装甲歩兵旅団

ローゼンヘン館 共和国協定千四百四十五年節分

 機械手袋と関節竹馬を組み合わせた巨大な甲冑を作っていたのは、つまりはそのくらいにゲリエ卿としての仕事がデカートでたてこみ、しかし相応に退屈を持て余すくらいにマジンが暇だったということでもある。

 張力や剛性の高い素材を使った操り人形と同じような機械機構は、理屈の上では材料のひずみ分だけの遅れで操作する着用者の動きを拡大して反映する。

 見た目通り人を巨人にする機械だ。

 マジンの膂力体力を以ってすれば、甲冑の腕が二十キュビットに達しても動かすことそのものはそれほど難しくはなかった。

 着用者の頭肩胸腹腰の姿勢位置を甲冑の胴体にそれらしく伝える機構はなかなかに苦労したが、甲冑による体型の変化を考えてもなかなかに傑作だったと自負している。

 兵隊が戦車をやっつけることはウサギがトラをやっつけるというくらい難しいことなわけだが、このくらいあれば出来ないかしら、という思いつきで作ってみた趣味と興味の工作物だった。

 だがそんな風に強そうに大きな甲冑を戦いの道具には使えなかった。

 そんな腕の長さになると腕の長さの更に倍ほどの大剣の先端は衝撃波で刃先が歪むほどになるし、そういうつもりで振るった関節はもげないことがマシと思えるようにあちこちが歪む。

 山車に乗っているハリボテが立ち歩くくらいの意味しかない機械だった。



 見るべきものがないわけではない。

 マジンの膂力を十全に活かしたバカバカしいまでに巨大な大剣の一撃は、戦車の砲弾を弾き返すことを目的とした試験用の鋼鈑材をあっさりと引き裂くことができた。計算の上では刃先の先端速度は音速の十五倍以上の速度が出ている。

 計算の上だけというわけもなく写真機や破壊測定などでも測定されている。

 大剣の刃は高炭素鋼で重金属と宝石材料の中子の層を支えていたが、衝突の衝撃と変形で一部が少しづつ、錬金術じみた変性をしていることがわかっている。

 可能性としての面白さ興味深さがないわけではない。しかし、そうであっても全く役に立たないものでもあった。

 武器としての大剣の話だけではない。

 衝撃によって大剣が一撃でなまくらになるのは、ある意味で計算どおりであったが、大剣の速度を支えた各部分にも衝撃が遡上し、機構の必然である僅かなバックラッシュを加速区間として、構造各部を歪め砕いていた。

 ダンパーやら磁性流体やらで機構の幾らかは衝撃を受け止めていたが、動力が一箇所であるところから、それを伝えるための様々が衝撃や摩擦が割れや歪みの形で機構に負担をかけていた。

 その衝撃は着用者を例外とはしない。

 グレノル引きの整地ローラーを使って山道を引き転がして苦にならないマジンであっても、そういう風に乱暴を試すと装具の当たっていたところが幾らか痣になっていた。

 機械と同じだけの負傷を負うとすれば、両腕の無事な骨筋関節を探すほうが難しいはずだが、それを避けたのは日頃の健康の賜物というしかない。

 機構の方を頑丈にすれば、負担は着用者に掛かることになる。

 怪我というほどの怪我はなかったものの、機械のほうが適当に壊れてくれていてよかった、と云うべきことは流石にマジンにも明らかだった。

 こうして立ち上がると首から上がないまま三十五キュビットを超えるほどにもなる巨大な甲冑はなかなかのウドの大木ぶりを示すことになった。

 それは作ってはみたもののやはり思った通り、玩具か見世物ぐらいにしか使えそうもないシロモノだった。

 全身にアクチュエータを分散させないと、ある程度から大きな機構を人力で動かすことは無理らしい。それは駆動力が操縦者の膂力体力とは切り離されるという意味で機械としては健全な方向ではあるのだが、技術要素がいくつも不足している。ということでもある。

 駆動力以外にも問題は多い、仮に身につけたとして問題になるのは辺りが全く見えない聞こえない状態になることだった。

 音の方はかろうじて電話の要領で周辺の音を拾ってやればいいが、風景目の方はまるでわからないことになる。それに自分にいる姿勢は想像がつくが、各部の重心は必ずしも把握できない。装具を支える筋肉のテンションで姿勢を把握するにせよ、姿勢や速度感は大事だった。

 骨格甲冑は子供たちの竹馬としては面白い玩具だったが、おもちゃ以上の実用を考えた場合には乗り越えるべき課題がまだ多かった。



 現状機械そのものに独自の動力膂力はまったくないが、腕が伸びることで扱いやすくなる道具や作業がいくらかあることも事実で、視界の問題がどうにかできるなら使えないこともない。

 ただし衝撃の掛からない作業に限る。

 跳んだり走ったりという、人がついおこなってしまいがちな動作も危険だった。

 骨格構造そのものは磁性流体筋肉と液胞関節の組み合わせで関節の保持と制振制御が可能ではあるが、一方動力の組み込みは今のところ不可能というか適当なものがなかった。

 今のところ間に合わせでガスタービン発電機ということになりそうだった。

 重機の要領で内燃機関なりを仕込んでやろうかとも考えたが、どこになにをとなるとこれまで以上に大きくなることになり、ダンパー以上の機能をもたせられない筋肉風の様々と合わせて鉄の肉襦袢をこれまで以上に太らせることに意味を見出すには基礎技術が足りていなかった。

 最低限、屈折鏡以上に扱いやすい視察装置が必要で一応潜望鏡をつけてはいるが自分の腕や肩が邪魔で肘の先が見えないという状況には変わりなかったし、足元も転んでも届かないようなところから手前は見えないという状況ではよほど片付いたところでなければ使い物にならなかった。

 つまりこんなものを作って見るほどには、マジンは多少の暇を持て余し、益体もない趣味の工作を楽しむ余裕が出ていた。

 ローゼンヘン工業の事業進捗は概ね順調というところだった。



 ローゼンヘン工業の運営自体は社員の手にあずけて運用実績が安定し始め、堰堤事業も最終段階で施工の確認作業が進みつつの状態で重力層にも遮水層にも構造計画上問題となる事故は起きていない。

 細かな施工上の問題は見つかっているものの概ね予定の範疇で対応も順次進んでいた。

 浄水設備の工事計画も概ね順調で今年いっぱいで建屋の工事が終わり来年初夏頃から内部の設備整備にうつれるようになる。外部の取水構造の試験も含め来季は少し忙しい。カシウス湖での作業の危険を考えるとあまり急いた作業をさせ事故を起こすわけにもゆかなかった。

 事業計画の現場への応援の配置随行も、むやみに増えてしまった館の女性秘書の社会復帰の一環として使ってみることにした。

 当人たちがどう考えているかはさておき、社員でも捕虜でもマジンが現場を任せて信用のできる作業をおこなえる技術者は同じ重さの宝石よりも貴重だった。待遇を良くしてやりたいのはやまやまだが、給与面での待遇は良くしても悪くしても人が逃げるのが常だったので、塩梅をつかむのがひどく悩ましい。

 せいぜいが現場の視察を増やして、話を聞いてやるくらいしか対策がなかった。

 もともと研究要素が大きく、事業収支上では不採算を前提にしているカシウス湖の浄水場計画は進捗が不調というほどではないが、全体に後ろに押され気味であった。

 誰もがその重要性は理解していたが、全貌を把握するのが困難なほどの事業内容で、よりわかりやすい事業計画が立ち並ぶローゼンヘン工業にあっては、人気がある事業というわけではないし、その割に専門的で人物を選ぶ事業内容だった。

 しかし浄水設備の設計は濾水装置や熱と電子の交換器或いは超音波拡散器などの耐久消耗構造も含め試験と検討を進めながらなので、ある程度ゆっくりのほうが良かった。

 現状完成予定が未定の動力源になる核子転換炉についても同様だったが、ある意味で計画の上ではこちらのほうがまだ読みやすいくらいではあった。

 企画計算通りに作ることに腐心すればいい動力炉と違って、浄水設備の方はこの先調査と異なる事態が起こることが既に織り込み済みだったから当然でもある。

 広大な湖の水や泥を汲み上げるということはいずれ瓦礫も相手にするということで、今のところ得体のしれぬ相手に百年の大計を立てているのだから、採算を口にするのは寝言か法螺かというところである。

 要するに、物は壊れる人は死ぬ、猛者も遂には滅びぬ、いつ死ぬか壊れるかは神のみぞ知る、というところが面倒厄介だった。

 カシウス湖はデカート市やその天蓋のような漠としてもそれなりに得体のしれた広さではなく、水際ははっきりしているものの本当に得体も知れない広さと深さのある土地だった。

 補助動力兼非常用動力としてのガスタービン発電機をつかった部分的な試験運転が再来年に予定されていて構造上の下読みが進み次第、本番に向けた二次工事がそこから改めて始まる。

 事業の内容を採算と絡めて口にするとして、その後ということになるのだから、既に巨額の設備投資をしている割に気の長い話だった。



 第四堰堤の建設に始まるカシウス湖汚水浄化はそれなりの形を見せ始めたが、まだまだ道始めというところだ。

 公共事業としては汚水処理、採算事業としては汚泥処理という二つの性質を持つカシウス湖の浄水計画では取水口はある程度の深みから汲み上げることになっている。

 最終的にはバケット式の組み上げ機械も必要になるはずだが、初期のうちは圧送ポンプでコロイド状の汚泥を汲み上げて、すみやかに水位を下げることを目的にしている。

 大量の空気を吸い上げ高圧の排気を吹き出すガスタービン機関は高すぎる軸の速度を除けば汲み上げ装置の動力としては理想的で、燃料を運びこむ面倒だけなければガスタービンで全てを賄いたいところだったが、堰堤工事の終段で使ってみた燃料代とその嵩で諦めることにした。

 定常運転をおこなうにあたっては当然にガスタービンの大きな吸排気圧も水を汲み上げる助けになるのだが、運転開始時や非常時の動力としてはともかく、何十年も運転を続けるにはちょっとばかり燃費と点検が面倒過ぎる。百年も保存した軽油がどういう状態になっているかは多少の興味と心配もあるが、百年の間に軽油の輸送がどういう方法でもどういう事態でも途切れるだろうことを考えれば、動力はできるだけ外界と独立させたほうが無難だった。

 運転温度を下げれば機械的には様々に面倒は減るのだけれど、そうするとガスタービンの長所が死んでしまう。燃料を放り込めば放り込むだけ威力が上がるのがガスタービンの特徴でそこをケチった設定にすることは全く意味がなかった。

 最後はどうあっても百年後の社会情勢が予想できないという点が問題になる。

 間もなく施工完了する第四堰堤は百年か、上手く日々を過ごせれば千年は誇れる自信作だった。

 第四堰堤はよほどのことがあっても壊れないような作りを設計上していた。

 一方でその水槽の水を軽々しく使うことも出来ないようになっていた。

 水門の用意はあるが動力の準備はないのでそのままではまずあかない。

 マジン自身が自分の膂力では足元が滑るばかりで開閉機構の隙間に体をねじ込むようにして水門を閉めて確かめている。

 排水は原則として浄水装置群の完成を待つ必要がある。

 すべてが順調であれば二次浄水場を建設することも考えに入れてはいるが、計画立案自体が二十年は先のことになる未来の物語である。

 百年の大計が結局後世の人心が読めないという一点で妨害されうることを考えると、定常運転を維持する上で面倒臭さ手間のかからなさという意味で核子転換炉はある意味で究極の機械だった。もちろん動力機構であるからには相応様々に危険や面倒はあって、その秘めた力の大きさを考えれば、目を離し投げ放ち軽々に扱うような種類のものではないのだが、躯体も筐体も長く大きく使うものだから、余裕をもって丈夫に作ることもできる。

 彼方に等しい荒レ野から山を越えて燃料を毎日かかさず運ぶ面倒に比べれば、とりあえず八十年という運転計画を定めた転換炉なぞどれだけ高度な機械であろうと、段階的な施工と材料の信用と運用中の定期的な確認の問題だけでケリがつく物語だ。

 最初から計画期間中の燃料のあらかたを丸抱えするも同然の長期間動作する巨大な動力源だから危険物ではあるが、山丸ごとの石炭を運びこむよりは遥かにマシだったし、構造的な最悪事故がおきる事態があっても第四堰堤が完成した後であれば、単に山肌でちょっと派手な埃が巻き起こるというだけの事態だった。

 デカートやフラムか何処かのまちなかであれば騒ぎになるだろうが、禁足地の片隅でちょっと山が崩れるくらいはどうということはない。騒ぎになるとしてローゼンヘン館でしばしば起きた爆発ほども人目を引くことはない。鉄道拠点の地質試験用の地震計に地崩れが感知されるだけだろう。

 地獄の沼とつながっているカシウス湖の水底に、新たに危険物のゴミがひとつ増えると云うだけのことだ。

 せいぜいそれくらいの話である。

 二百年持つ建物を作るのに犬小屋と同じ勘定をするわけない、というただそれだけの話しでもある。使い終わった後に取り壊すことを考えればただひたすらに丈夫に作ることもできないが、まずは水を汲み上げカシウス湖を干上がらせる作業を淡々とこなしてくれる機械が必要だった。

 一組で足りないなら二組三組とある程度実績を眺めながら足してゆけば良いだけの話で、用事が済んだ後の電気はいくらでも使いみちがある。



 予定より早く使えなくなったとしても、代わりを準備すればいいだけの事である。

 と言いたいところだが、八十年という得も言えぬ長期の運転計画を以ってしても、カシウス湖の浄水計画には不足だった。つまりは今、実験中の将来の目処という意味で白状すれば、よくわからない得体のしれないものを複数計画に組み込む必要があって、それはひとまず瀬踏みが終わってからにしたいところでもある。

 そもそも、浄水事業が相手にすべきカシウス湖についても水際の形がわかっている、という以上に何かを正しく掴んでいる、というわけでもない。

 汚泥についても水底の調査が満足におこなえる状態ではないために、今のところ事実上の手付かずと言える状態だった。

 水自体に大量の金属が溶け出している以上、相応に大量の金属が存在しているはずで、岸辺で部分的におこなった汚泥調査でもそれは裏付けられている。その量はカシウス湖の面積を考えれば十分に膨大といえる量であるはずだった。

 汚泥の処理に膨大な水が必要でその水の処理にまた手間がかかるというのは想像に難くなかったが、その際にも電気が十分に使えるなら手間の粗方はそこでケリがつく話題でもある。

 というところまではさておき、それがどの程度か、という定量的な話題としては全く調査未完成でもある。

 水中音探も今ひとつ判然としないほどの水中構成をしているカシウス湖が鉱滓汚水というただ一言で示すことが怪しげな状態であることは、既にわかったことの一つでもあったから、カシウス湖の汚水は水が履けてゆくに従って質が変わるだろうことは間違いなかった。

 そういうことであるなら浄水プラントそのものの建設や動力の建設もさておき取水口の配置が採算の鍵なのだが、汚水があまりに危険なために今のところは大した目算や術があるわけでもなかった。

 将来的には浄水プラントの複数稼働や水中発破による汚泥の撹拌ということも考えるにしても、まずはわかっているところから手をつける必要がある。

 第一堰堤を早期に積極崩壊させてしまうことは、考慮外になった。



 年が明けてエリスが他の妹弟達と一緒に学志館を受験するために軍都からアウロラを連れてやってきていた。本当はリザも一緒にくるつもりだったようだが、軍学校の指導日程を考えるとそうもゆかず駅で二人を見送った。

 幼い子供の二人旅とはいえ、あまり心配するような旅程ではなかった。

 一等車の車内サービスは便所と沐浴以外は客室から出る必要もなく、それも無理にする必要がなければアウロラと一緒に四日ほど部屋でゴロゴロしているうちにゲリエ村まで着く。一部の亜人に合わせた寸法になっている一等車には電話も備わっているから困ったらそれで車掌を呼べば良い。そう言うまでもなく、朝昼晩と車掌が挨拶に回っていた。

 エリスはハキハキとものが喋れるような歳になっていたし、アウロラもおむつの準備もしてあったが、自分で用が足せる歳にもなっていた。もちろん、車掌も社主の娘であることを理解していた。これが二等三等四等と云うことであればまた話は次第に違うわけだが、こと長距離列車の一等席であれば列車まるごとの事故か乗客個人を狙った暗殺の対象にでも遭わなければ問題の起きようもなかった。

 朝晩リザと電話をする日常はひょっとするとこれまでで一番親子の会話の多い数日かもしれない。そんな訳はあるはずないのだが、母娘ともに割と真剣にそう考えるほどに電話を使った親子の会話は会話のための努力を互いに意識させた。

 エリスはともかくアウロラはローゼンヘン館を自分で歩くのはほとんど初めてで物珍しげに一々驚いていたが、八百人も子供たちがいる離れを見つけると養育院のようなところであるらしいと理解した様子で割とあっさりと馴染んだ。半年ばかり早く生まれたライアの息子のアミンと二人して館の中を探検して歩くのがアウロラの日課になった。最近のお楽しみは側塔を上まで駆け上る競争だった。少し歳がゆけばそんなことは怖くてできなくなるような階段なのだが、幼い子供にはまだ十分な広さがあって踏み外せるほどにたやすく登れないそれを彼ら二人は険しい山か絶壁のように挑んでいた。

 姉たちは全く手加減をしなかったし兄は露骨に手加減をしてみせたから、二人は彼らを競争に加える事を嫌った。

 屋上には大きな四分儀があり、方位と天文の位置の目安を描いた天体図があってその外側に各地の街の名前が書かれている。それがアミンとオウロラの興味を引いていた。

 二人は魔法の儀式を行った後だと確信していた。

 アミンはそこに書かれた文字を読むことを何かの研究のように嗜んでいた。それはつまり天文観測用の測量基地でローゼンヘン工業にとっての時刻水準点だった。

 来訪の目的があったエリスはそういう妹は放っておいて、まずローゼンヘン館の探検から始めた。

 上の姉たちのおこなったローゼンヘン卿の探検隊の資料の収拾事業はともかく、まずは館の各所に散らばってしまった資料がどこにあるのかの探索を始めた。それは文字通りの探検で宝探しであったから、暇そうにしている妹弟や時に家人をも巻き込んで資料の整理を始めた。

 整理と云ってもまずは生物標本だとか地図とか絵とかを綺麗にするところから始めるわけで、要するに館の掃除を始めた。



 最初はちびっ子ギャングの冒険ぐらいに思っていた新しく家人として居着いているものの、いいつけ仕事のないまま気の抜けた様な生活を送っていた女達の多くも、エリスからこの館の来歴を聞いて本当に一種の修道院のような学者たちの施設でもあったことを知り、そういうことならと、掃除を兼ねて建物の中を検索しつつ資料の整理を始めた。

 女達の一部はそれなりに学識のある者もいて、年月に掠れて異国の文字が読み取れなくても意味を拾えるくらいには書類を読み眺めることで、一旦ここを賊徒が散らかした後に掃き集めるように積まれた資料を整理してくれていた。

 いくらかは破られ焚き付けにされたりと乱暴もされていたが、紙というものが燃料にはあまり向かないせいか、多くは押し込められるように手つかずのまま放置されていた。

 ローゼンヘン卿の探検事業そのものは数十年という期間で終わりを告げたわけだが、実際にそれが積み上げた資料はボタ山のようなもので、その分類や研究となるとエリスの祖父の代まで続いてなお終わっていなかった。そして賊徒に散らかされるまでもなく、研究の続く長い期間のうちに再び散逸してしまっていた。生物標本の多くは保存液があっても腐敗が進み、骨格すら残っていないものも多い。そういうものを幼いエリスは根気よく右へ左へと整理を続けた。

 冬越しの休みでソラとユエがグルコと一緒に帰ってきたのを出迎えて、エリスたちはクアルとパミルも加えて学志館の受験に挑むことになった。



 すっかり娘らしくなってしまったソラとユエは鉄道ができてから定期的な夏冬の休みで帰ってきているのだが、半年もあればめまぐるしく様子の変わるローゼンヘン館の様子に驚くよりも呆れていた。

 だが、エリスが一昨年突然にやってきた大勢の女性たちを引き従えるようにしてローゼンヘン館の史料の整理を始めたことは良いことだと二人は考えていた。

 膨大な資料はそれなりの根気と意志を支える動機がないと整理はできないし、動機がなければ人手や知識が有るだけでは却って散逸してしまう。

 エリスは幼いが、そこはあまり問題ではない。

 館の正当な後継者を自任自称する彼女が先祖の業績を整理する、と旗を振り続けることが大事でそれは軍人である彼女の母にも、他に事業や趣味がありすぎて忙しい父にもできないことだった。

 ゆくところも特になく子供の面倒を見る必要もあった女達の多くは年若い館の女主人の希望を叶えることにした。それは事業がどうとか海賊がどうとかと、めまぐるしい話題よりはよほど彼女たちの多くの感性に合致していたし、はからずも故郷から引き剥がされることになった事件についてはそれぞれに思うところがないわけではなかったから、世に出て事業を支えるという気にもなれてはいなかった。



 命の恩人であるのかもわからないエリスの父親は、彼女らの元来の常識からすれば主君に弓引く賊徒であり、更に皇帝陛下に仇なす共和国と称する叛徒の軍政を担う男でもあった。

 彼女たちはあの場にいれば殺されるだろう恐怖からついてきたのであって、あの時の暴虐は豚小屋を管理していた雄豚連中よりも、それをあっさりと屠ってみせた虎か熊かのように見えた男のほうがよほど危険と恐怖の対象だった。

 それが間違いだというほどに彼女らはあの豚小屋を好ましく思う義理や道理になにがあるわけでもないが、そうまでしがみついていた故郷から引き離されたという思いがないわけではない。

 居館本館で女達の服を整えた後にもたまたま生き残った女騎士や女中が二十人ほども紛れていたが、つまりは素直についてこなければ殺されるという恐怖が彼女たちを豚小屋にいた女達と同行させていた。

 彼女らが生き残っていたのは単にノイジドーラ一党が女で顔を知らない相手の識別が面倒だったから、マジンが腰を抜かした女を殺す手間を惜しんだだけで、それ以上の意味はなかった。

 そういう烙印のない、いわば勘違いと成行きで紛れて連れて来てしまった女達は口減らしのためにも外に出るなり会社で働いてもらったほうがマジンにとっては面倒が少ないのだが、彼女らはどういうわけか、シェラルザードの世話をおこないたいらしい。シェラルザードは目を潰されるような扱いも受けてはいたが、長らく世継ぎを生むために大事にもされていた。大事といって目論見があってのことだから目論見の変化でどうとでも変わることで、まさに変わるところで連れだされ命永らえているが、ともかく女騎士はシェラルザードを守るように主命を受けてもいて、命が解かれていないことその命を守ることは騎士として用人としての節度として彼女らの釣り合いを保っていた。

 そういう騎士や用人たちにとってローゼンヘン館は敵地である、という認識が必要な節度の支えだった。そうでなければ彼女らは敵に命の情けをかけられた挙句に、主の裁きを避けるために敵に群れなし下り、途上の船上で主君を見捨て、あまつさえ食い扶持をあてがわれている不忠者ということになる。

 それではまさに豚にも劣る破廉恥者である。

 人それぞれ物語があるのが人生、という他ないが場内で守勢の者として防備にあたったり身を守るために震えていた彼女たちはときたま過日のマジンの暴威を夢に見るほどであったから、館の主が子供たちに向けた笑顔を彼女らに向け表情を改めるだけで恐怖した。その有様はマジンの内心をひどく傷つけるものでもあったが、詮議の必要があってならともかく他人の内心まであまり踏み込む趣味も持ちあわせてはいなかった。



 入学試験の結果、エリスは四年生からクアルは五年生からほかは三年生からということになった。

 エリスはちょっと不満だった様子だが、一年二年急いでも仕方ないし本気で急ぐつもりなら、学年末の試験を受ければいい、と姉たちに言われて納得した様子でもあった。それにあまり急ぐ気がなかったのに結果として早回しになったロゼッタのような例もある。

 学志館の進級制度はわりといい加減で曖昧な作りになっていた。

 フラム経由で軍都からやってきたエリスは、鉄道があってもデカートとローゼンヘン館を往復すると丸一日かかってしまうことに愕然としていたが、馬車なら片道六日から八日かかかる距離であることを思い出して、様々に文句を言っていた。ヴィンゼまででさえ馬車では一日ではつかない。

 エリスがローゼンヘン館の祖父の研究の整理を焦る気持ちもわかるが、それは夏休みの楽しみにとっておいたほうがいい。マジンはそう宥めた。

 社主なんだからローゼンヘン館とデカートを朝晩往復できる便を作らないのかとエリスは腹立ちまぎれに訴えた。

 たしかにこう言ってはなんだが、マジンはしばしば特別便を社主の権限で組み込んでもいたから、朝晩デカートとローゼンヘン館を往復させるような運行ダイヤグラムを組むこともできはしたし、当人一人だけなら館からデカートまで半日もかからない。

 だが、常識的には毎日学舎に通うというのには流石にどうかと思わないでもないくらいには遠い。どう頑張っても片道六時間以上かかる距離を毎日往復するとなるとダイヤがどうこうというよりも学志館での勉学が疎かになることは目に見えていた。

 とはいえ、ソラとユエは公休日をつかって割とちょくちょく帰ってきていた。

 貨物便に馬や軽自動車を積み込むくらいは鉄道駅での手続きが間に合えば誰でもできることだから、彼女らは鉄道の時刻表を研究して休みの翌日の最初の授業に遅れないような予定というものを把握していたし、手続きが間に合わないなら二人で軽自動車を交代で運転して野営なしに一気に帰ってきたりもしていた。

 


 ローゼンヘン館は確かにデカートの行政圏の中にはあったが、それは一種の歴史的な意味合いにおいてであって、本来の往来という意味でははっきりと辺境というべき、或いは鳥も通わぬ、と言ってしまったほうがいいような土地だった。

 その鳥も通わぬローゼンヘン館を無理矢理に物流拠点に仕立てるために鉄道と港が必要だった。鉄道事業の意義はそこにあった。

 その事業も軍都まで伸び、北街道も来年には東西の端まで貫通する予定であれば、ひとまずはマジンが急いで手を出す要件も減る。

 今頃デカートの鉄道部本部で研修をおこなっているはずの共和国の鉄道軍団幹部が来年頃には幾つかの大隊の形になるはずだった。

 機関小銃百万丁を輜重に任せて納入できるなら鉄道は不要だったわけだが、共和国の街道をダラダラと二三千の馬車を行き来させることを考えれば、鉄道はよく出来た面白い法螺話だったと今でも思っている。

 或いは毎日十両の馬車を見送るという方が面白かったのかもしれないが、往復するのにおよそ半年と丸めても冬を挟めばしかたがないか、という程度の話になってしまう荷馬車の旅を頼めるほどの人間を集める手間と任せる心労を考えれば、鉄道事業という法螺話を実現するのとどちらが楽かという話だった。

 およそ一二万の間の馬匹の手当を行う信用できる人間一二万を集めるという作業は、相応に人間を扱うことに慣れていないと難しい。

 仮に三千の馬車を動かすつもりなら控えめに見積もっても、馬車の倍の馬丁と馬丁と同じ数の護衛の私兵が必要になりその騎馬がいる。騎兵の警護がないなら三倍の私兵が必要になる。隊と同じ数の手代がいる。あるいはマジンが数万の家来衆を抱えた領主様であれば、鉄道事業なぞ不要だったかもしれない。

 だが、地縁血縁のない風來のマジンにとっては八年前には不可能な判断だった。

 ちょっとばかり様々に膨れ上がりすぎてはいたが、戦争を考えればこの程度のテコ入れは採算の見える範囲でのお愛想のようなものだとさえ云えた。

 あとは戦争が終われば、ダラダラと過ごせばいい。

 と云うには様々に大げさになりすぎたが、それはそれで後のことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る