五章 ⑨アンドロマリウスの答え


「《開廷せよ(ホールド・コート)》」



 詠唱。


 解放されることで身体を貫く剣を抜いた俺は、ベルゼブブと紫の間へ割り込んでいた。

 詠唱した瞬間、俺の周囲にすべての魔法攻撃を無効化する障壁が展開される。紫を直撃するはずだったファイアーブレスが跡形もなく霧散した。


 俺が炎を消失させたのが予想外だったのか、ベルゼブブが触覚を震わせる。


「真理須……」と背後で呟いた紫へ、俺は「下がってろ」と囁いた。

 ここからは、悪魔同士の問題だ。



 紫がノアや合戦峯と退避するのを見て、俺は深く腰を折った。七君主に対する最低限の礼儀である。



「どうかお引き取りください、暴食王。地上で暴れ人命を奪うことは、地獄の法で禁じられています」



 ベルゼブブの威圧するような視線を感じた。

 重苦しい緊張が背にのしかかる中、俺は頭を下げたまま返答を待つ。


 やがて、ふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らす音がした。


「よかろう。おまえの取り分には手を出さない。それで文句はないだろう?」

「いいえ、ここにいる人間、誰一人として暴食王の餌食にはさせません。速やかに地獄へご帰還を」

「ふざけるな。対価を取らず、私に帰れだと? 貴様、さては私の対価を横取りする気か」

「滅相もない。俺もこのまま地獄まで、暴食王のお供をさせていただきます」

「何だと!?」


 ベルゼブブが素っ頓狂な声を上げた。


「契約が破棄されたのに、魂を取らないと言うのか。貴様、悪魔の本分を忘れたか!?」

「正直に申し上げると、十年前、俺は対価の前借りをしたのです。対価を得た以上、悪魔にはマスターの望みを叶える義務があります。俺は俺の正義に則り、十年前の契約を果たすだけです」


「はっ、正義だと!? 馬鹿馬鹿しい! そんなものに固執するから、おまえは何年も召喚されずに売れ残り、やっと契約してもまともな対価すら得られないのだろう! いいか、魂を取れない奴は悪魔ではない! 解放されたのだから、おまえは何も考えずにマスターの魂を取ればいいのだ。わかったか!」


 怒号が大気を震わせる。

 俺は顔を上げ、ベルゼブブを見据えた。憤慨する七君主を前にしても、俺の胸中はぷつりと糸が切れてしまったように、ひどく静かだった。


「いいえ、わかりません。俺も少し前まではそう思ってました。自分は誰にも望まれないのだと。正義の悪魔など存在意義がないのだと。おかげで悪魔の尊厳すら見失いそうになっていました。現に俺は十年前、正義とは程遠い行為でポイントを獲得しましたしね」



 もう二度と、俺を受け容れてくれる人間など存在しないと思っていた。

 ソロモンが没して三千年だ。

 かの王が特別だったのだと、諦めるには十分すぎる時間が経っていた。



 だが、間違ってマスターになったはずの少女は言ったのだ。

 俺は自分の悪魔だと。手放すのは、嫌だと。



「やっとまた見つけたんです、こんな俺でもいいと言ってくれるマスターを。望んでくれる人間がいるとわかった以上、俺は正義を捨てません。誰に何と言われようと、俺は正義の悪魔ですから」


 それが、紫と契約して俺が出した答えだった。

 


 ベルゼブブが苛立ったように翅を鳴らす。


「……何が正義の悪魔だ。魂を取らないのならば、貴様はもう悪魔でも何でもない! クビだ! そこを退け!」


「ああ、はいはい、クビですか。結構! ここを退くくらいなら、悪魔なんて辞めてやりますよ! ただし、辞める以上、テメーに指図される謂れはないよなあ!」

「アンドロマリウス、貴様……!」


 表情があったら、鬼のような形相だろう。四本の剣を構え、ベルゼブブが迫る。 俺は咄嗟に後ろへ手を伸ばしていた。

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