カシウス湖第四堰堤 共和国協定千四百四十四年啓蟄

 結局、第四堰堤の遮水層作業は冬を越してしまっていた。

 鉄道事業への人員の引き抜きはともかく軍需物資の生産と資源材の取り合いなどで日程上の失敗もあったし、これまでであればローゼンヘン館が割り込むような事態に社主から直接の指導がなかったことでローゼンヘン工業社内本部の人員の心理的な影響もあった。

 試験工房での戦車生産とその後の量産研究に社主ゲリエ卿の時間が割かれたことや、年の頭にあった事件の波及など細かな理由はあるわけだが、数年前のように社主の手元で決裁が滞った怠慢の結果というわけではない。

 事業改革によって運転されている事業計画の主要な決裁権の殆どは現場に分かたれていたから、ローゼンヘン工業の上級幹部たちが会社の舵取りに不慣れであるということであったし、これまでは社主ゲリエ卿とその執事の意向によって調整されていた社内事情の整理をおこなう政治的な根回し水向けを細かくおこなえる人物がまだいない、ということでもある。

 そもそもに秋のうちに終わらせるという、社主が直接陣頭指揮を取るつもりもあった計画自体が多少無理があった。事業ごとに決裁権限が分かたれたことで心理的な小さな衝突があったところが波及し、日程上の鉄道線利用に関する様々で計画が幾つか衝突し、結局雪が緩み始める時期にずれ込んだ。

 そのため堰堤水槽内部の鉄道線の撤去も多少遅れることになったが、どのみち計画の採算はゆるやかに取られたものだったし、冬の間になすべき仕事が止まっていたわけではない。

 遮水層の外殻がひとまず完成し昼夜なく電灯が必要な現場で、課業を知らせる圧送機の響きもすっかり労務者たちにはおなじみになっていて、夢かそうでないかを判断するのに、ロウソクで作った耳栓をしても尚腹に響く圧送機の音が話題になるような状態だった。工区のベテランは圧送機の唸りの具合で作業の出来や事故の兆候を察知する者がいたりと、うるさい機械となんとか付きあおうとする努力が見えた。

 ともかく第四堰堤の水底遮水層工事は雪解けを待って全域が完了した。

 貯水部の鉄道線撤去とそれに伴う水底遮水層施工の完了で労務作業人員も五千人に減った。

 このあとは段階的に推められていた重力構造とその中心の遮水層の施工工事が行われて堰堤の建設は完了する。とはいえ、このあとは一日五千両の二十グレノル積みの大型貨車を三百の圧送管にひっきりなしに接続するという作業があり、堰堤の工事が終わったというわけではなかった。

 この輸送量を実現するために堰堤からゲリエ村までの区間は完全複々線化が実施され部分的には八本の線路が平行して走っていた。

 川から上がってくる海漆喰の量が増したためにヴィンゼ港やゲリエ港の船着場までが艀の受け入れをおこなうようになっていた。ヴィンゼはたしかに今も田舎町ではあったが、十年前とはその意味が全く違っていた。ヴィンゼ港は膨大な資源を受け入れるために巨大な陣屋を毎日築きまた取り壊すような光景を日々繰り返していた。ヴィンゼ港からヴィンゼまでは近いと云うには遠い位置ではあったが、それは沿線に労働者を受け入れる余地があるということでもある。

 これまで何処にいたのかわからないような食い詰め者たちが日々の労働信用を積み重ねて、家族とともに家と畑を持ってみたくなったり、特段何者でもない者たちが新しい仕事を求めて居着いたりしていた。

 それはヴィンゼの町の人々がかつて思い描いたような農業の町ではなかったが、そこになんの不満があるのかというような人々の生活を支える文明の町並みが築かれていた。

 ヴィンゼの街は今やデカートの建築発展を支えるセメント産業の街になっていた。

 海から上がってくる海漆喰を焼成してセメント化するために一旦は解体も考えられて運転縮小していたローゼンヘン館の骸炭釜が再び全力稼働するようになっていた。

 日におよそ七万グレノルの資材を堰堤の工事に送り込むためミョルナの工事の礫石や、日に五万グレノルの海漆喰やこれまで蓄えていた石油までも吐き出すようにして資材が精錬され、第四堰堤の工事は来年夏の主要工区施工工事完了を目指して稼働している。他に数万グレノルの様々な資源がヴィンゼ港に立ち寄っていた。

 猛烈な勢いでおそらく共和国始まって以来という膨大な物資を集中させた事業は労務者の人頭という意味では絞られ始めていたが、物資の集積そして施工の規模という意味ではこれからが最高潮でもあった。

 いままだ労務者による工事の続く堰堤の内部は常時六百基のガスタービンで抜気されていて、堰堤内部の作業環境はこれまでで一番危険な状態になっていた。

 滑落事故は月に数件起こっており、装具の事故による酸欠等のこれまでにない種類の事故がおきていた。労務者自身の指導と検討から、致命的な事故にはつながっていないが、重軽傷者という意味では工事初期の労務者が重機に不慣れであった時期と同じ程の数の事故を起こしていて、やはり月に数名、一人も出なければ監督報奨が工事本部から労務者全員に振る舞われるくらいには、殉職者が出ていた。

 しかしともかくも今のところ工事そのものは順調であると言えた。

 堰堤の完成を控え推められている浄水場の基礎工事をおこなっているカシウス湖周辺は確かに相当有望な鉱山であったらしい。ごそりと刳り貫いた山はそのまま鉱山として活用したくなるほどに様々な鉱物層があった。

 岩盤も強固なものであったので様々に面倒が少なく熱源と電力を兼ねて核子転換炉発電機を据えることを計画している。あいにく燃料材料はまだ揃っていないが、早ければ二三年遅くても十年で運転必要量が貯まる。これは貯めているというよりはここしばらくの材料精錬の過程で溜まっているもので、廉価な材料や特殊な材料を扱っていることで急速に集まっていた。

 無論ある程度、原料経路を変更すれば調達量を変更することは容易いが、ホタルガラスの原料などに卸してもいて、ある程度の融通を効かせた上で調達は進めている。

 問題は百年後に管理人がいるだろうかということが悩みの種だった。

 便利な技術というものは往々にしてその便利さ故に利用者があぐらをかき、価値を見失うことが多い。そして結果として技術への投資が止まり技術は衰退後退する。

 どういう理由においても利用人口規模と文明は相関を持たないし、文明と技術も往々にして相関を保たない。意味として相関を与えているのは主観によるヒトの意思だけだ。

 いま作っている鉄道が例えばマジンの指導力を失えば、政治的な分裂によって技術はあるままに散逸し、鉄道建設は不可能になる。

 技術文明はある意味で砂で書いた絵のようなもので、些細な風で吹き飛び意味を失うものであることは、今まさに自ら起こしているマジンが重々承知していた。

 なぜなら、彼自身には鉄道も自動車も本来不要のものだったからだ。

 リザがあのとき強請ったから、いまある。

 当然に生まれない可能性も大きくあった。

 できるものがおこなわない。

 それだけであらゆる文明は発展の可能性を失う。

 人が容易に死ぬことと合わせて考えれば技術なんて云うものは、幻灯以上の意味も強靭さもない。

 旗手が興味を失えば技術文明の発展は止まる。

 他人の夢や希望に興味を持たない人々の集団では文明はしばしば容易に瓦解する。

 人の命以上に価値のあるモノがないのなら、技術も文明も普遍的な価値なぞない。

 百年後の人々がなにに興味を向けているかなぞ、そのときになってみなければ誰にもわからない。

 カシウス湖の貯水事業は生きているうちにもっといい方法を見つけたらともかく、山岳水系という物の性質を考えれば永遠に蓋ができる種類のものでもなかったから、打ち手は打ってあとは任せるしかない。もともと千年かかった負の遺産を、今更どうこうしたところで千年が二千年でも一万年でも変わらなかったし、浄水設備が十年無事なら第一堰堤自体の寿命も十年伸びる目論見だった。

 その分、第四堰堤の本当の出番は遅くなるわけだが、重力層が年内には完成するというここまで仕上げれば第一堰堤が崩壊して第二堰堤を巻き込んで第三堰堤を乗り越えても、被害は想定の範囲内だったし、フラムの鉱山主には避け得ない将来の危険として既に通達していた。

 あらかたの鉱山主はいざその時が来れば狼狽えるだろうが、山師である彼らは今日明日死ぬかもしれない山ぐらしの三年五年先の話なぞ興味が無い、と少なくとも形の上では無視する構えだった。

 施工主としてのローゼンヘン工業は余録としての水中鉱山にはありつけないかもしれないが、本気でありつきたければ方法がないわけではない。浄水設備がうまくいったら十でも百でも必要なだけ並べて、水を干し現れた山肌を削り汚泥を回収すればいい。結局は浄水計画の進捗次第ということになる。

 計画が終わったあと余った動力電力は鉄道を通じて国中に売ればいいし、なにか別のことに使ってもよい。

 核子転換発電機も一つで足りないなら必要なだけ並べれば良いだけのことである。

 浄水施設の機械も今の計画では数百の濾過装置を束ねたものになるが、それを数万でも数億でも必要なだけ並べれば良いだけの話だった。

 採算というものを水に溶けている金銀などの短期的な材料で考える必要があるのかという問題でもあったし、浄水がひとまず終わったあとのカシウス湖の状態を考えれば、メッキされたも同然の怪しげな汚泥諸共山肌を削るという作業も残っている。

 そう考えれば今建設中の浄水設備の成績をみて次を建てれば良いだけの話になる。

 数百億タラルの夢のある話だ。

 だがしかし、当面はデカートの命の問題になる。

 ともかくも、今必要なのは第一堰堤が破綻してフラムを直撃しザブバル川を根絶やしにしないことだ。そのためにも第四堰堤の完成を急ぎ、第一堰堤の破綻を食い止め、浄水で毒を薄めるために浄水場を稼働させる事が重要だった。

 浄水場が稼働しての後、カシウス湖の水は第三第四堰堤内部に注がれ、第三堰堤を水没させ第一第二堰堤の破綻に備える計画になっている。

 そこまで至るのは予定としても最低三年先の未来で、いまだ詳細未定の計画部分を考えれば五年から十年というところになる。

 第一堰堤の破綻が何時になるのかは誰にもわからないことだったが、これから更に十年持つか、とフラムの山に詳しい者に賭けを持ちかければ断るだろう。

 第四堰堤の完成はともかく誰にも求められていた。

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