Cp.2 Pr. Under The Sky On The Green Field

 いっそこのまま消えてしまえばいい――そんな風にさえ、思っていた。


 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ

 軋むように歪んだ時の中、無数のノイズが、荒れ狂う荊の棘となって僕の頭を掻き回す。

 時空の概念さえ砕けて混ざり合う、暴力的な雑音とガラスの破片のような尖った記憶の激しく乱れ擦れ合う嵐の中に、僕は放り込まれ、漂い、掻き毟られていた。絶叫に侵食されてゆく頭の中のような、終わりの見えない無秩序で破壊的な混沌。壊れた機械の喚きのような騒音が、記憶の底の汚泥を金属質にかき乱す。

 ああ、うるさい。ただ僕の頭の中を引っ掻きまわすだけの世界。

 早く、醒めてくれ。醒めたところで、これよりましな現実でもないのだけれど。

 こんな世界じゃ、何も考えられない。眠っているはずなのに、ちっとも休まらない。

 安らぎなんて、どこにもない。誰もいないたった一人の夢の中でさえそうなのか。

 世界の中にも外にもどこにも救いがないのなら――僕は、どこにいけばいいんだ。

 誰にも届かない本音が、傷口から滲み出す血のように胸の奥から溢れてくる。

 頭のどこかで、これまで生きてきた中の記憶が切れかけた電球のように明滅する。

 優しくて明るいけれど僕の奥にあった孤独を見てくれない両親。心から信じることのできなかった友達たち。結局一度も僕に向けて笑いかけてくれなかったあの女の子。何も信じることのできなかった自分のねじ曲がった性根。

 たぶん記憶のどこを漁っても似たようなものだろう。幸せを見ていながらそこから逃げようとする自分自身の矛盾めいた分裂。それを自覚する頃には、もう手遅れだったのかもしれない。

 幸せを望みながらそれを忌避する、そんな自己矛盾は重なってどんどん大きくなって、僕はいつの間にか、自分がどこにいるのか、何を望んでいるのかもわからなくなっていた。いつしかその心の亀裂は孤独っていうものとも重なって、僕は世界の誰も、自分を見ていないような気がしていた。閉ざされた心は闇の中で育って、自分でそれを望んでいるとすら思っていた。

 誰もいなくていい。どうせ、誰も僕を必要としていないんだから、って。

 心の闇の中は静かで暗い思いに満ちていて、閉じこもるのは心地が良いように思っていた。けれど、本当はそうじゃなかったのかもしれない。その闇の奥にある僕の本当の心の世界が、こんな、どこにも吐き出せなかった叫び声の溜まり場のようなうるさい破壊的な混沌なら。

 胸が叫ぶ。助けてくれと。こんなうるさい、わけのわからない世界は嫌だと。

 叫ぶその声すらもノイズの中に掻き消えて、鉄片の吹雪が僕の魂を削っていく。

 このままでは、僕は雑音の渦に呑みこまれ、死肉のように切り刻まれて消えるだろう。

 夢の中だというのに、僕は差し迫った存在の危機のようなものを感じていた。

 無数の羽虫に頭を蝕まれていくような中、僕は何かを見ていた。

 胸の奥、ずっと、底のように深くにあった、小さな光のような願い。

 ずっと――誰かに逢いたいと願っていた。

 本当は、きっと――誰かに必要とされたかった。

 ずっと、心の奥に封じ込めていた、願い。

 泣いて叫んでも、空気に溶けて消えてしまうと知って、叫べなかった奥底の願い。


 ――誰か……ここに来てくれないか……――


 ずっと、寂しくて、何かを求めていたような気がしていた。

 いつが始まりなのかは、もう憶えていない。もしかしたら、生まれた時からそれは始まっていたのかもしれない、なんてことを考えたりもしていた。

 けれど、僕は意識が食い尽くされて消えていきそうな中で、そんな願いを持っていたことを思い出していた。それは、胸の奥の鍵が壊れて、そこから立ち上る光の渦のようだった。

 無駄だと、誰にも届かないとわかっていながら、僕は墜ち行く意識で願っていた。

 どうせ、誰にも届かない。夢にも現実にも、僕の心に応えてくれる人なんていない。

 このまま僕は、ずっと一人で、孤独と悪夢にうなされながら死んでいくんだ。

 ずっと、――心が砕け散りそうだったその時でさえ、そう思っていた。

 なのに――その時、どこでもないどこかから、答える声があった。


 ――聞こえる? あなたを救けに来たよ、マコト――


 若草の香りを運ぶ風のような、薫り高い爽やかな声。

 その声が僕のノイズに苛まれる心に流れ込み、苦しかった僕は息をした。

 魂の呼吸と共に、溺れるようだった僕の胸の中に、際限なく新鮮な風が流れ込む。胸の澱みが流れ込む風に洗われ、体から吐き出され、全身が、魂が、新鮮な空気に浄化されていく。

 胸の中を爽やかな風が舞い踊るように吹き荒れ、心を覆っていた闇を吹き払ってしまった。

 心を苛む鉄の嵐から解き放たれた僕は、意識が散る間際に、光る風の姿を見た気がした。

 踊るように吹き流れる光の風の、その向こうにいた翠色の光を纏った少女の姿。

 光の先であの子が差し伸べてくれていたその手を掴もうと、僕は手を伸ばした。

 鉄砂の嵐に切り裂かれる寸前、その中を潜り抜けた翠色の風が、僕の唇に触れた気がした。

 爽やかなミントのような香りに魂が満たされるのを感じた時、僕の意識は微睡みに落ちた。


  ✢


 涼しい風に髪を撫でられ、目が覚めた。

 僕は晴れ渡る青い空の下、一面の草原に横たわっていた。

 真っ青な明るい空の下、若い草が爽やかな風に揺れている。草を揺らす風が僕の肌を洗うように撫で、鉄の風に晒されて毛羽立った心を静めてくれた。真っ青な色を通して空から降る光は夏の日のように温かく、風の運ぶ草の香りが心をやわらかくほぐしていく。

 ノイズはどこかに消え去って、心は青い風に撫でられて安らかになっていた。

 爽やかな空気に心が洗われる中、どこからか風に乗って歌声が聞こえてきた。


    ねえ、聞こえる?(Re mein ) 

 いま、あなたのために歌ってる(rinka i salama res iye) 


     この歌声(mei shan) 

 あなたの胸に響いてくれるかな(ri senaria sanafie lis) 


      あなたの胸の中に(le misa aima) わたしの吐息(li feste meia) 


 闇を払う息吹となって(Li kolza zalmeir scheph sophya) 

 あなたの胸の苦しみを消し去ってしまいたい(le alkeio ol seifie mai alphen) 


 あなたの青い息を喜びで満たしたい(La falz she leia licala) 

 あなたの悲しみをわたしの甘さで染めてしまいたい(se leme rik luma i kalmara) 


  あなたの震える命を(fosa k liza elreia) 

 わたしが空と光の中へ(sala i mia selfie mas) 

 自由のもとへ連れて行く(colsphi o meie chelsheia) 


 わたしは希望を運ぶ風となり(I meia fala kels koara liar ra) 

 あなたの魂を解き放つ翼になりたい(Al meie lu mie enshelo solia) 


 この命は(I miara) あなたに寄り添うために生まれた(a rails i salma meina) 

 この空の下(al fain) 翠色の風よ(silfine) わたしの愛を運んで(nau fau lai mei) 


 そよ風のように心をさらりと撫でる、爽やかに透き通るような歌声。

 胸の中に響くその歌声は、浴びているだけで心が濯がれるようだった。

 陶然とする僕の前にどこからか光の糸が風に乗って寄り集まって、人の形を紡いだ。

 それは、透き通った鈴虫か蝉の翅のような翠色の不思議な服を着た女の子だった。透明感のある白い肌に、鮮やかな萌葱色の髪が日差しよりも眩しい。

 若草色の彼女は僕を見るなり、ぱっと花が咲くように顔を輝かせた。

 その表情は、僕の重苦しい心まで照らすほどに明るいものだった。

「マコト!」

 夏風の色をしたその女の子は、僕の名前を呼び、僕に駆け寄って飛びついて来た。

 勢い余って、僕は押し倒された。視界には真っ青な空を背景に、僕の上に乗りかかった翠色の女の子。そよぐ風に草原が歌うように波音を立て、彼女の若草のような髪が揺れる。

「マコト、逢いに来たよ。やっと逢えたね」

 僕の上に乗りかかったその女の子は瞳を潤ませ、嬉しそうな笑顔で僕に笑いかける。その陰りのない太陽のような笑顔は、僕の凍えて傷ついた心を融かしていくようだった。

「君は……」

 僕は思わず声を漏らしていた。

 なぜだろう。会ったこともないはずなのに、僕はこの子を知っているような気がしていた。

 ずっと、僕はこの子を探していた――この子に逢いたかった、そんな気が。

「何で……こんなところにいるの?」

 なぜ、そんな言葉が口を突いて出てきたのか、わからなかった。けれどそれは、間違いなく僕の中にあった言葉だった。

 夏風色のその女の子は、大きな丸い翡翠色の瞳をパチクリと瞬かせると、やがてその言葉に宿っていた僕の懸念を飲み込んだように、その瞳に慰めのような色を映した。その瞳に映された色がそのまま僕の心の暗さを見ているようで、僕はじわりと胸が滲むのを感じた。

「そんなこと言わないで。自分のこと、こんなところなんて言っちゃダメだよ。わたしはあなたを選んでここまで来たんだから。だから、そんなさびしいこと言わないで。ね」

 女の子はそう言って、僕を励ますようににっこり笑った。大輪の向日葵ひまわりのようなその笑顔は涙が出そうなくらい眩しくて、心の奥の澱みを洗い流してくれるようだった。

 曇っていた心が照らされる。その時、僕はこの子にいてほしいって、心の底から思った。

「君は……誰?」

 僕は、確信を得ようとするかのように、その子に訊いていた。

 夏風色の彼女は、朝露の雫のように綺麗な瞳と、太陽のような明るい笑顔で、答えてくれた。

翠緑彩姫スィルフ=イリア翠莉スィリだよ。スィリって呼んでね」

 変わった名前――そんなつまらない疑問は彼女の明るい笑顔の前に消え去った。

 それよりも、なぜだか、彼女の名前を聞いただけで、彼女と心が通じ合ったような、そんな感覚を感じていた。逢ったばかりなのに、彼女の全てを受け入れられそうな、そんな気が。

 そしてそのために、彼女が何かを言いたそうにしているのを、感じた。

 翠莉は、僕に乗りかかったまま、真剣な目で僕の目を見つめてきた。

「マコト。わたしは、あなたのお嫁さんになりに来たの。そのために、あなたに手伝ってほしいことがあるの」

「えっ?」

 頭が止まった僕に、翠莉は少しずつ、彼女の事情を話してくれた。

 翠莉は、この世界で自分と生きるために別の世界から降りてきた、異世界の神様の娘であること。彼女は、一人前になるために、神様から独立するための使命を負っていること。その使命をこの世界で果たすために、彼女の宿主として僕が必要なこと。彼女の他にも、同じように使命を託された彩姫と命士のペアがいて、競い合わなければならないこと。使命を果たし、神に認められた者は、永遠の命と神の力が手に入ること。

「いきなりでびっくりしたかもしれないけど、あなたといっしょに生きていくためには、わたしはそれをなんとかしないといけないの。手伝って……くれないかな?」

 一通りの事情を話してくれた翠莉は、おずおずと訊ねてきた。

 それらの話を聞いて、僕は、

(くだらない)

 と、その話自体については思った。

 神様の存在なんて信じてないし、神の力とか永遠の命なんて胡散臭いにもほどがある。それに仮にそんなものがあったところで、僕はそんな大仰なものなんて欲しくない。そんなものがあったところで、僕のこの人生がどんなふうに変わるっていうのか。

 だから、僕がその使命に協力するとするなら、それはそんなものとは別の理由だ。

 皮肉なことに、神様や使命のことも全然信じるつもりはなかったけど、彼女の申し出に協力する理由は十分すぎるほどにあった。

「ねえ、翠莉」

 僕は、上に乗っかって答えを待つように不安げな瞳で僕を見つめていた翠莉に話しかけた。

「もし、僕が君のその試練に協力しないって言ったら……君は僕の下を去ってしまう?」

 もしそうなら、僕は協力しないわけにはいかないだろう。

 けど、何となく、翠莉はそういう打算のような言葉を使わないような気がしていた。

 その言葉を聞いて、翠莉は僕の心の奥を見透かしたように、小さく笑みながら首を振った。

「ううん。わたしはマコトを幸せにするために来たんだもん。あなたがどんな選択をしても、わたしはあなたのそばにいるよ。それに、マコトもわたしを受け容れてくれるって、信じてるから」

 翠莉の言葉には、一切の疑いも迷いもなかった。それを聞いて僕は、少しだけ安心した。

 僕が、この試練に協力する理由。それは、少なくとも今は、翠莉のこと以外になかった。

 この子と一緒にいられるなら、少しくらい、道を外れてもいいかもしれない。この子のそばにいると、心の奥に刻まれた痛みが癒されていくように感じる。ずっと感じていた胸の澱みも、この子といれば和らぐかもしれない。

 この子と――翠莉と一緒にいたい。

 それは、急ごしらえながら十分な理由になった。それは不思議なくらいに、僕の奥の方から溢れ出す、本心からの願いのようにも思えた。

 翠莉、と僕は彼女に呼びかけた。

 彼女は翡翠色の宝石のような丸い瞳で、何かを期待するように僕を見つめていた。

 その愛らしい瞳に語りかけられることに胸が潤うのを感じながら、僕は言った。

「まだ、何をすればいいのかもわからないけど……君がそばにいてくれるのなら」

 僕のその言葉に、翠莉は嬉しそうに表情を輝かせて、僕に抱きついてくれた。

「うん! ありがとう、マコト。かならず、あなたを幸せにしてあげるから」

 青く澄んだ空の下、彼女の笑顔は夏風にそよぐ向日葵のように明るく、鮮やかに僕の目に写った。

 僕は透き通った風のような爽快さに胸を満たされて、楽しそうに笑う翠莉を抱いてその甘美な感触を味わいながら、爽やかな風が草原を波のように揺らしているのを聞いていた。細身ながらやわらかい女の子の体の感触が伝わってきて、体が湧き上がる甘い衝動に疼く。抱きしめる彼女の腕は細く、触れあう体からは夏蜜柑のような爽やかで甘い香りがした。

 いつしか、僕の心はすっかり爽やかな思いに満たされて、安らかな眠りへと落ちていた。

 夢の中で眠り、現へと目覚める。

 意識が眠りの中に消えるその間際、彼女の吐息のような甘い風の匂いがした。


 目が覚めた時、僕は自分のベッドの上にいた。やはりあれは夢だったのだと認識する。

 胸は新鮮な空気を呼吸したように爽やかで、幸せな心地は今も全身に満ちていた。たとえあれが一度限りの夢だったとしても、きっと忘れることはないくらい、幸せな夢だった。

 そして――、

「ん……マコト……?」

 ベッドの横、自分の隣にすやすやと裸で幸せそうな表情で横たわっていた、若草色の淡い光を纏う彼女の姿を見つけて、僕は改めてあれがただの夢ではなかったことを思い知った。


  

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