(三)

 女は、封じて欲しいと言った青い蝶を置き去りにしたまま悄然と去った。


 金持ちという人種は、金さえあれば何でもさせられると思っている。しかしどんなに金をばらまいたところで、太陽を西から昇らせることはできない。金なんざ、俺たち職工の工具と同じでしょせん道具さ。そいつでなし得ることなんかうんと限られているんだよ。無学な俺たちにでも当たり前にわかる理屈が、金持ちにはすんなり理解できない。やれやれだ。

 作業台の上の珠と青い蝶を見比べていたら、副長のワンスがうんざり顔で作業場に入ってきた。ワンスは腕がいいだけじゃなく、心構えが至極真っ当だ。俺と同じで女の美貌に惑わされず、女の態度への強い嫌悪を隠そうとしない。


「親方。連中、諦めたんですか?」

「さあな。少なくとも、俺のところにはもう二度と来ないと思うよ」

「だといいんですけどね。最後にまた泣きついて来そうな……」

「これまで厄介ごとを持ち込んできたやつらなら、な。あの女は多分もう来ないよ」

「どうしてですか?」

「怖気ついたからさ」

「は?」


 ワンスがきょとんとしている。


「おまえは、あの女のオーダーを聞いてただろ?」

「はい。この蝶の生命と美を損なわないように封じてくれ、ですよね」

「そう。おまえにはできるか?」

「そんなの無理ですよ」

「まともだな」

「一級職人目指してますから」


 ワンスの肩をぽんぽんと叩く。俺の工房で働く職人のうち、封止がきちんと使えるのはまだワンスだけだ。封止は、筋を通して行わないと大きな災いを呼ぶ。ワンスが封止の限界と危険性をしっかり認識していることに、どこまでも安堵する。


「あの女のこととは別に、もし生と美をセットで封じる技術を編み出すなら、どうアプローチすればいい? この蝶を例に考えてみてくれ」

「うーん……」


 俺が試作した二つの蝶の珠と、籠に入った青い蝶。それらを順繰りに見比べていたワンスは忌々しげに首を振った。


「わかりません」

「出来なくはないんだよ。蝶が飛んでいる時空間のある部分だけを切り取って前後をつなげ、輪にすればいい。ループを作り出すことでリクエストは叶えられる」

「あっ!」


 小さく声を上げたきり、ワンスが黙り込んだ。


「でもな。それは技術的に可能だというだけで、封じる意味はないんだ。やって見せなかったのは、俺らに降りかかるリスクを避けるためさ。技術で実現可能なことを見せれば見せるほど、あいつの妄執がひどくなるからな」

「あの……なぜ意味がないんでしょう?」


 生と美を保ったまま蝶を封じる技術があるのなら、両者を並立させたまま封じることは出来ないという説明は虚偽じゃないのか? ワンスの疑問は当然だったが、そう思ってしまうのは技術者としての意識に囚われているからだよ。技術が心を隅っこに押しやると、職工は欠陥品になってしまう。今はしっかり心を研いで欲しい。

 籠の青い蝶を指差しながら、ワンスに問う。


「おまえ、これをどう思う?」

「きれいな蝶ですよね。今まで見たことがないです」

「美しいと思うか?」

「ええ」

「俺もそう思う。だが、千人万人に一人でもこの蝶の美を認めない者がいれば、それは絶対美ではない」

「あ……」

「美ってのは、現象として厳密に峻別されている生死と違い、あくまでも感覚的なものさ。何をもって美と認ずるかには、万人に通用する基準がないんだ」


 青い蝶を凝視していたワンスが、何度も頷いた。


「なるほど。親方がさっき言った方法で飛び回る蝶の姿を珠に封じることが出来ても、その姿を美と認ずるかどうかとは別問題ということですね」

「その通りだ。そしてな」

「はい」

「この蝶はあくまでも蝶さ。己が美しいとはこれっぽっちも思ってないだろう。とてもきらびやかな姿をしているが、それはあくまでも生き延びるための装備だ。美がどうのこうのという要素には全く関わっていない」


 持っていた火鋏を作業台の上に放る。きいん! 作業室を埋め尽くした冷たい金属音が静まるまで、しばらく口をつぐんで待つ。


「美ってのは、人間の勝手な意識の押し付けに過ぎないんだよ。その対象が蝶ではなく人であっても同じことさ。美しいと思われることが、本人にとって意義があるとは限らない。また、第三者がそいつの美をほめそやし続けない限り、当人の美の概念は維持されない」

「そ……か」

「美しいという感情だけがどれほどあっても、何も生産されないんだ」


◇ ◇ ◇


 ワンスを伴い、小さな蝶の入った二つの珠と青い蝶の入った籠を持って工房の外に出た。草がさわさわと音を立ててなびく初夏の野原。春ほどの数は見当たらないものの、ぽつぽつと花が見え隠れしていて、それをめざとく見つけた蝶が花の周りを群れ飛んでいる。


 俺は、呪を唱えながら二つの珠を砕いた。中から飛び出した二匹の蝶は、ひどい目にあったと言わんばかりに一目散に野原の奥深く飛んでいった。彼らは、すぐに花を探し始めるだろう。


「なあ、ワンス」

「はい」

「あの女は、蝶でうまく行ったら、同じように自分を封止してもらおうとしたのさ。生きたまま、永遠の美を保つためにな」

「そんなの!」


 むきになったワンスを制する。


「やろうと思えば出来るよ。でも、それはあいつにしか意味がないし、その意味もいずれなくなる」

「動けば結局老いるし、止まればただの人形になるから、ですね」

「そうだ。どちらも意味がないだろ。ましてやループの中に生きたまま封じられれば、それは美の保存ではなく単なる拷問だ。絶対美とはかけ離れた無様な存在にしかならん。呪われたものを見て喜ぶのは、どうしようもないサディストだけだよ」


 美は万能でも寛容でもない。むしろ厄介で偏狭なものだ。美にこだわればこだわるほど、本人はどんどん醜くなる。俺らはどう足掻いたところで不完全な存在にしかなりえん。そういう不都合に目を瞑って自らを完全美と信じ込むなんざ、愚かさの極みだ。あの女が浅慮を悟ってくれりゃいいんだけどな。


 溜息混じりに籠の扉を開け、青い蝶を逃がす。籠の中で羽ばたき続けて、羽が砕けかけていた蝶は、失ってしまった欠片を探し出そうとするかのように高く高く舞い上がった。時折きらきらと光鱗を散らしていた蝶の青は、空の青と溶け合って見分けがつかなくなり。やがて俺らの視界から消えた。


「気持ちのいい青空だ」

「そうですね」

「意識を美に預けるなら、こういうおおらかな光景に委ねたいね」

「ええ」


 日差しに目を細めたワンスが、気持ちよさそうに深呼吸を繰り返した。


「ふううっ。俺らが空を封じることは出来ないし、そうする意味なんかどこにもないってことですね」

「はっはっは! そうだ。でも、意味のないことをしたがるのが人間というやつなんだろさ。俺らも含めてな」


 一点の曇りもない青空を改めて見上げ、そこに封じようのない愚痴を一つ押し付ける。


「理屈で割り切れないから妄執にこごる。俺たちがいくら妄執を封止しても、感情が理屈で制御できない限り新たな妄執は生まれ続ける。堂々巡りだ」

「……」

「それなら、せめて美しいと思うものくらいは封止と無縁にしておきたい。俺のエゴかもしれんがな」

「いいえ」


 ワンスが、柔らかく微笑みながら中天を指差した。


「封じ込めなくたって、ちゃんと記憶に残りますよ。ああ、すごくきれいな蝶だったなって」



【 了 】

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