Cp.1-5 Dawnlight of Love(2)
終わりの見えない暗闇の層は、地球でいう大気圏のようなもののようだった。奥へ奥へと、闇の中を突き進んでいくと、やがて闇が切れ、眼下に世界が広がった。
(これは……!)
拓矢は、眼下に広がっていたそのおぞましい光景に、胸を乱された。
眼下に広がる大地を覆う水は血のような鈍色に染まり、至る所に毒々しい黒紫色の荊の蔓がのたくっている。空は妖しい赤紫の闇に塗られ、胸を詰まらせるような異臭が満ちていた。
そして、そんな悪夢のような世界、赤黒い血の海の中心にあったのは、幾重もの荊が密集し巻き付いてできた、巨大な十字架だった。棘だらけの蔓に覆われたその十字架にかけられた者は、耐えがたい苦痛と絶望に苛まれ続けるのが痛ましく想像できてしまう。
そんな悪意の荊の十字架の中心に、囚われているもの。
そこにあったのは、弱弱しく輝く、今にも消えそうな、青い光の灯火。
全身を荊に締め付けられ、棘に喰われて青く光る血を流す、瑠水だった。
(瑠水……!)
拓矢はそのあまりに痛々しい瑠水の姿に、胸が捩れるほどの苦悶を感じた。
衝動的に心話で彼女と接触を図ろうとした拓矢は、目を閉じて意識を集中させ、瑠水のイメージを強く思い浮かべる。やがてその暗闇の中に、青い光で象られた彼女の輪郭が浮かび上がる――はずだった。
だが、拓矢が暗闇の中見出した瑠水の姿は、まるで黒い泥でできた殻に覆われているようにその全身を漆黒の色に塗り固められていた。彼女が放っているはずの光は、完全に黒い殻に遮断されている。ただ一つ、胸の中心に小さく点る青白い星のような光だけが、今にも掻き消えそうな魂の灯火のように弱弱しく燃えていた。今にも闇の中に掻き消えそうなその姿に、拓矢は言いようのない不安を感じた。
『瑠水……聞こえる?』
拓矢は恐る恐る、瑠水の心に思念を送る。
それが瑠水の心に届いた瞬間、黒い殻に覆われた瑠水の影が、カッと目を見開いた。その瞳は、いつもの彼女の瞳の色である深く澄んだ瑠璃色ではなく、狂気的にギラリと輝く
その視線が重なった瞬間、拓矢の中に濁流のような感情が流れ込んだ。
『拓矢『どうして『私のせいで『来ないで『痛い『ごめんなさい『私は『私がいなければ『苦しい『あなたを傷つけた『私なんて『いや『逃げて『もう私は『許して『あなたに『資格なんてない『こんな私を『来てはだめ『またあなたを『一緒にいたかった『助けて――――
(‼)
胸を乱す激しい負の感情の怒涛に、拓矢は思わず意識の集中を途切れさせてしまった。
(今のは……)
胸中の動揺を鎮めようとしながら、拓矢は考える。
心に直接流れ込んできた以上、今の思念が瑠水のものであることは間違いなさそうだった。しかし、その思念は暗く滾る闇血のような色に染められていた。
自分に対する恐れ、悔い、痛み、嘆き、そして――悲しみに染められた望み。
そして、自分と目が合った時の、恐怖に慄くような表情。
そこから見えてくるもの。
今の彼女は、なぜか自分を恐れている。
その理由に拓矢が思い当たるのに、さほど時間はかからなかった。
瑠水は、自分を責めている。自分のせいで拓矢が危険に晒されたことを悔いている。自分が近くにいれば拓矢がまた危険な目に遭うことを恐れている。自分は拓矢の傍にいてはいけないと思っている。だから、拓矢に会うことを恐れている。
根拠のない推測ではない。先程流れ込んできた思念からそれを読み取った時、拓矢は言葉にできないほどの悲しみとやりきれなさを感じた。
自分のせいで大切な誰かを傷つけたことへの、自責の痛みと苦しみ。
それは、あの日から拓矢がずっと感じ続けていたものと、同じだったから。
(違う……君のせいじゃない。確かに僕もユキ達も危ない目に遭った。けど、それは全部僕の意志でやったことだ。君は悪くない。自分を責めちゃ、だめだ)
瑠水と心話を交わすように、拓矢は自分の中でそう改めて思った。
あんなにも自分に愛情と信頼を寄せてくれていた彼女が、自分を恐れ、自らを責めるほどの悲しみと恐れに囚われている。そう思うと拓矢は胸が締め付けられる思いだった。
彼女を縛り付けている悪意と自責の呪縛から、彼女を解き放たなければ。
あんな、恐怖と絶望に染められた表情をさせてはいけない。そんな悲しい顔は、もう見たくない。誰のものでも、たとえ自分のものでも、そして、彼女にも。
(……ん?)
心中で決意を固め直した拓矢は、単純かつ重大な一つの事実に気が付いた。
現在、高高度、空の天辺から落下中。常識的に考えれば、この高さから落ちれば普通に死ぬ。
(え、ッ……やばい! でも、どうすれば⁉)
危機感に再び思考の制御を失いそうになった拓矢の意識内に、
『ハァイ、ルミナの契約者くん! やっぱり来たのね。聞こえるかしら?』
突如、威勢のいい声が飛び込んできた。拓矢は一瞬激しく動揺したが、すぐに落ち着いて対応する。どうやら向こうから心話を繋げてきたらしい。
「その声……えっと、名前、何だったっけ」
『ほう……貴様、我が主の御名を忘れるとはいい度胸をしているな。後で首が飛ぶ覚悟をしておけ』
拓矢の言葉に答えたのは男の声――ティムだった。そこにたしなめるように、本人――紅蓮の彩姫、
『はいはい、そんなにカッカしないのティム。好きに呼んでいいわよ、あなた、えっと……』
「あ……白崎拓矢、です」
『ふぅん、タクヤ、ね。憶えておくわ、ルミナの契約者くん』
「はあ、どうも……っていうか、それどころじゃない! 助けてくれ! お、落ち――」
『ふざけるな。こちらも今手が回らない上に、男を抱きとめる趣味はない』
「そ、そんな……」
拓矢の切願を一蹴したティムの声に続き、またも灼蘭の声。
『まったくもう、ティムったら堅物なんだから』
『事実です。私が命を懸けて守るのはあなた様だけです、エルシア様』
『ふふん、ありがと。あなたの愛はいつも真っ直ぐね。あたしが保証してあげる』
『お褒めに預かり恐縮です』
「だから、それどころじゃないんだって――!」
二人のあまりに浮いた会話に、思わず口に出して拓矢は叫んでいた。
『ああ、ごめんごめんタクヤ。じゃあ、今から死なないように落ちる落ち方を教えるわね』
「え、えっ? 助けに来てくれるんじゃ……」
『情けない。
『ほらほら、助かりたいなら話を聴きなさい!』
「は、はい!」
拓矢は空中で、灼蘭の言葉を聞き漏らすまいと意識を集中させた。
『いい? この世界で落ちても死なないように落ちる方法、それは、落ちても大丈夫! って強く思うことよ!』
「え……ええっ⁉」
そして提示された解決策は、あまりに信憑性に欠けるものだった。そうこうしている内に、地面がみるみる迫ってくる。
「そ、それだけ? 他には何かないの⁉」
『んー、他にもあるといえばあるけど、基本はそれだけよ。死なないように、強くイメージしなさい!』
「そ、そんな……っ!」
ムチャクチャな理屈である。拓矢は言葉を失った。
だが、地表激突までもう十秒もないだろう。迷っている暇はない。
拓矢は、覚悟を決めた。
(いずれにせよ、もう他にできることがないなら……そうするしかない!)
加速していく落下の恐怖に対抗するように、拓矢はひたすらに思いを強くした。
(死なない……死なない……死ねない……! 僕はまだ、死ぬわけにはいかない!)
一心に言い聞かせるその思いが、拓矢に力を与えた。
足から地表に激突、咄嗟に両手を地面に付けて落下の衝撃に耐える。全身の骨が軋むような凄まじい衝撃が走るのを感じつつ、しかしその体は崩壊することはなかった。
(い……生きてる……!)
拓矢は奇跡的な事態にほっと胸を撫で下ろしかけた。しかし、安心するのはまだ早かった。
「気を付けて! 絡め取られたらおしまいよ‼」
灼蘭の声が耳に直接響いたと思った、次の瞬間。
突如、地面に生えていた妖しい蔦が、ズルズルと触手のように拓矢に向けて伸びてきた。
「う、うわ……!」
その気色悪い光景に怖気を覚えている間に、荊の蔦は拓矢の足に絡みつき、締め付けるように棘が拓矢の肌を刺す。拓矢がチクリと小さい痛みを感じると同時に、
《おまえはまた、大切なものを失ったな》
「‼」
拓矢は心の奥に響いた重苦しい声に戦慄した。それは、あの悪夢で聞いた亡者の声と同じものだった。
《何もできないくせに、また来たの?》
《一度は見捨てたくせに》
《結局お前には何も守れないのさ》
「く……ッ」
自分を責める何者かの声が脳裏に絶え間なく響くと共に、胸の内に黒い靄のような重い感情が生まれ、正常な思考を侵食していく。拓矢は心身を黒い蔦に絡め取られようとしていた。
《役立たず》《裏切り者》《嘘つき》《偽善者》
「違う……僕は……ッ⁉」
押し寄せる悪意に飲み込まれそうになっていた拓矢は、眼前に走った赤い閃光と共に目を覚まされた。
瞬間、拓矢の体に纏わりついていた蔦が、砕け散るように消滅していた。
拓矢は、胸を占めていた黒々とした感情が薄れていくのを感じつつ、後ろに気配を感じて振り向いた。紅い光の正体、それは言うまでもなく、
「ティム……ッ?」
声をかけようとした拓矢は、ティムに胸ぐらを掴まれ、驚きに言葉を失った。
「貴様……貴様はなぜここに来た?」
ティムの険しい声での問いかけに、拓矢はその真意を測れないまま答えた。
「なぜって……瑠水を助けに」
「ならばなぜ、今のような無様をさらすッ!」
「え……」
ティムの表情は、険しかった。それは、拓矢に対する失望と、そして、同じ命士――愛する彩姫を守る騎士としての彼の情けなさへの思いによるものだった。
「彼女を……ルミナ様を本気で救おうと、守ろうと思うのなら、貴様は万難を排する覚悟がなくてはならない! この程度で立ち止まっていてどうする! 貴様が動きを止めれば、彼女は助からないのかもしれないのだぞ‼」
「……‼」
ティムが拓矢の胸ぐらを掴む力を強くする。そこに込められた力――彼が自分に伝えようとしている思いを、拓矢は悟り始めていた。
「大切な人を守る為なら、自分を捨てるほどの覚悟が貴様にはないのか! そんな中途半端な覚悟で、姫を守り切れると思っているのか! 貴様は、彼女が――ルミナ様が大切ではないのかッ‼」
その言葉に胸を衝かれた拓矢も、激昂して叫んでいた。
「大切じゃないわけないだろッ‼」
「ならばなぜあの程度で歩みを鈍くするッ‼」
ティムと拓矢が想いを込めた叫びを交わす。睨みあうように見つめ合う中で、しかし拓矢は感じていた。彼の――ティムの言いたいこと。
大切な人を守る為なら、自分の全てを捨てるほどの覚悟が必要だ。
それは、真実だと思った。そして、自分は彼に助けられなければ、蔦に絡め取られ、彼女を助けることもできなかった――それは、彼の言葉を証明していることだとも。
自分には、まだ全てを捨て、万難を排するだけの覚悟が足りなかった。敵同士である以前に、彩姫を――愛する人を守る騎士として、ティムはそれを許すわけにはいかなかったのだろう。
そして、故にこそ、訊ねたかった。
「……君は、どうなのさ」
「何?」
険しく向けられたままのティムの目を見ながら、拓矢は訊いていた。
「君は、全てを捨てられる覚悟ができているの?」
その問いかけを受けたティムは、呆れたように一つ息を吐くと、
「……ふ、よくそんな口が利けたものだな。だがいい、教えてやろう。周りを見てみろ」
「え……?」
ティムの言葉に拓矢は周囲を見渡し、不可思議なことに気が付いた。
さっき自分に絡みついてきた黒い蔦が、ティムと、そのそばにいる自分に絡みついてこない。いやむしろ、ティムの周囲を避けるように動いている。まるで、彼に近づくことを恐れているかのように。
それと同時に、拓矢はもう一つのことにも気が付いた。ティムの体から放たれている熱に。彼の心から溢れ出す意志の力の現れのようなその熱気が、周囲の蔦に干渉しているように拓矢には感じられた。
拓矢のその理解を見取り、ティムは己に誓うように堂々と言った。
「私は、エルシア様を守ると、彼女に、そして自分に誓った。今の私の全ては、エルシア様を守るためにある。故に、エルシア様を守る為なら、私は何も恐れはしない。私が心を鈍らせれば、エルシア様に危機が及ぶ。エルシア様を守るがために生きる。それが今の私の全てだ。このような蔦ごとき、恐れるに足りん」
「…………!」
そう語るティムの琥珀色の瞳は、一点の濁りもなく澄み切っていた。
拓矢はその一切の迷いの無さに心を打たれた。灼蘭に愛と忠誠を誓うという彼の想いの強さは本物だ。それがこの心の世界で力となって奔出し、心の闇に群がる棘を威圧している。彼はきっと、この荊には身も心も囚われないのだろう。
(強い……僕も、これぐらい強く在れなければ、彼女を守れない……!)
そう感じた拓矢の胸の奥に、小さくも確かな強さの種が生まれた。それを見抜いたように、ティムは拓矢の瞳を見つめながら声をかけてくる。
「ふ、少しは理解したようだな。自らが恐れに囚われていては、大切な人を恐れから守り抜けるはずもない。大切な人を本気で守りたいのなら、強くなれ。白崎拓矢」
そう語りかける彼の言葉には、単なる侮蔑や失望ではなく、同じ騎士としての強さを伝授し、信じるような思いが込められていた。
その思いを汲み取った拓矢は、強い意志を宿した瞳でティムの目を見つめ返した。それを見取ったティムは興気に笑むと、
「証明して見せろ、お前の覚悟の、真意の強さを」
そう言い捨て、拓矢の胸ぐらを放り捨てるように投げ払った。
途端、ティムの周囲を避けていた蔦が、獲物を見つけたとばかりに一斉に拓矢に襲いかかる。しかし、拓矢の心はもう恐れに揺れることはなかった。
(……来るなら来い。引きちぎってやる。もう捕まってるわけにはいかない。たとえ何が邪魔をしてこようと、僕は瑠水を守らなきゃいけないんだ……だから!)
「――邪魔を、するな‼」
心の底から湧きあがる意志を全神経に充溢させ、拓矢は決意を込めた瞳で強い叫びを発した。その発気が青い闘気となって、周囲に放たれる。途端、躍りかかろうとしていた無数の荊の蔦が、気圧されたように動きを止めた。
拓矢は張りつめた心意を緩めることなく、ゆっくりと立ち上がった。
瑠水を守る――ただ一つの想いが心の中で燃えるその感覚を身に沁み渡らせると、あらゆる恐れが心の炎に燃え尽きるように消えていた。蔦はティムの時と同じく、心意を燃やして熱を放つ拓矢に襲いかかるのを躊躇っていた。
「ふふ、やっぱり、やればできるじゃない。さすが、あたしのルミナが見込んだだけはあるわ」
と、その様子を見ていたのか、灼蘭が姿を現した。ティムに憑依する形ではなく、実際の体として立ち現れている。
「それにしても、『
「
聞き慣れない言葉を訊ねた拓矢に、灼蘭が答えた。
「命士に与えられる『
「命士の力として発現できるものは、『
ティムが重ねた説明にはまたも聞き慣れない単語があって拓矢は再び頭を悩ませかけたが、すぐに思考を切り替えた。今大事なのはそれではない。
「君たち……ここは? この世界は一体……?」
拓矢が訪ねたその言葉に、ティムはまたも表情を険しくした。
「呆れたものだな。この世界に見覚えがないのか?」
「え……?」
ティムの言葉に、拓矢は周囲を見渡してみる。こんな毒々しい世界に見覚えがあるはずがない――そう思っていた拓矢はしかし、周囲を見渡す内にこの光景に見覚えがあるのを感じた。
荊の蔓に侵食されている大地を覆う、澄んだまま静かに揺れていたはずの水面。
妖しい赤紫の霞に染められている、本来は深い紺青を讃えているはずの空。
その空に浮かぶ、闇の向こうでぼんやりと光る、赤黒い色に侵食されている白い月。
それら、この世界の本来の姿を見取った拓矢は、気付いた。
「ここは……瑠水の心の……あの、夢の世界?」
そう。毒されているだけで、この世界は瑠水と逢瀬を重ねた夢の世界――月夜の水園そのものだった。
でも、と拓矢は疑問に囚われる。あの月夜の水園が、あんなに美しく清浄だった世界が、なぜこのような姿に?
灼蘭は拓矢の心中を読み取ったのか、その疑問に答えるように話した。
「そう。ここはルミナの
灼蘭の言葉に、拓矢は信じられないとばかりに反論していた。
「でも……前に来た時は、こんな場所じゃなかった。こんな荊なんてなかったし、空も空気も、もっと綺麗で……」
「それは、あの子の――ルミナの心がこんな状態になってるからよ」
「瑠水の心が、こんな状態に……?」
拓矢の信じられないというような声に、灼蘭は説いて聞かせる。
「あの子のに限らず、人の精神世界はその人の心の在りようによって時々その姿を変えるの。夢が寝る度に人の心を映して別の夢を見せるようにね。で、私達彩姫とかは存在そのものが夢の次元の存在みたいなものだから、精神世界にはその在り様がモロに出るの」
そう言って、灼蘭は瑠水が囚われている十字架を見た。
「今、あの子の心はこんな毒々しいまでの痛みに囚われてる。あの荊の十字架がその象徴よ。この世界がこんな姿になってるのは、あの子の心が深い闇の念に囚われているから。この世界を元に戻すには、あの子の心をその負の念から――あの子自身を縛り付けているあの荊の十字架から解放するしかないわ」
「解放する……それってどうすれば」
拓矢の言葉に、ティムは険しい顔をし、灼蘭はあっけらかんとおどけてみせた。
「さあねー。それを教えちゃつまんないでしょ。あの子を守る騎士ならそれくらい自分で考えなさい。あんまりあなたが情けないとルミナが悲しんじゃうわよ?」
「まったく……貴様は何度心を揺らせば気が済むのだ。軟弱者め」
「そ、そんな……」
二人からも解答を得られず困惑する拓矢。そこにさらに灼蘭が忠告を挟む。
「まあでも、言っておくとしたら、あの荊は力技で剥がせるものじゃないわ。あたし達の力で剥がそうとはしてみたけど、何度燃え落ちかけてもすぐに元に戻っちゃったから。あれはたぶん、ルミナの自責の思いでできている。あれを剥がすには、あの子の心自体を閉じ込めてる呪縛を解くしかなさそうね」
そう言った後、拓矢を鼓舞するように、灼蘭は声をかけた。
「だから、あなたが来るのを待ってたのよ。ルミナの命士様」
「え……」
虚を突かれた様子を見せる拓矢に、灼蘭は教えるように言う。
「今、ルミナは心を闇に覆われてるから、あたし達の声は届かないみたい。けどね……心を覗こうとした時に、あの子の光る想いの欠片が少しだけ見えたのよ。あなたの助けを願ってる、あの子の想いがね」
そして、最後の一押しに、拓矢の目を見つめて凛と告げた。
「あの子は、一人きりの暗闇の中であなたを待ってる。あの子を闇の中から救うことができるのはあなただけよ。ここまで来れたんだからしっかりしなさい、ルミナの
「……!」
その言葉に、拓矢は再び目を覚まされる思いをした。
ティムの言う通りだ。自分は何度決意を鈍らせるつもりなんだ。
そうだ。僕は瑠水を助けるためにここに来たんだ。もう迷ってるわけにはいかない。何があっても瑠水を助け出す。今はもう、それ以外に何も考えるべきじゃないんだ。
そして、目を閉じて、意識を集中させて瑠水の姿を想う。目を閉じた暗闇の中に映る彼女の姿は、相変わらず黒い色に染められていたが、その胸に灯る青い光から、彼女の声なき声が、心の泣き声が聞こえるようだった。
(待ってて、瑠水……僕が、助けるから)
拓矢がそう決意し、彼女の囚われている十字架に駆けだそうとしたその時、
「うふふ。美しい決意ね。偽善者の分際で」
「‼」
血染めの赤い空の下に響いた声に心の芯を揺さぶられ、拓矢は動きを止めた。「偽善者」という言葉が心の弱い部分を掴んだというだけではない。その嘲るような甘い色の言葉に込められた感情の底知れない深さに飲み込まれてしまうような錯覚に囚われた。
声の主を探して周囲を見回すが、見える範囲、声が聞こえるほどの範囲に、自分とティム、灼蘭以外の姿はない。しかし同時に、拓矢は全身の表面が痛みを感じさせる風にさらされるようにピリピリと刺激されるのを感じていた。
何か、来る。恐ろしいほどの威圧感を纏って、ここに迫ってくる――!
炎気を纏った灼蘭と、洋剣を握り直したティムが、瑠水の囚われている十字架の少し上の中空に視線を向けた。拓矢もその場所を見る。
そして、その中空に変化が起きた。
荊の十字架の上の空間に、突如として暗闇が噴出し、中空に留まって卵のような楕円の形を形成した。その中に、何か――先程の声の主がいるだろうことは拓矢にも想像できた。
「来たわね――
灼蘭が厳しい目をして呟く。
その声と同時に黒い卵の殻が空気に溶けるように消え、それはその姿を現した。
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