Cp.2-4 Dear My Sylph,Smile Again.(3)

「ふん。まあ、そう来るだろうと思ってたわ」

 黒の魔女がそう呟いたのは、街区の一画に大きな熱力の膨張の反応を感知した時だった。こちらが使役しているものと同質のその力が何を意味するものなのか、推してみるべくもない。

 神体には神体を――力関係で見ても順当な判断である。そしてその準備に無防備な時間がかかるのも、魔女は知っていた。精神の手綱を握る翠莉を頭上に、魔女はほくそ笑む。

「私を前に無防備な裸を晒すなんて、ずいぶんと気前がいいのねエルシア。それじゃあお望み通り、隙だらけのあなたを犯しにいってあげようかしら」

 狂気的な笑みを口元に浮かべ、魔女は力の発生地点を把握し、空間を繋ぐ回廊を形成する。同時に上空にいる翠莉の視覚をジャックし、その一点に赤く燃える光を見て位置を確認すると、おもむろに《回廊》に足を踏み入れた。時空を歪められて連結された異次元の通路を通り、程なくして開けた元の空間に抜け出す。

 そこは、スクエア外周ブロックA2にある都市公園広場だった。まばらに林立するビルに周りを囲まれていながら、眩しいほどに白い敷石で舗装された広場の十分なスペースが、都市の中に心の余裕を生む憩いの場としての開けた空間と緩やかな時間を確保している。頭上には光の差し込む薄曇りの空が広く開けており、中央には白い噴水がささやかに噴きあがって水の跳ねる音とささやかな冷気を漂わせ、清潔で静謐な白い広場に涼やかな空気を満たしていた。

 清浄な光景に眉をしかめながら、黒の魔女は目当てのものに目を止める。

 広場の中央にある噴水の上に、赤く燃える透明な卵殻が、燐光を纏って浮いていた。その中には原初の生命の水のような高エネルギーの流体が包まれ、蛹の中で羽化を待つ成長体のように形を成そうとしている。

 魔女はそれを目に収めた後に、その途上にいた障害らしきものに目を向けた。

 拓矢もまた、予測した通りに現れた魔女を目に収め、真正面に立ちはだかった。

 黒い魔の視線と、青を宿した瞳の光がわずかな沈黙と共に交わされた後、やがて、魔女は呆れたように鼻を鳴らしてみせ、見下すような声で言った。

「お出迎えご苦労ね、青の命士様。よりにもよってあなた一人とはね。拍子抜けしちゃったわ。ルミナは無事? 姿が見えないようだけれど、壊れでもしたのかしら?」

「…………」

 煽るような魔女の言葉に、拓矢は何も答えず、一心に魔女を見つめている。それを見た魔女は絶好の機会とばかりにその眼を見返し、嘲弄の色を笑みに浮かべた。

「ふふ……いい顔ね。そんなに顔をしかめるくらい、私のことが憎い?」

 対する拓矢はその嘲弄に応じず、今までとは違う冷静な色の言葉を発した。

「君は、どうなのさ。僕らの何が憎くて、こんなことをするの?」

「何ですって?」

 返された予想外の言葉に魔女の眉が顰められる。拓矢は構わず続けた。

「僕には、君がわからない。瑠水や翠莉ちゃんを捕まえて虐めて何が楽しいのか、君が何者で、どうしてこんなことを繰り返すのか、君が何を考えているのか……僕にはわからない」

 そして、挑むような視線を魔女に向け、不明を振り切るように言った。

「けど、これ以上瑠水を虐めようとするのなら、僕はそれを許すわけにはいかない。だから、僕は……君のことを知らなきゃいけない」

 真っ直ぐに魔女を見つめる拓矢の瞳にも言葉にも、嘘はなかった。その、心の奥まで届こうとするような視線が目障りで、魔女は吐き捨てるように言う。

「ふん……大層な善人ね。自分の愛人を殺そうとした相手にまで情けをかけるつもり? 見上げた偽善の根性ね。ご立派過ぎて吐き気がしそうよ」

「勘違いしないでくれ。君が瑠水にしたことを僕は忘れてないし、それを認めるつもりもない。けど、何も知らないで君を悪者だって決めつけたくもないんだ。君が何者で、何でこんなことをするのか、それを知らないと、僕は君を決めることができないから」

 真実を知ろうとする拓矢の言葉を、魔女はこれ見よがしに鼻で笑った。

「っは、私が一番嫌いな論法ね。そんな相手に私がそんなことを易々と話すと思うのかしら?」

「思わないよ。だから、君が話してくれるようになるまで待つ。けど……」

 その言葉が切れると共に、拓矢の纏う空気が静かに張りつめた。その輪郭が微かに蒼を纏う。

「それと、今翠莉ちゃんを助けることは話が別だ。これ以上、翠莉ちゃんも真事君も追い詰めさせるわけにはいかない。だから僕は、君をこれ以上好きにはさせない」

 闘志を湧かせ始めた拓矢を目に、魔女は興が醒めたような眼と言葉を向ける。

「ふん……結局それが本音なのね。どんなに善人ぶっていても、結局あなたも自分の願いのためには、気に入らない誰かを酷い目に遭わせるのよ。それがわかっていても、まださっきみたいな御大層な綺麗ごとを口にできるの?」

「そうかもしれない。けど、僕はそれでも本当のことを知りたい。君が何を思っているのか、何も知らないまま傷付けあうことになるなら……そんなこと、きっと何の解決にもならない。君も、真事君や翠莉ちゃんも、瑠水も……誰も救われない」

 拓矢の冷静な言葉に、魔女の中に血液が沸騰するほどの激情が湧きあがる。青筋を立て、目元を引きつらせながら、魔女はどうにかその激情を凝縮させて、凄絶な笑みを浮かべた。

「知ったような口を利いて……もういいわ。あなたみたいな潔癖な偽善者なんかと話すのなんてまっぴらよ。あなたのお望み通り、ルミナも、スィリも、後ろにいるエルシアも、見る目もないくらいぐちゃぐちゃにして犯してあげるわ。あの子達の心を、私の侵されたこの黒い色に穢してやる。そうでもしなきゃ、この私の飢えは収まらないのよ……くっ、くふふふふ」

 狂気に歪んだ喜悦の笑みを浮かべる魔女の言葉と瞳の奥に、その時、拓矢は何かを見た気がした。この魔女を理解するために必要な何か、その片鱗を。

 しかし、今はそれを考え出す時ではない。時を見た二人は、期せずして互いに感情を排除し、向かうべき「敵」に相対する。

 魔女が右手を高く掲げ、その腕から思念を波動にして放つ。程なくして、穢れた翡翠色の空気を纏った翠莉の神体が呼子の笛に呼応した鳥のように、薄い灰色の曇天を切り裂くようにして上空へと舞い降りた。

 神体と化した翠莉を使い魔のように従え、魔女は圧倒的優勢を確信しながら拓矢に告げる。

「まあいいわ。とりあえずまず、あなたの後ろにあるその紅い卵を破壊させてもらおうかしら。エルシアに《王冠ケテル》を覚醒されると面倒だしね。あなたは退いてといっても従うわけもないでしょうから、好きにするといいわ。邪魔をするなら、遠慮なく引き裂いてあげるから」

 言いながら、魔女は両手を横に広げ、周囲に黒蛇の如き荊の鎖を忍ばせていく。空間に潜み、闇から現れて対象を縛り引き裂き食いちぎる邪蛇の如き凶手が、拓矢とその後ろの赤の卵殻を喰らい尽そうと異次元を這いずっていく。拓矢はそれを知りながら動かない。

 そうとも知らず、準備を終えた魔女は、勝ち誇ったように高らかに宣言した。

「ずいぶん大人しいのねえ。まあ、彩姫を失ったあなた一人じゃ何ができるわけもないものね。いいわ、そのままそこにいなさい。ズタズタに引き裂いてあげるから‼」

 魔女の掛け声と共に、空間に潜んでいた無数の黒蛇の荊が、拓矢と赤の卵殻に一斉に襲いかかった。数にしても位置にしても、とても今この状況から拓矢一人で対処できるものではない。

 黒い細槍と化した荊が、拓矢を、灼蘭を、希望と生命を貫き尽さんと迫る。

 悪夢のような無数の毒牙が襲いかかるその刹那、拓矢は目を閉じ、

 その暗闇の奥に確かに宿る青い雫のような光を、心の水鏡に映した。

「一人じゃない」

 心の奥に確かに宿る、罅割れて骸と化した彼女の、青い生命の灯火に触れる。

 水と水が混ざり合うように、深くに渦巻く意識が交わり、震え、熱を放つ感覚。

 魂の中心、存在の全てが一つになり、呼応する想いが響き合ったその瞬間。

(僕には……瑠水がいてくれる!)

 拓矢の中心から無限の熱光が生命の泉のように溢れ出し、それは内なる瑠水の光と重なって、瞬く間に形を成し、力となり、使役を可能にした。

《瑠水!》

 魂の声が響き弾けた一瞬の内に、拓矢の周囲に青い水光が激流のような渦を巻き、襲い来る黒蛇の荊をその水流に巻き込んで、微塵に砕き散らした。

 全身に聖水のような清らかな力が血のように巡り満ちるのを感じながら、拓矢は目を開けた。

 体中から清浄な霊気が溢れる中、その瞳には、瑠水の青い光が確かに宿っていた。

「な、ッ…………!」

 魔女は、二重の驚愕と屈辱に襲われていた。

 拓矢が逆境の中で失われたと思っていた瑠水の力を覚醒させたことばかりではない。同時に攻勢をかけた彼の後ろにある赤の卵殻に向けた蛇の荊までもが、その表面に傷すらつけることなく、呆気なく散らされたのだ。魔女はその瞬間、卵殻を覆った薄い白色の光を見ていた。

 幽白の彩姫、咲弥の力の触媒である薄白の花弁による、防壁。

 拓矢は、こうなることを見越して、卵殻にあらかじめ防壁を仕掛けておいたのだ。確信した攻撃を阻害することで、大きな隙が生まれることをも予期して。

「ッ、小細工をッ……おのれ、サクヤ!」

 魔女はそれを理解してなお、三度も同じ手に予想を覆された動揺を殺しきれなかった。その、効果通りの隙に、拓矢は状況をさらに盤石にするべく、覚醒した力を行使する。

「《これより先は秘められし水聖の領域(Iie lie mialf phan del mechit)。汝、この帳を潜るにはその身の一切を禊ぎたまえ(Al shem lea imles alm schefild)》」

 胸に溢れる幻律を唱え、拓矢は両手を大きく伸ばしてその場で舞うようにくるりと一回りする。その両手に点された青い光が円陣の軌跡を描き、空中に描かれた青い円はそのまま大きく広がって地面に吸い込まれ、やがて魔女と拓矢を含める大規模な紋章を描く方陣となった。

「しまっ……!」

「蒼聖碧流(フル・エリミエル)・王国の形相(エイドス・マルクト)――《聖謐の水膜(メオル・フィマーニ)》」

 その意味を魔女が理解し危機を察知し逃げに入るより早く、拓矢は結界形成の詞を唱える。途端、地面に引かれた円陣から青い光が立ち昇り、見る間に中天に向けて収束し、瀑布の水流を壁面にしたようなドームを形成して、魔女と拓矢を外界から閉じ込めた。

 王国の形相――彩姫の霊力による特殊な領域を形成する、結界の形相。

 想像通りに展開した力を確認しながら、拓矢は魔女に告げる。

「この壁は、瑠水と僕の《清浄の水》の力だ。君の黒い荊はこの壁を貫くことができないし、ここでは君の黒い穢れの力は効力を著しく失う。それと、今ここは外界からは隔離されているから、君の翠莉ちゃんへの干渉も、ここからは届かない」

「ッ……小癪な真似を……!」

「これ以上、君に瑠水や翠莉ちゃんを虐めてほしくない。そのためなら、僕は君の邪魔をする」

 青い水光を身に纏いながら拓矢は告げ、籠城の構えを見せる。外で灼蘭達の神体化が完了し、翠莉を浄化できるチャンスが来る時まで、魔女を捕らえて閉じこもるつもりだった。

「…………っ、ふ……ふ、ふふ、ふふふ…………!」

 と、ふいに魔女がおかしくなったような忍び笑いを漏らし始めた。

「ふふふ……そうね、私も少し熱っぽくなってたみたい。らしくないわ。冷静にならないとね」

「……何を?」

 怪訝に思って問いを投げる拓矢をその闇色の視界に捉えながら、魔女は告げた。

「そう、冷静に考えればこれは好機なのよ。誰の邪魔も入らない孤立した空間の中で、思う存分あなたを……私の怨敵を、全ての元凶を、この手で引き裂けるのだから!」

「っ……⁉」

 哄笑にも似た狂喜的な叫びと共に、瑠水の空間の中で抑え込まれているはずの魔女の力が爆発的に膨れあがり、水の結界の中の空気を染めていく。それを中和しようとする水光が魔女の瘴気と互いを蝕み合い、結界内は瑠水の清浄の力と魔女の激情の力の混ざり合う混沌と化した。

 空気を震わす凄絶な恐慌の波動に拓矢が怯む中、魔女のかざした手元に黒い荊の力が収束し、荊が螺旋状に巻き上がり、ドリルのような形状を成す一本の槍の姿を現した。赤黒く尖ったその螺旋の刃先は、見るだけで血肉を抉る様を想起させるほどの禍々しさを漂わせており、魔女の体からは感情の昂りからか、赤黒い地獄の炎のような炎気が揺らめいて立ち昇っている。

 魂を髄まで抉り尽す凶禍の槍を手に、魔女は刺し殺すような鋭い眼を拓矢に向けた。

「感謝するわ、青の命士、いえ……白崎拓矢。これで誰にも、あの人にも知られずに、私は念願を果たせる……あなたをこの手で、殺すことができるのだから!」

「っ……⁉」

 拓矢には、魔女の言葉の意味がわからない。

(念願? 僕を、殺すことが……この黒の魔女の念願? どうして?)

 冷静に考えるならそういうことになるが、拓矢にはいよいよもってその因果がまるで掴めない。拓矢の記憶の限り、この魔女と初めて会ったのはついこの間だ。それ以前からこの魔女が瑠水達を同じ目的のために狙っていたとすると、どう考えても辻褄が合わない。そして何より、以前の邂逅以外に接触の経験がなかった拓矢は、この魔女にそこまで凄絶な恨みを持たれるような特別なことをした覚えがない。ならば、あの魔女の真に迫った明らかな怒気は何なのか。

 記憶の迷路に入りかけた拓矢は、思考を切り替えることにした。

(きっと、今はわからないことなのかもしれない。なら、それよりも、今は……)

「《青の光よ(E'leo)、元素たる水の霊質を以て(sol e mel aely)、我が前に集い碧聖の結晶たる剣を成せ(mei kom wen ber lim swen)》」

 心の奥から湧き出る、瑠水の詞の力を借りた幻律と共に、かざした手に青い水光が収束し、水晶の剣を現した。力の発現の度合いが以前よりも強くなったからか、以前とは形状が変わり、青く光る刀身はより流麗な、まるで水の流れを形状化したようなフォルムになっている。

 現れた剣を携え、拓矢は改めて螺旋の凶槍を構えた魔女に向き直った。

 清浄の白青と憎悪の暗黒、二つの視線が壮絶に交わる。

 互いの思念を交わすような睨み合いの末、魔女が吐き捨てるように言った。

「やっぱりそうやって、私に剣を向けるのね。私のことを知りもしないで」

「君だって、僕を殺すつもりなんだろう。君が瑠水や翠莉ちゃんをまだこれ以上虐めようとするつもりなら、僕もここで死ぬわけにはいかないんだ。君がわかり合おうとしてくれないのなら……僕は、君をここで止めるしかない」

「ふん、上等よ。ならお望み通り、あなたを殺してルミナもスィリもエルシアも、みんなみんな苦痛と絶望に染めてあげるわ。白崎拓矢。私はね……あなたのその何も知らない善人面、反吐が出るほど気に喰わないのよ!」

 絶叫一声、魔女が凶槍を後ろ手に構えて殺到してくる。拓矢は青い水晶の剣を構え、静かに一瞬目を閉じ、心の奥の傷に潤いを満たす光に手を伸ばした。

(瑠水……君を守るために戦うから。力を貸して)

『 ――  。       。   ―― 』

 心の奥に届けた想いに、青い光が震えて答えてくれたのを、確かに感じた。

 魂が重なる喜びに震えるのを感じながら、拓矢は目を開ける。

 視界が、水に浄められたように青みを帯びて静かに澄んでいた。眼前に迫る魔女の狂熱を帯びた殺到が、水鏡のように、冷たく、静かに瞳に映る。

 氷のように冷たく研ぎ澄まされた心で、拓矢は剣を構え、襲い来る魔女を迎え撃つ。

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