしきりに船の中で飛び跳ねていた。

 回転式昇降運河の設計主任であるクワイランは、より手軽に楽しめる装置としてトロッコを滑り台に組み込んだような乗り物を水面に落とすという遊具を観覧車の脇に作った。

 上り坂が次第に急になり殆ど垂直になり、てっぺんでくるり回れ右を機敏にさせられその後いきなり水面が見える急斜面に案内され落っこちるというのは高さが二十キュビットしかなくても十分に恐ろしい。と、とてつもない人気を誇っていた。最後水しぶきでびしょぬれになっても誰も文句を言わないほどだった。

 それから半月遅れでヨタ水門階段が完成してオゥロゥとイェンコは全く自由に海への道を通ることができるようになった。

 泥海に出たオゥロゥの初仕事は、海漆喰の浚渫井を作ることだった。

 浚渫井は生簀と桟橋を組み合わせたような沈没船のような見かけの施設で実際にはしけの一部を水没させて汲み上げ斜面と水上部分とを釣り合わせるようにしている。

 ヒツジサルに似た動力付きはしけを二百杯連ねて毎日二千グレノルの海漆喰をヴァルタの港と新港から鉄道でゲリエ村のセメント工場に運び込んだ。

 新港はある意味でローゼンヘン工業のスケジュールに従っていたから問題にならなかったが、ヴァルタ港湾は鉄道線に対して荷受け場が貧弱で日に二十杯を受け入れることは出来ず十二まで減らして残りは新港に回して運行していた。

 ヴァルタにとって鉄道よりも港の容量が小さいということは屈辱だったらしく、組合で港の水面の割り振りの体制が見直された。

 遅ればせながら第四堰堤建造計画に向けての資材の生産が徐々に加速していた。



 デカートの捕虜労務者は比較的冷静に労務を受け入れていた。

 様々な思いがあるが、食事は出るし、嗜好品を買うだけのオモチャの紙幣もあった。

 唯一の気がかりは新入りが少なくて新しい前線の話が入ってこないことだけだったが、はっきり言えば自分たちが扱っているなにやらの様子を見るに、なかなか考えたくないことが起こっているだろう、と直感していた。

 少なくとも虜囚となった帝国軍人たちは自分たちがこれだけのものを手にして戦場に立てば負けるはずがないと確信していた。

 警備そのものは相応に厳重だったが、どういうものにも隙や死角はあるという理屈では、脱走を試みること自体は容易だったが、看守の装備を奪ったとして生き抜くにはなかなか面倒なくらいにどこだかわからないところで作業をさせられていた。

 鉄道線を延々歩けばどこかの街にたどり着くことくらいは想像も付いたが、一体どれほど歩いてどこに着くのかは皆目検討もつかなかった。

 誰かが大きく騒ぎを起こしてくれないか、と期待する者は当然にいたが、自分で騒ぎを準備してまで採算があるほどの者もいなかった。

 それに三ヶ月働いて手に入れた小遣いは嗜好品を買うには多少あまり、半年を収容所で過ごすに十分な量が手に入るというのは大きかった。労務のおりに手に入れてきた医薬品を土産にすることもある。

 目の前で働かれていると腹が立つが、遠くで働いている連中には不思議と腹が立たないというのも利いていて、常に半数弱が労務に出ているが、暴動事件から二年余りがたった今、労務に対して不忠とか叛逆とか言った言葉で収容者同士を責めることはなくなっていた。

 もちろん、労務に出た者が収容所内に持ち込む物品――管理上逸脱しているがお目こぼしされている――によって収容所内の空気が明らかに緩んでいたことも無視できない。

 所外労務の過程で死んだ千名ほどの収容者に対しても、労務者が自主的に戦死として墓を作るくらいのことはするようになった。どこの現場も収容所の中ほどに安全でないと皆が知り、収容所の中が安全と思えるようになったことに皮肉な感慨を覚えていた。

 幾人かの労務者は現場で調達できる嗜好品や雑貨を言伝とともに収容所に帰る者に託すこともあり、ホムラ男爵もその給金の殆どを様々な物資に換えて家臣に宛てて託していた。その量は当然に全員に分配できるような性質のものではないが、それでも彩りのない収容所内の配給物資よりはかなりマシな品だった。僅かであるが現場で配給される酒さえ現場の資材で作られた水筒で持ち込まれていた。

 そういう品をめぐって争いが起こることもあったが、自治が利き、看守の動きに怯えがなくなった今、極めてすみやかに決着するようになっていたし、悪質な者が所長によって死刑に処されても収容所の中が混沌とすることはなくなっていた。

 久しぶりに送致の通告があり三千の捕虜が新たに前線後方の収容所から送り込まれてきたとき、収容所の中は少し大きくざわついた。

 共和国軍が再び攻勢を再開したという。

 開戦当初そしてその後の幾度かの反撃のような潮の満ち引きのような大きな動きはないが、帝国軍が様々に苦しいようだということは、共和国軍の動きや前線の収容所周辺の風景から感じるという。

 誰もが舌打ちをしたのが、前線の収容所の食料配給が明らかに好転したというその傍証だった。

 後方拠点までの物資補給がとうとう捕虜にまで余裕を見せるようになったということは、帝国軍にとってかなり危険な徴候だった。

 防衛戦だというのに共和国軍の弱点は兵站ことに物資調達と補給だと帝国軍は見ていた。

 それは戦場が国内であり、様々に分裂している連邦国家として共和国が成立している過程で軍の調達行動がひどく貨幣経済に頼った部分がある。

 理念として明白な部分はあるが、現実に対応する制度としては、人々の理性と感情や流通の遅さが引き起こす地域性や、物理的な距離が引き起こす損失について無視しすぎていた。理論的な正論で自身の自由を奪っていた。

 そのことが実際に国土に踏み込まれた状態での戦争で民間からの協力徴発をおこないにくくしていた。もともと軍の直轄地じみた扱いであるギゼンヌでさえ、軍が軍理に応じ自由気儘に振る舞うことは難しかった。

 帝国軍の机上模擬戦闘をおこなった共和国軍側士官によれば、帝国軍が突破した穴なぞ、町ひとつ繰り上げて東に進めればいいだけのことではないか、ということだが、そう出来ないのが共和国の実態と理性だった。

 またそうできる国力と権威こそが帝国の力でもあった。

 そのような大規模な再編成事業は帝国においてもそうそうにおこなえる手段ではない。新たに編成した地域が不安定になるのは必然であったから、町一つの戦力を動かすためにおこなうことに意味があるわけでもない。

 だが、すでにある不安定の裁定に懲罰的に使うことは可能だった。

 ベイジン公とジーボイ公の宮廷闘争によって起ったホナーン伯とハーベイ伯の争いを収めるために、ホナーン及びハーベイの両国の民三百万に新たな領地を与える。ベイジン公とジボイ公にはそれぞれ万難排しその旅の見届け役たるを任せる。という皇帝陛下の恩名において裁定が下ったことが、今回の戦争の規模の大きさの原因でもあった。

 戦争の敗北は二人の有力な大貴族の指導力への疑いにもなり、譴責の理由ともなる。

 争いとなった二つの地域は水も豊かな土地であった巨大な穀倉でもあり、また巨大な炭鉱もあり、生糸や麻なども産した。

 それでも三百万という数は争われた二つの領国の人口のほぼ七割に当たる数であった。

 またそれだけの人口をベイジン公とジボイ公は運びだす事を任された。

 むろん領地を与えられたのはホナーン及びハーベイの両伯爵であるから、何人も土地を侵すことは許されない。悪辣で面倒な裁定だが、攻めこむ先の共和国の国情を思えばむしろ帝国内の事業のほうが重大事であった。

 ベイジン公は当初皇帝陛下から、二年でできるか、と問われ、いえ十年ほどは、と答え皇帝は満足気に頷いた。その時からすでに折り返しを過ぎていたが、まだ百万余ほどしか送り出せていなかった。優勢を誇ったはずの帝国軍がたかだかわずか三百万の腹を満たす畑も確保できていなかったことが原因で次第に国内の輸送路が麻痺をし始めていた。

 帝国は巨大で豊かでもあったが、輸送路は無限にすべてを自由にするほど余裕が有るわけでもなかったし、ベイジン公とジボイ公がいかに強力な貴族であろうとも、自らの採算を考えれば自ずと割ける力も限界もあった。

 せいぜい西へ向けた街道を整備し海路を確保すべく様々に手を打てば、という程度に考えていたが思いの外共和国の水軍は手が長く、一匹払えば十匹がと群がる群狼の如き連携で、むしろ陸より手ごわかった。

 結局かつて帝国より離叛した中立国をなだめすかして尖兵を送り込むのが精一杯で、そこに至るまでも陸路と大差ない代価を支払うことになった。

 未だ皇帝の裁定には従えていないが、まだ時間はあったし手もあった。



 そうした帝国本土でのジリジリとした焦りとはまったく別に、捕虜収容所の虜囚となった人々も共和国の胎動を直接覗く現場に立ち会わされて、驚きと興奮を感じていた。第一五路線整備課は堰堤工事から技術に優れた捕虜労務者千二百人と第一路線整備課からの二百名を加えて警備員四百名を伴って雨季が終わったばかりのシャッツドゥン砂漠に赴いた。

 工事線と工場を設置するためである。

 捕虜労務者の大方は工場の性質については知らされていなかったが、見たところ奇妙に巨大な艀のような物に建物は作られていた。

 作業そのものはひどく単純な露天掘りだった。地べたを掬って運ぶ。

 掘られた瓦礫は機械の口に運ばれる途中で砕かれ、登り窯の煙突の途中の口からバラバラと砂利をこぼすようにできていて、土石を炎で炙って表面を均し、桟橋で線路に向かって積み上げた材料を組み上げるような仕組みのものだった。

 ここで掘られた硼砂を砂や石炭灰と混ぜてガラス母材にして、精製せずに礫としてセメントや石油樹脂の芯として第四堰堤の建設現場に送り込まれていた。

 表面を炙ってなどと簡単な言い様をしたが、ただそれが全て毒の砂ということであれば話はだいぶ変わってくる。

 工場はしばしば大砲のような音を響かせることもあった。 

 日に一回か二回轟音を響かせる。

 工事の者達はメガネ付きの首まで覆う面を渡され砂漠にいる間、屋舎で休むまで外さないように言われた。砂漠の岩砂は毒が含まれていて、暑さに負けた馬が舐めると一両日で死ぬという話を聞けばそれも仕方なかった。

 ともかく面をつけなければ落ち着いて仕事もできず、面をつけていれば重機になれたものでなければ暑さでたちまち倒れる、という話の流れを理解した労務者たちは邪魔くさい面に文句をいう気も失せて仕事についた。一応三十分刻みで各班休憩を取ることになっていて飲み物を取るように言われているのだが、湯のみ半分ほどの柑橘の香りのする水を飲む義務が苦痛に感じるほどだった。

 待機所は窓も開けていないのにひどく涼しいさわやかな風を運んでいて、労務者を労う配慮は感じられたが、炎天下の防毒面をつけての作業はこれまでにない苦労だった。

 最初のうちは労務者たちも驚いていたが、流石に慣れてきて爆発の時間や回数の賭けをして今日は誰それの屁だ、という話題の種にしていた。

 暑さと装具に苛立った跳ね返りが、看守の静止を無視して防毒面を投げ捨てそこらの砂を舐めてしばらく作業をしていたが、苦しみだし死んだ。

 結局、三ヶ月の労務で事故はその一人だけだったが、それ以来、看守も労務者も全員が入浴と洗濯、装具の手入れを念入りにするようになった。

 セメントの材料は簡単だった。デカートの周辺の丘陵地は見栄えがあまり良くなかったりそもそも層が薄かったりと大した値がつかないので放棄された古い石切り場があった。セメントもわざわざ石を焼いて作るよりもよそから手に入れたほうが簡単だったが、機械化され燃料があれば話は全く違ってくる。既にあった地所にセメント工場を立て川を上がってくる間塩抜きをした海漆喰と石灰岩を混ぜて焼成してセメントにする。

 海漆喰はケイ素やカルシウムの殻を持った微細なプランクトンの死骸でそのままでも塩で固まるのだが、一旦洗ってやって焼いてやればセメントになる。色の良し悪しの贅沢を言わなければ泥海のあちこちでほぼ無尽蔵に取れる資材だった。

 ようやく必要な資材の手当がつき始めて第四堰堤の工事も進んでいた。

 第一鉄橋は基部を第二鉄橋と連ねるようにしながらタイルで張り込められ、雪のある間に最初の線路は陽の光が見えないようになっていた。雪解けを待って鉄橋がセメントと砂礫で埋められるのと時を同じくして山肌と地べたがタイルで固められ始めた。

 二号線路が一号線路と同じようにタイルで張り込められると、一号線路と二号線路の間には巨大な煙突が取り残された。周りをガラスの塊で埋められていった。

 次第に固められる足場をのばし第四堰堤は春までの工事で鉄道鉄橋の高さは二百五十キュビットを超えるまでになっていた。



 瘴気湿地の油井は全く順調に様々を吐き出し生み出していた。

 仕掛けとしては単純で太さ一キュビットほどの鉄の管を油井の一番深そうなところに建て、泥とも油ともつかないものを汲み上げているだけだった。

 だがそれだけの収益物で石炭に回していた輸送力の多くが減った。

 現状ザブバル川で動くほとんどの舟が骸炭ではなく石油の生成残滓を使って発電航行をしていたし、デカート領域内で動いている鉄道機関車についても同様だった。

 僅かに一年ほどで名前をつけるのを諦めるほどの数の艀と三十杯ほどのハルカゼ型はザブバル川とチョロス川の水路工事やその後の水運で活躍を始めた。

 大量建造した艀やグレカーレの簡易軽量型のハルカゼ型はこれまでのセルロイドやデンプンを基材にした炭素材ではなく、ガラス繊維と石油由来の合成繊維を混紡し立体織機で布に仕立てた物に樹脂を浸透硬化させていた。要所の細かな部品はグレカーレ同様に炭素材の部品も使ったが、船体の大きな皮の部分や上構の粗方は合成樹脂によるもので、製作時間は実のところ大差なかったが、工作設備そのものの準備が簡単で大量に並列作業させることで容易だった。艀は樽のように仕切りのある気嚢を人が乗っても抜けない程度の皮で貼り付けささえ、重し代わりの鉄の床板を気嚢に引っ掛けるように敷いただけの簡単な作りのものだった。

 出来にこだわらなければそこいらの農家の納屋でもできる気楽さが合成繊維と樹脂の組み合わせにはあった。

 ハルカゼ型はデカート近郊の河川で運行することを前提に石油燃料と老人たちが基礎設計をしたガスタービン発電機を主機として搭載していた。

 バーナーを切り替えることで熱価の低い植物油でも燃焼運転可能なようには作られていたが、今のところはわざわざ性能を落として運転する必要もなかった。

 これまで出港の準備が遅いことが機関船の物笑いの種だったわけだが、出足が機敏になったことで違いは一目瞭然だった。

 船殻そのものはグレカーレよりも重かったが、動力主機のガスタービンと灯油の組み合わせは燃料粉砕機と自動給炭ボイラーが不要になった分、圧倒的に軽かった。出力も燃料の燃焼を七割近くも力と変えることができ、これ以上は軸と電動機発電機の発熱の回収に頼るしかない収率だった。

 基本的な作り方はカヌーと同じようなものだった。薄い合板や紙で舟形を組み上げ毎日作業進捗にあわせて色を変えた樹脂を枠に合わせて貼ってゆく。部品の接着は糸くずの端材が入った粘土状のもので接合面に密着させ締めあげる。締めあげた線がカヌーの骨のような意味を持ち舟全体を支える。

 内側に船室船倉を貼り、機器を組み込む。

 面倒といえば、張り合わせの要領の悪さで部品の寸法や形に歪みが出ることだったが、数打ちの最初にはよくあることで、初期の量産の具合を見て製造冶具を一通り見直してから組み上げてゆけば大方は問題にならない。

 一旦、合成樹脂による船体の工法を工員が学んでからは新造船の量産は早かった。耐熱材料部品の量産設備は目の前で作っているハルカゼ型に間に合わせる分には事足りたし、艀の動力は既に量産をおこなっている小型の圧縮熱機関の燃料設定を灯油に差し替えるだけだった。

 将来的には自動車工場で使っているような無塵室の焼付塗装装置や基礎材の鋳型のようなものを準備するべきかもしれないが、今のところは技術的な実証や中長期的な量産計画をすすめるよりも短期的な量産運用を進める必要があった。

 紙袋に変わって合成樹脂の袋が使えるようになり、弾薬の梱包や薬莢も硝化樹脂が使われるようになると、木材の消費が紙と材料に絞られるようになった。

 ローゼンヘン工業は拡大に伴い自社で使用する紙の殆どを自前で生産していたから、設備の拡大には懸念もあった。

 既に共和国中の紙の殆どをローゼンヘン工業で使っているのではないかという有様だったし、街道を動いている紙の流通量を考えれば大げさなことでもない。

 デカート州内での紙の値段はローゼンヘン工業の余剰量とかなり密接に連動してた。

 漂白処理や表面処理などで紙質が高く安定して筆記にも向いている高い付加価値を持ったローゼンヘン工業の紙はデカート州のみならず各地で高く取引されている。

 山で出た端材を建材などに回さず製紙に使ったほうがいいだろうと云うくらいにはローゼンヘン工業の紙は高価なものだった。

 瘴気湿地がなぜ炎の沼にならないのかということは随分と不思議ではあったのだけれど、単に水混じりでというだけではなく、天然ガスの上層に希ガスが大量に溜まっていることがようやくわかった。これまではこぼれて出てきていた油だけを拾っていたのだけれど、沼の様子がわかって来たので油井を一本穴のそばに突き立てて吸い上げてみると希ガスがかなりの量で見つかった。というよりも炭酸ガスや炭化水素などの比較的ありふれた地下ガスが少なめだった。あまりガス田として使える種類の油田ではない。

 ガスポンプを十日ばかり動かしていると目に見えて沼が引いていた。油面に作ったいい加減な浮き桟橋が作った覚えのない手すりの柱を左右に突き出していた。肩より少し高いくらいに据えたポンプが浮き橋の向こう背の高さになっていた。

 ガスの成分の分析と合わせて分離が進められると、老人たちの大砲の使い途が増えた。

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