Cp.2-4 Dear My Sylph,Smile Again.(2)

 恐る恐る目を開けると、青い揺らめきが視界に映った。

 続けて、脊髄に罅が入ったような痛みに全身が軋んだ。

「っ……」

 全身を襲う痛みとふらつく意識を、拓矢はどうにか立て直そうとする。空が上に見えるあたり、どうやら自分は空中から地面に叩き落とされたらしい。

 直前に感じたのは、目を焼く爆発的な閃光と、耳をつんざく怪鳥のような叫び、そして空中にあった体を振り回した暴力的な風の波動。そして、視界と体勢の制御を奪われた自分は、荒れ狂うような風に翻弄されて、その、直前に――――。

 そこまで戻った記憶と、目に映る青く弱い陽炎、そして胸元に触れていた、濡れるような感触が一つに結び付いた時、拓矢は目を見開いて、恐る恐る倒れていた自分の上に重なっていたものを見た。

「瑠水……」

 ガラスの心臓をハンマーで砕かれるような衝撃に襲われた。

 青い陽炎に包まれる中、瑠水は拓矢の体の上に覆いかぶさるように倒れていた。

 まるで、拓矢を庇うために、その身を投げ出したかのように。

 拓矢が言葉を失ったのは、それだけではなかった。

 瑠水の体が、ガラス細工のように、壊れかけていたのだ。全身に青い亀裂が入り、背中は衝撃の直撃を受けたのか、破砕寸前の大きな罅が入っている。そして、罅割れ欠けた体の至る所から、青く光る欠片が溶けた火の粉のように剥がれ落ち、水煙のようになって消えていっていた。彼女の体の重なる部分に、流れ落ちる血のようなぬめりを感じた。

 それは明らかに崩壊寸前の危険な状態だった。拓矢は衝撃に加え、状況理解が追いつかない。

 どうして。彼女の霊体は、傷つかないはずだったんじゃ――――。

 思考が停止する拓矢に覆いかぶさる瑠水の罅割れた腕が軋むように上がり、拓矢の腕を掴んで、必死で体を起こす。力を込めた腕から、青い欠片が零れ落ちた。

「拓、矢…………逃げ、て…………!」

 青い罅に白い面を侵されながら、瑠水は命を振り絞る声で、拓矢に訴えるように言った。

 その言葉と、再び空を切り裂く劈き声が胸を揺さぶった時、拓矢の止まっていた時間が無情に動き始める。

 耳を突き刺すような声に目を上げると、翡翠色の怪鳥が空中でその羽を大きく展開していた。鈴虫のように透き通る、刃のように鋭利な六枚の羽に、周囲から翠に色づいた空気が纏わりつき、六枚の羽を空気をも切り裂く真空の刃へと変える。その鳥が地上に孤立している自分達を視界に捉えているのを拓矢は感じた。

「……!」

 死を、覚悟しかけた。

 それが許しがたい誤りであったことを、彼は数瞬の後に実感した。

『タクヤ、ぼーっとしないの‼ 早く瑠水をしまいなさい‼』

「⁉」

 突如として脳裏に響いた声に、危地にあった拓矢は対応を見失いかけた。

 視線上からは、今にも翠の鳥の真空の刃が放たれようとしている。

 恐慌に陥りかけた拓矢の手を、罅割れた瑠水の手がそっと掴んだ。

 繋いだ手から、彼女の心が声となって、拓矢の心に流れ込む。

『拓矢……こっちを見て』

 声に反応し、拓矢は胸元に倒れる瑠水を見た。意識が繋がるその許容が引き金となり、瑠水の体が光となって拓矢の中に流れ込み、収納された。

 事態を把握する間もなく、今度こそ翠莉の羽が荒ぶる風を起こして振るわれ、走る風の刃が空を裂き、斜線上の全ての生命を薄い木の葉のように切断せんと迫る。

 その刃が二人を切り裂く一瞬の隙に、赤い炎のような光線が真横から突っ込み、斜線上から二人をかっさらった。間一髪、二人がいた場所に刃の走った鋭利な線が引かれた。

 紅い鳥のような裂光はそのまま直進して翠莉の風の隙間となるビルの陰に突っ込み、大きく制動をかけて停止すると、体を纏っていた赤の光と推進の熱力を解除した。

 助けてくれたその「赤」が誰なのか、もはや考える間でもなかった。

「ティム、」

 拓矢は有無を言わさず胸ぐらを掴まれると、そのまま渾身の力でビルの壁に叩きつけられた。全身の骨に罅が入るような衝撃に襲われ、胸の中の空気が全て吐き出させられる。

 昏倒しかける拓矢の胸ぐらを掴んで離さないまま、ティムは激しく燃える目を拓矢に向けた。その目には、隠そうともしない憤激が燃えていた。

「腑抜けるなと言ったはずだ。一瞬でも遅ければ、お前もルミナ様も死んでいた」

「――――…………!」

 告げられた言葉の意味を理解し、拓矢は自らを叩き潰したい衝動に駆られた。

 何が、死を覚悟する、だ。

 自分だけの死なら、まだそれでもいい。

 あの時、自分は瑠水の命の責任まで放棄しかけたのだ。

 あまりの不甲斐なさに、全ての言葉が意味を失うような感覚に襲われた。

 ティムは乱暴に拓矢の体を地面に投げ捨てると、容赦なく言った。

「立て、拓矢。腑抜けている暇はやれん。これ以上無様な姿を晒すようなら、今度こそ斬り捨ててやる」

「…………」

 自分の至らなさと愚かさを痛いほどに噛みしめ、拓矢は文句も言わず起き上がると、どこまでも厳しい騎士・ティムに礼を告げた。

「ありがとう、ティム。それにエルシア。助けてくれて」

『まったくもう。ヒヤッとさせないでよ。しっかりしてちょうだい、ルミナの命士様。ティムの言う通り、あと一瞬でも遅れてたら、あなたもルミナも死んでいたわよ?』

「うん……でも、その、霊体は傷つかないって話だったんじゃ」

 拓矢の疑問に、ティムが刺すような視線を向けてくる。自分でも言い訳がましく聞こえてしまうが、気になるものは仕方がない。

 険悪になるティムの代わりに、エルシアが小さくため息を吐くと、簡潔に説明した。

『同じ存在次元の相手同士なら互いに干渉できるって話はルミナから聞いてるんでしょ。だから霊体であるわたし達彩姫は、同じ彩姫の霊質への干渉や攻撃は普通にこの身体で受けるのよ。仕組みがちょっとややこしいけど、わたし達だって体を持っていることはあなた達と同じ。命の限りはないけれど、不死身じゃないし、疲れもするし、あなた達みたいな傷だってつくわ』

「そう、なのか……」

 今さらながら己の無理解と浅薄を思い知る拓矢の奥から、ノイズにかすれた声がした。

『 たk y 、気 を  さない 。私 、無事 す 』

「瑠水……?」

 ノイズが混じって、うまく聞き取れない。が、伝えたいことは確かにわかる。

『あなた 自 を責め   くださ 。そ よりも今 、翠莉 助け  と』

「……そうだね。ごめん、瑠水。今は休んでいて。傷に障るとよくないから」

 痛み分けのような言葉に、瑠水は弱弱しく微笑んだのを拓矢は感じて、萎れかけた心を奮い起こした。その様子を見取ったティムが吐き捨てるように言う。

「全く……そろそろ私の堪忍にも限界がある。次はないと思え」

「うん。言い訳は、もうしないよ。それより、やっぱりあれが……」

 拓矢の疑念にティムは頷きを返し、ビルの陰から中空に浮く異形を盗み見る。

「ああ……あれが《神体》。《翠舞奏爽(ケルビム・ルヒエル)・王冠の形相(エイドス・ケテル)》の顕現だ」

 ティムが口にすると同時、甲高い叫び声が三たび空を切り裂いた。耳をつんざくような破壊的な音響は、それだけで胸の内に畏怖を覚えさせる。

 宙に浮かぶ、翠莉の姿を模した六枚羽の神鳥の姿を盗み見ながら、拓矢はその圧倒的な存在感に息を呑んだ。まるで、あれの発する光と風がそのまま空間を埋め尽くしていくようだ。

 そのあまりの威容に圧倒される拓矢に、ティムが気を引き戻す。

「神体の力は、今の私達とは次元が違う。今のままではあれを止めることはできない」

「そんな……じゃあ、どうすれば」

「あれに対抗するためには、あれと同等の力を使うほかないだろう。エルシア様にも負担が大きくなるゆえこの力を使いたくはなかったが、やむを得ん」

 苦渋の決断のように言うティムに被さるように、灼蘭がその方策を話した。

「こっちも《王冠の形相(エイドス・ケテル)》を使って、あたしが《神体化》するわ。あの子はあたしがそれで食い止める。何とか動きを止めてあの子の精神の壁に穴を空けるから、その隙にあの子の心に飛び込んであの子の魂を浄化する。あの子の力の限界の時間を考えてもこれしかないわ。協力しなさい、タクヤ」

「うん。僕は、何をすればいい?」

 冷静に己の領分を訊ねた拓矢に、ティムと灼蘭は手順を説明する。

「あれに見た通り、神体化には大量の精神力の集中と、それに伴う時間を必要とする。我々は正気であるゆえ集中にもあれほど時間は要らないだろうが、それでも大規模な力の発現だ。黒の魔女に察知された場合、妨害をかけられることは十分に考えられる」

「つまり、神体化が終わるまで、あたし達を護衛してもらいたいの。あたしとティムは集中の間は無防備だからね。集中は一度途切れるとまたやり直さなきゃならないから、時間的にも一発勝負よ。ティム、あれをタクヤに渡して」

「は」

 エルシアの言葉を受け、ティムは拓矢の前に掌を差し出した。その掌の上に、白色の花弁が三枚、淡い光を放ちながら浮かんでいた。

「これは……さっきの、花びら?」

「幽白の彩姫の力の触媒だ。思念を流して力を解放することで、自在な現象を可能にする。先程の攻勢とあの少年に渡した分で、残りはこれだけだ。受け取れ」

 ティムがそう言いながら差し出した掌に、拓矢は自分の掌を重ねる。白色の花弁は光となって、拓矢の中に力として吸収されていった。

「この花弁の枚数が、そのままお前の可能性の回数だ。大事に使え」

「わかった。そういえば……真事君は?」

 今更のように訊ねた拓矢に、ティムが答えた。

「別の場所で待機させてある。合図と共に行動させる」

「今はちょっと場所も教えられないし、会いに行かせてあげるわけにもいかないわ。時間もないし、イェルに傍受されると厄介だからね。でも、一応無事よ。心配はいらないわ」

「そう、か……」

 答えつつも、拓矢の胸の内には心配が尽きない。

 先程、翠莉の精神の恐慌を間接的に受けた自分でさえ、激しく胸を乱されたのだ。彼女と直接心を繋ぎ、誰よりも彼女の心に迫った真事が受けたショックは、自分の比ではなかっただろう。今までの経緯を見ても、彼がそれで甚大なダメージを負うことは想像に難くない。だとしたら、そんな状態でここからの特攻作戦に本当に臨めるだろうか。

 不安を覚える拓矢の心の内に、ふいに小さなパルスが波紋を落とした。

 心の闇の内に広がったその色は、深く静かにさざめく緑色。

(……?)

 胸の内に生じた感覚を怪訝に思った拓矢の心に、かすれたような声が響いた。

『拓矢さん、聞こえますか?』

 それは心話回線のアクセスだった。通信の相手は――、

「真事君……無事?」

『それはこっちの台詞ですよ。無事だったんですね、拓矢さん』

 真事の言葉は、ひどい熱病から治った後のように冷静で落ち着いていた。

 彼と心話を繋いでいた拓矢は、その心の冷静さの裏にある静かな熱さを感じた。

「ティムから、作戦について聞いたよ。真事君……いける?」

『大丈夫です。役割もタイミングも、ちゃんとわかってます』

 同時に、拓矢は心話を通じて、彼の心のノイズのような不安定さも感じ取っていた。やはり、先程のショックを完全にやり過ごせたわけではなかったようだ。だがそれでも、真事の言葉にも心の状態にも、それまでとは明らかに違う力強さがあった。

 拓矢の懸念を感じ取ったのか、少しの沈黙の後、真事が口を開いた。

『拓矢さん。僕のことなら、もう心配しないでいいです。今はそれどころじゃないし、それに、もう弱音を吐いているわけにもいかないって、わかりましたから』

「真事君……」

 真事の言葉に、吹っ切れたような、それでいて自責にも似た深い覚悟が宿っているのを、拓矢は感じ取った。それは、拓矢の思っていた真事の弱さとは一線を画すものだった。

『いいんです、もう。僕がどれだけ馬鹿だったか、もう身に沁みてわかったから。だからもう、弱音は吐いていられない。僕は、僕がどうなろうと、翠莉を助けます。たとえ、僕がどれだけ愚かでも、僕は翠莉を失いたくない。そのためなら……また翠莉のそばにいられるなら、何だってやります。僕はもう、逃げません。僕が何もしないせいで翠莉を失うくらいなら、それこそ、僕に生きる価値なんてないんです』

「真事君……」

 迷いを吹き払う力の宿った、確かな魂の言葉。

 拓矢はそれで、真事に心配がなくなったのを悟った。

「もう、逃げないんだね」

『はい。何があっても、絶対に』

 拓矢の試すような問いに、真事は迷いない言葉で返した。

 拓矢はその時、瑠水を救いに行こうとした時、進藤宗善に問われた自分を思い出していた。そして、その心が今の真事に重なるのを見た時、拓矢の心も決まった。

「わかった。信じるよ、真事君。必ず、翠莉ちゃんを助け出そう」

『はい!』

 真事の力強い言葉に、拓矢は頃合いと見て心話通信を切ると、ティムに向き直った。

「話は終わったか」

「うん。始めよう、ティム。もう時間がないんだろう」

 拓矢の言葉と眼差しにも、もはやためらいは無くなっていた。その言葉と瞳の色に映る覚悟を見て取ったティムは、ふ、と小さく笑って、

「もはや言葉は要らず、か。いいだろう。始めましょう、エルシア様」

「そうね。それじゃあ移動しましょう。ここじゃ力を展開するには狭すぎるわ」

 エルシアはそう指示を出すと、タクヤ、と呼びかけた。

「ここからは、あなたの働きに成否がかかってくるわ。あたし達の神体化が成功しないことには、あの子を――スィリを止められない。ルミナの助けを借りられない以上、厳しい戦いになるでしょうけど、今頼れるのはあなただけなの。頼りにしていいわね?」

 拓矢は真っ直ぐな眼差しのまま、頷いた。それを見た灼蘭は興気な瞳で凄烈に笑んで、

「よろしい。それじゃあ始めましょうか。あの子を、スィリを悪夢から連れ出してあげましょ」

 その瞳と言葉に、燃え上がる炎の煌きを点した。


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