明暦の大火 2
肉を焼いた脂っぽい臭いが風に乗り、垂れ下がった私の髪を揺らす。
……何だ。お前。
ただの人間ではないと分かっていた。
辺りは焦土。がらくたと死体が転がる中、そんな汚れの目立つような色を纏っておきながら、煤も埃も一切被らず、泰然とそこにいるのだ。
まだ海の方では
歳は四〇の半ばか。
いや、そう怖い目を向けるのは、勘弁してくれまいか。取るに足らん独り言
嫌な感じがした。男にも、その着物にも。
……難儀な夜よ。これではまるで、地獄絵図だ。
男は明るい方を見ながら、腕を組むと息を吐く。
お上の自業自得とは言え……。無実の民が死んでしまうのは居たたまれぬものよ……。せめて騙すにしても、もう少し話をしてくれてもよかったではないか。手掛かりも無しに
……散歩なら一人でしてくれないか。
いやお主、
男に背を向けた途端、不覚にも立ち止まる。
つい、と視線を、男へ投げた。
おお、流石は神をも凌ぐ大妖怪。その目だけで心の臓が止まりそうよ。
男はくつくつと笑って、肩を揺らした。それが治まると息を吸う。
……悪いが、もう火を放つのは勘弁してくれまいか? このままでは江戸は、灰になってしまう。
私は向き直って吐き捨てた。
その腰の刀、お前役人だろう。役人の男は
城や大名屋敷を焼くならまだしも、無関係の民まで燃やしてしまうのは筋違いではないか?
頭を潰した所で、また新しい者が用意されるだけでお前達は消えはしない。人と金がある限り、それしか知らないように繰り返す。
成る程。徹底的に叩きたい訳か。
男はがっくりと肩を落とす。その仕草はどこかひょうきんで、他人事と言うか軽薄と言うか、でも困り果てているように。
……
戯れるなと言った筈だ。
私は声を尖らせていた。その怒りは、もうすぐに露わになる。
嫌だと言ったら何だ。斬るのだろう、殺すのだろう私を! 最初から斬るつもりで来ておいて何を言う……! お前達は殺した。勝手な都合で、私と私の大事なものを殺した。許すものか……! 私はお前達を、絶対に許さん!!
そうであろうな。
分かっていたように、男は小さく即答した。
何も知らないくせに悲しげに。何も分かってないくせに、哀れなものでも見るように。
ああそれらの、何と忌まわしい事よ。
そして男は、刀に手をかける。
枝野組組長、枝野
神でもなったつもりか……
私は左の袖を捲り上げ、男は右手で刀を抜いて走り出す。
私の左腕は露わとなると、肘から先が燃え上がった。 火を払うように、前へ薙ぐ。火は腕から抜けて、三日月形の刃となって男へ飛んだ。
それで終わりだ。馬鹿馬鹿しい。お前達は簡単に燃えて死ぬ。
然し、構わず直進して来る男。
死にたいのか。激しい怒りに紛れるように、頭の隅で呆れた時だった。
腰から胴を切り離そうと迫っていた
となると、驚くのは私の方だ。目の前の男が突然、得体の知れない不気味となる。
火を恐れない生き物などいるか。そもそもこんな奇怪な現象に、戸惑いを覚えていないだと? 火を纏う化け物が、殺す気で目の前にいるのだぞ? 何故そのような、迷いの無い動きが……。
皮肉なものよ!
男は目の前に迫ると剣を放つ。こちらから見て左から右へ、私の腰と肩を結ぶような斬り上げ。
ひやっと背中が冷たくなった。
何とか半歩引くと、ぢっと切っ先は右肩を掠めていく。
男は更に踏み込みながら、両手で構え直すと突きを放った。
当時の私は、剣の間合いなど知らない。まして斬りと突きでは、攻撃の見え方が大きく変わる。その上に男は初撃を片手、この二撃目は両腕からと、威力と速度にも変化を付けてきた。不慣れな上に、迎合しようとした感覚を狂わされる。
……!
私は体勢を崩しながらも、右足を軸に身体を捻った。下手な
何なのだこの男は!? 鬼討……!? どこかで……。
……ああそうか。この男は退治屋か。
あの人と同じ、私のようなものを殺す者か。
――降参するか!?
男は言いつつ、すぐに体勢を立て直した。振り向き
誰が!
そう返す余裕は無かった。心は既に、恐怖に囚われていた。
死ぬのか。焼き殺され、今度はばらばらに斬り刻まれて。
一度経験しているのにまだ恐れるのか? 馬鹿を言うなよ。
あれはもう、苦痛以外の何物でも無いんだよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます