Cp.2-2 Fuzzy Sky Color(3)
「お待たせ、奈美。送っていくよ」
「うん。ありがとう、拓くん」
「夜道は危ないから気をつけなさいね。ちゃんと送って帰ってくるのよ」
乙姫に見送られ、拓矢は奈美を家まで送るべく、二人で夜の通りを歩く。
湯上りの体を冷ます、涼やかな夜気が心地よい。
「拓くん、」
隣を歩く奈美が声をかけてきた。どこか、訊きにくいことを訊くような声の色。
「ん、何? 奈美」
「その、お風呂……」
「?」
不可思議な言葉と共に奈美が激しく赤面している。拓矢はそこから推測を巡らせ、その赤面の意味するところに至った。
「…………」
言葉を返せず、拓矢は気まずげに頭を掻く。
ついさっきも、瑠水は上機嫌で湯浴みを共にすべく惜しげもなく裸を晒し、その湯に濡れた天使の肢体が甘い香りの湯気と滑らかな感触と共に目と体中に焼き付いている。気まずくて奈美の方を見ることができなかった。
沈黙の内に歩く中、ふいに奈美がぽつりと呟いた。
「私も、」
「えっ?」
普段は抜けているくせに、拓矢はそういう時だけ耳聡くなる。
奈美はそれに気づいていないのか、真剣な表情で顔を赤らめていた。
拓矢も仕方なく顔を前に戻し、歩き続ける。
澄んだ夜空には、砂粒のように小さな宝石のような星が瞬いている。
「ねえ、拓くん」
ふいにまた奈美が、今度は芯の通った声で言った。
拓矢も奈美のその声に秘められた意思を感じてか、心が引き締まる。
奈美はしばらく息をした後、思いつめたように口を開いた。
「拓くん、あの子の……瑠水ちゃんのこと、好き、なんだよね」
「……うん」
わずかに逡巡した後、拓矢は素直に答えた。奈美のことを慮って自分の想いを偽るのは、瑠水にも奈美にも失礼だ。
奈美はその言葉を受け止め、続けて口にした。
「その……私と、あの子と、どっちが好き?」
「…………」
拓矢は言葉に詰まった。その問いにはほとほと困惑した。
(そんなの……比べられるわけないじゃないか)
それは拓矢の正直な、そして本当の気持ちだった。優劣の比較ではなく、拓矢にとっては瑠水も奈美も両方ともそれぞれに大切で、好きだ。それはあの日、瑠水を救けに行った時に自分の心を明らかにした中で見つけた、拓矢なりの答えだった。
だから、そういう問いをされると、本当に困ってしまう。どっちも好きだよ、というのが本音だったが、そんなことを口にすれば由果那に引っ叩かれるだろう。どう説明すればいいのか。
すると、拓矢のそんな内心を見取ったのか、瑠水が姿を現した。
『奈美。そんな問いをされては、拓矢は困ってしまいます」
「うわっ! ……いたの、瑠水」
「お邪魔するのも何かと思ったので隠れていましたが。私はいつでもあなたと一緒ですよ、拓矢」
突然青い光と共に姿を現した瑠水に、奈美は強気な視線を向ける。
「瑠水ちゃん……どういうこと?」
「拓矢は私達をそれぞれに愛してくれているのですよ。その愛はいずれも真なるものであり、否定されなければならないものではありません。私達は拓矢の愛のもとに共存できるのです。それなのにどちらか一方だけを選ばなければならない選択を迫るのは酷ではありませんか?」
平然と言ってのける瑠水のその言葉に、奈美の中に疑問と困惑が生まれる。
「瑠水ちゃん、それって」
「ええ。私達のいずれも拓矢を想い、そして拓矢に想われているのならば、どちらもそうあればよいだけではないですか。そうすれば、私達も拓矢も皆想いを叶えられるのですから」
自然に微笑む瑠水の疑いのない言葉に、奈美は押される。
他方、拓矢は瑠水のその言葉に妙な合点がいっていた。拓矢にとって、瑠水と奈美、その両方が、それこそ共に生きる家族のように大切で不可欠な存在と思っているのは確かだ。確かに世間一般ではありえないような話ではあるが、可能ならばそれは最良の選択であるだろう。そして、どうやら瑠水はそれを善しとして差支えがないらしい。そうなると、あとは奈美の気持ちの問題のようだった。もちろん、それが一番の問題なのだが。
奈美は恐る恐る、瑠水の言葉を噛み砕く。
「それって……瑠水ちゃんは拓くんに別の女の人がいてもいいっていうこと?」
「無論、拓矢の心を奪われるわけにはいきませんが……あなたのように、拓矢の間での理解と共存が可能であるならば、ない話ではないと思います。共に拓矢を愛することができて、なおかつお互いの間で理解し認め合うことができる……拓矢もそれを認めてくれるのなら、私達のどちらにとっても良い形なのではないでしょうか。どうでしょう、拓矢?」
「う、うん……」
瑠水のかけてきた言葉に、拓矢は戸惑いながらも答えていた。確かに、突拍子もない案ではあるが、それ以上に望める話はまたとない。
対し、奈美はまだ難しい顔をしている。確かにやりようによっては諸々の問題を円満に解決できそうな案なのだが、まだ何かその道をためらわせているものがあるらしい。それを見極めるように、奈美は瑠水に訊いていた。
「でも、それって……浮気にならないの?」
「争い合う必要がないのならば、問題にはならないはずです。それに、拓矢の愛情が途切れることがないのなら、私は構いません。私は拓矢の伴侶ですから、拓矢を愛せて、拓矢が私を愛してくれればそれでいいのです。そして、拓矢は私を忘れることはないと信じていますから」
瑠水は確信的に口にする。そのあまりの真っ直ぐさに窮した奈美は、拓矢に話を振った。
「拓くんは……それでいいの?」
「…………(そう言われても……)」
拓矢は先程まで以上に答えに窮することになった。
正直に言えば、瑠水の出してくれた案が可能であるならばそれが一番なのだが、それはおそらく世間の目にさらされることになる。拓矢にとって瑠水も奈美も両方それぞれに大事なのは真実だが、世間から見れば相手の女は一人に一人、と相場が決まっているのだ。自分達が良くても周囲が、特に由果那あたりが何と言ってくるかわからない。
瑠水の言葉は、彼女独自の観念を持っている。それはこの世界の外にいた彼女の基準によるため、少々「普通」やいわゆる「常識」を踏み越えた所があった。今回の件も、瑠水にしてみれば円満な解決策なのだろうが、しがらみの世間の中で生きてきた拓矢や奈美のような一般人には、そうした理由から素直にそれを受け容れられなかった。
拓矢のそんな懊悩を見透かしたように、瑠水はさらりと笑みながら言った。
「そんな小さなことを気にする必要はありませんよ、拓矢。あなたはあなたが望む道をとればよいのです。世間の目に縛られて自らの心を偽ることはありません。私も奈美も愛してくれる、それがあなたの善であるならば、何も迷うことはないのではないですか?」
「それは……」
一切のためらいのない瑠水の言葉に、拓矢はいよいよ懊悩に囚われる。
瑠水の言葉は確かに正しい。だが、それは奈美の気持ちに反するかもしれない。である以上、拓矢の方から答えを決めてしまうわけにはいかなかった。
拓矢が言葉を出しあぐねていると、その様子を見た奈美が悔いるように口を開いた。
「拓くん……ごめんなさい。この話は、忘れて」
「え……」
拓矢は顔を上げて右隣の奈美を見る。奈美は申し訳なさそうに目を伏せていた。
「そうだよね……瑠水ちゃんの言う通りだった。こんなこと訊いたって、拓くんは困るよね。ごめんなさい。もう、こんなことは訊かないから」
「奈美……」
奈美の言葉は、無理に自分の気持ちを押し殺そうとしているように拓矢には聞こえた。重い空気の満ちる二人の間を、またも瑠水が拾った。
「無理に自分の気持ちを押し殺すのがよくないのはあなたも同じですよ、奈美」
「えっ……」
不意に心の奥を衝かれた奈美に、瑠水は平然と告げた。
「あなた、不安があるのでしょう。だから拓矢に答えを貰って、自分の気持ちに確信を持ちたかった。違いますか?」
「……!」
心の内を見透かすような瑠水の言葉に、奈美は戦慄の表情を浮かべた。
「なんで……何で、そんなことまでわかるの?」
「私は精神の存在ですから、人の思念を読み取ることにはそれなりに覚えがあります。ましてや、拓矢の心にはあなたの想いも強くありますから、心を通わせるあなたの想いを測ることくらいなら……」
「やめて」
煌々と語る瑠水の言葉を、奈美が小さな声で遮った。
「やめて……私の心を覗かないで」
「奈美……」
奈美の声には、恐怖が現れていた。見透かされることへの恐怖が。
戸惑う拓矢の前、瑠水は自らの過失を認め、申し訳なさそうに言った。
「すみません、奈美。失礼な真似をしてしまいました」
「ううん……私の方こそごめんなさい。気付かせてくれたのは、瑠水ちゃんだから」
対し、奈美も素直に自分の非を認めると、改めて「瑠水ちゃん」と言葉をかけて、
「私、今はまだあなたのことを認められない。やっぱり、あなたに拓くんを奪われたくないって思ってる。だけど……瑠水ちゃんもたぶん、何も間違ってないから。だから……いつか、瑠水ちゃんのことも、わかりあえるかもしれないって思ってる。何だか、変だね」
自嘲するように寂しげな声を零す奈美に、瑠水は笑みながら言った。
「いいえ、その想いは私にとっても喜ばしいものです。あなたが私に共感を示してさえくれるのなら、私もあなたとは通じ合える気がしています」
「瑠水ちゃん……」
戸惑う表情の奈美に、瑠水はやはり悠然と笑む。
「私はあなたを拒むつもりは何もありません。拓矢の愛を分かち合う者同士、しのぎを削り合うのも面白いかもしれませんね」
「私、……」
余裕すら漂わせる瑠水の提案に奈美は言葉を出せなくなった。ここで退いては押し負けてしまうが、前に出ることもできない。そんな思惑から彼女の善意の案に乗るとも乗れないとも言いきれない、思いの板挟みになってしまっていた。
救いを求めるように、奈美は拓矢の袖を掴んでいた。
「奈美?」
拓矢は、右隣に並ぶ、少し低い背の奈美の目を見る。
奈美は、縋るような眼差しで拓矢の目を見上げていた。
「拓くん、……」
胸の内にずっとある、どうしても聞きたい言葉。
それを聞くことができれば、胸の内は落ち着くはずだった。
しかしその言葉は口を出ず、やがて奈美は堪えかねたように目を伏せてしまった。
「ううん……ごめんね。変な話、しちゃって。気に……しないで」
「あ……うん」
拓矢はようやくそれだけを喉から絞り出せた。彼女の迷いに何の
そうして歩いている内に、いつしか二人(三人)は奈美の家の近くまで来ていた。
「ここまででいいよ」と奈美は言い、道の先へ歩いて、振り返る。
「送ってくれてありがとう、拓くん。明日のお弁当、何か食べたいものある?」
「いや、任せるよ。もう夜だし、食材買いに行くわけにもいかないでしょ。ありあわせのものでいいよ。僕の方こそ、いつもありがとう、奈美」
拓矢は自然とそう口にしていた。心から溢れる自然な感謝の想いだった。
だが、その言葉を聞いた時、奈美の瞳が微かに滲んだのを、拓矢は見た。
「ど、どうしたの、奈美?」
「ううん、何でもない。お母さん達も待ってるから、もう行くね」
奈美は目元を拭うと、拓矢に向き直った。潤んだ瞳で、笑っていた。
「それじゃあ、拓くん、お疲れさま。また明日ね」
「うん。また明日」
その言葉を最後に奈美は拓矢に背を向けて、足早に歩き去った。
「…………っ!」
奈美は歯噛みしたい悔しさに胸を震わせながら、その思いをどうにか散らそうと必死で足を進めた。何もかもを見透かしているような瑠水に、差を見せつけられたように感じていた。
結局、瑠水の言う通りだった。自分は、本当の気持ちを押し殺している。そのことが不安を生むと同時に自分への負い目ともなって、余計に心を痛めつけていた。
拓矢に向けようとした問い。それは、自分の気持ちを支えるための問い。
――拓くん、私のこと、好き?
その言葉は、ついに口にすることはできなかった。瑠水に封殺されたような気持だった。
さらに言えば、瑠水の提案を素直に認められなかった自分。
――私達の想いが皆一緒なら、一緒に愛し合えばよいではないですか。
彼女の案は、拓矢の心が離れはしないことを確信しているからこそ出せたものだった。それを恐れた自分は、心のどこかで拓矢が離れてしまうことを恐れていたのか。あるいは、拓矢のことを本当に信頼しているのは、瑠水の方なのか……そんな自分への疑念まで生まれてしまう。
瑠水の示す常識外れな態度に、確かなはずだった信念が揺るがされていく。まだ付き合ってきた日も浅いのに、明らかに自分より優勢な立場にいるように思える彼女。
それでも……せめて、自分の中にある想いだけは譲れなかった。
(あの子には、負けたくない。拓くんは、渡したくない)
自分の不甲斐なさによる悔しさに苛まれながら、奈美は足早に歩く。
(拓くん。お願い……私から離れて行かないで)
たった一つ、どうしても失いたくない背中。
ただ一つのその願いを、揺れる心の支えにして。
だが、あまりに測れない未知の相手を前に、今は勇気すら浮かばなかった。
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