終章 ④ソロモン王の再来に栄光あれ
……とは言うものの、まったく不安がなかったと言えば嘘になる。
紫は中二病だ。それはつまり、魔術師の常識は一切通用せず、何をしでかすかわからないということでもある。
おまけにあいつの傍にいて、俺の期待通りになったことなんて一度もないのだ。俺の期待は外れる。これはもはやジンクスに近い。
だから、ストンと床に降り立った瞬間、俺はすぐさま周囲を見渡した。
カーテン全開の窓、端にあるロッカー、その上に置かれている聖水のボトル。足元には布の簡易魔法円だ。ああ、戻ってきたんだ、としみじみ思ったところで、後ろから声がした。
「いいえ、やっぱりこの大衆向けに書かれたレメゲトンはあてになりません。こっちのほうが召喚する際の文句も正確に記載されていて……」
「でも、前はこれで大丈夫だったのよ。魔法円は布に印刷されてるのを使ったし、紋章だって本の切り抜きだったし……」
「そんなので召喚しようとすること自体が間違っているんです! 荊原さんは魔術の基礎知識をもっと学ぶべきです!」
「それより、このハシバミの杖とかの入手方法ってあるのか? あと乳香も」
「アマテンであるんじゃないの? でも、それってほんとに必要なのかしら? まったく、真理須をもう一回呼び出すのに、こんなに手間がかかるなんて……」
「すまん、もういる」
「「「ええっ!?」」」
教室の前方、黒板を向いて議論していた三人の女子高生が一斉に振り返った。
「とりあえずおまえら、窓に黒いカーテンを付けろ。話はそれからだ。って、え……」
途中で俺の言葉は切れていた。
電光石火。
一目散に駆けてきた紫が俺の胸へ飛び込む。
「ゆ、かり……?」
契約前に術師は悪魔のいる魔法円に侵入してはいけない。そんな常識はかなぐり捨てて。
しがみついてきた少女を俺は呆然と見下ろした。
肩に預けられた頭。その表情は見えない。けれど、触れ合ったところから震えるような息遣いは伝わってくる。
「……………………もう二度と、会えないかと思った」
俺にだけ聞こえる声で囁いた少女は、腕に力を込める。
密着した体温と黒髪から漂ってくる女の子らしい香りに、心拍数が上がった。
ドキドキしながら紫の背中へ手を回そうとしたそのとき、
「今よ、二人共!」
な、に……? と思ったときには既に遅く、ノアと合戦峯の水鉄砲から噴射された水が俺の顔を直撃していた。そして、その水は当然のごとくただの水ではなく。
「ぎゃあああぁぁ……!」
顔を押さえて悲鳴を上げた隙にポケットから何かを抜かれた。蹲って顔を擦ること数分、レオンに顔をチロチロと舐められ、ようやく落ち着いた俺の頭上から羊皮紙が降ってくる。
「また同じ条件にしておいたから、よろしく」
ひらりと舞い落ちた契約書。そこに付け加えられた卵一個の文字を見て、俺はさすがに抗議を口にした。
「卵はいいから魂にしてくれないか? 十年契約、いや、二十年契約でどうだ! 今だけのタイムセール! 出血大サービスだ!」
「あんた、わたしに仕えたくて戻ってきたんじゃないの? 勝手に地獄に帰ったのを許して、また契約してあげるんだから、感謝してタダ働きするのが誠意ってもんじゃなくて? 卵一個でも払ってあげるだけ、ありがたいと思いなさいよ」
「なっ、タダ働きしたら契約じゃないだろ! それは契約じゃなくてボランティアと……あ、やめ、待て、早まるな!」
相変わらずの無茶苦茶な論法に抵抗していた俺は、霧吹きを取った少女を見て慌てた。それに紫は艶然と微笑む。
「ねえ、真理須。あんたは千年、契約取れなくて地獄で反省文を書かされたり、召喚された瞬間『あ、ごめ、間違えた』と言われて三秒で帰されたり、召喚されるごとに生贄をもらえる契約をしたのに、一度も召喚されずに契約期間終了してきたかもしれないけど……」
「ごめん。俺、帰るわ」
帰ったらすぐベリアルにメールしよ。『死ね』の無限ループを送り付けてやる。
レオンを連れていそいそと帰ろうとする俺に、今度は紫が慌てる。
「ちょっと、話、最後まで聞きなさいよ! 確かに能力ショボいし、見た目普通だし、全然悪魔らしいとこないから、他の魔術師にはあんたの良さがわからなかったかもしれない。けど、わたしは、あんたの正義、嫌いじゃないわ」
俺は動きを止めて紫を見上げた。
少女の頬が若干色付いて見えるのは、西日のせいだろうか。
「わたしは二十一世紀最大の魔術師、セルシア・ローザ・レヴィ。このわたしがあんたの能力も全部知ってて、あんたがいいから契約するって言ってるの。どう、文句ある?」
「……ある」
話をすり替えられたが、結局、対価は卵から変更されていない。至極冷静に返した俺に、紫はフッと中二くさく笑った。
そして――霧吹きの噴射口が俺の額へ押し当てられる。
「そう。納得してもらったほうがいいかと思ったんだけど、無駄だったようね。残念だけど、あんたに拒否権はないのよ。セルシア・ローザ・レヴィが命じる。真理須、契約書にサインをしなさい。――わたしはもう、あんたを手放さない」
強靭な双眸をしばし見つめ、俺は笑いがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
はは、と声を洩らした俺に、固唾を呑んで見守るノアの表情が不安げになり、銃を握る合戦峯にぴりっとした緊張が走る。
わかっていたはずだ。紫の元へ戻ったら、どういう扱いを受けるか。
でも、それでも、こんな俺を受け容れ、必要としてくれる少女に仕えたいと思ったのだ。それが俺の存在意義だと。
《これは契約。悪魔の尊厳に誓い、我は汝をマスターと定める》
笑みを収めた俺は、かつてソロモン王にしたように少女へ恭しく跪いた。
「―――御意」
【悲報】俺が卵一個で残念な美少女と契約してた件【悪魔失格】 ミサキナギ @verdigris
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