百の鬼を討つ彼女と、罪人の僕。
どこからだろう。僕のすぐ側から聞こえる。
「影だよ。かーげ。てめえ。後先考えろよ。仮にも俺の主人だろうが。いつでも好きな時に散歩連れてってやるって言ったじゃねえか死のうとしてんな」
確かに魂を食わせる際に、そんな約束はしたけれど。
急いでたから口約束みたいな感覚で、ちゃんと聞いてなかった。
そこで漸く気付く。人間の姿に戻っていた事を。山の中で転んで作った時の、擦り傷まで丁寧に。
ブラックドッグの奴、力を貸すのを止めたのか。
このままでは自身の身が危ないと判断して、自分が人間でもある事を伝える為に。
愕然とする僕をよそに、ブラックドッグはぺらぺらと続ける。
「よう姉ちゃん。イチバンガッセンカガリだな? 流れ的に。俺はブラックドッグ。あんたに死を告げにやって来た。のは過去の話で、こいつはあんたを助けに来ただけなんだよ。魂を半分俺に寄越して、主人を死神から自分に移させた、ただの人間だ」
一番合戦さんにもこの声は聞こえているのか。
そんな説明も無く好き勝手に喋ると、ブラックドッグは静かになった。暫くそのまま僕達は固まっていたけれど、多分黙ったのだろう。
気ままな奴である。主人なんて言っておいて、
それに僕は、もう人間じゃない。
「……本当なのか?」
一番合戦さんは暫くすると、呆然と零した。
どんな逆境にも屈しなかったあの姿が、あれだけ強く勇ましく、凛としていた表情が、途方に暮れた子供のように、みるみる崩れていく。
僕はその顔に何て言えばいいのか分からなくて、もごもごとまごついた。今すぐ一番合戦さんは、悪くないって言いたいのに。
「え、えっと……」
「何て馬鹿な事を……!」
一番合戦さんは、鬼討にあろう事か神刀を手放して、傷が川に浸かるのもお構い無しに駆け寄って来る。
一〇月の深夜。浅いとは言え灯りも無い中刀は沈んで、後ろに両手を着いて座り込む僕の目の前に、一番合戦さんは崩れ落ちた。ざぶりと腰辺りまで水に浸かる。
「お前はもう……人間じゃないのか……」
一番合戦さんは、恐る恐る僕に手を伸ばした。
それは僕が百鬼である事ではなく、僕が人間でなくなってしまった事への恐怖だと、明確に分かった。
一番合戦さんの手は軽く僕の頬に触れると、力なくだらりと落ちる。
泣いていたから。
隠す事も拭う事もせず、僕を見たままとめどなく涙を流して。
「……済まない……! 私の所為だ……!!」
一番合戦さんは絞り出すと、両手で顔を覆い俯いた。
「済まない。ごめんなさい。取り返しのつかない事をした。あってはならない事だ。ああ九鬼……! 本当にごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。もう何て詫びればいいのか……!!」
呪い殺すような声だった。
一番合戦さんは自責に暮れる。水に浸かったお腹の傷口から、血が流れ続けるのもお構い無しに。
痛いだろうに、そんな事はどうでもいいと言うように。
何をやってるんだ。僕は。
また人を傷付けた。
「……一番合戦さんは悪くないよ」
涙が溢れては目を
「僕は百鬼だよ。人間の君が泣く筋合いなんて無い。僕が助けたかったのは、僕自身なんだから」
川底に沈む、一番合戦さんの刀を見つけると手に取った。むちゃくちゃ熱い。
百鬼を討つ神刀としての性質だろうか。大人しかった神刀は僕を拒絶するように発熱し、水面から激しく蒸気が湧き上がる。
「僕を殺して」
僕の手を焦がそうとする、神刀を差し出した。
「こんな姿になってまで生きたくない。もうだらだら生き永らえるのは沢山だ。後悔も無い。君の仕事は百鬼に涙を流す事じゃなくて、百鬼を倒して皆を守る事でしょ」
だからせめて、最後は君の手で。
「お前は人間だ」
一番合戦さんは、泣きながら断言した。
「百鬼だよ」
「違う。百鬼は人間を救ったりしない」
「君の為なんかじゃないよ。自分の為だ」
「自分の為に生きてない奴なんかあるか」
一番合戦さんの涙が止まる。
「そんな事当たり前だ。私が鬼討になったのは、今まで何も知らず先代達に全部押し付けて、それを当然と思い生きて来た自分の無知さが憎かったからだ。知らず知らずの内に守って貰っていた、恩義に報いなければならないと思ったからだ。先代達からすれば、そういう仕事なのだから気にする事では無いし、恩を与えたつもりも無いと言うだろう。でも私は、それでも自分が憎くて、恩義を感じたから鬼討になったんだ。先代達の気持ちなんて知らない。お前が自分の罪悪感から救われたいが為に、私を助けたのだって同じだよ。ボランティアだって偉大な発明だって、結果誰かが幸せになっただけで、一番それで満足したいのは自分自身だ。そうありたいと自分が願ったからだ。そんな事皆やってる。自己犠牲なんて言葉は本当の意味では存在しないし、善行も悪行も根本は変わらない。そんな当たり前の事なんかで、お前を殺せるか」
「無茶言わないでよ」
僕は力無く笑う。
だから君は、守られた事が無いんでしょ?
「自分はいいからって犠牲になられて救われて、好きでやったんだから当たり前だなんて、何の責任も感じず言える? そんな事しなくていいのにいきなり死なれて、その人を一生背負う覚悟が君にある? 何でも正論で切り捨てないでよ。皆が皆、君みたいに強くない。僕の事だって何にも知らないくせに、何でそんなに本気で泣いたり怒ったり、平気で命を懸けたりするんだよ。先輩なんかより、よっぽど人がよすぎる」
「出来ないから殺さない」
感情的になる僕に対して、一番合戦さんは静かに言った。
声や表情にではなく、言葉に熱を込め。
「根本が同じでも悪行が許されないのは、倫理に反するからだ。例えどんなに尊い理由でも、犠牲をよしとする道理はこの世に無い。それでどれだけの人が救えても、一生その人々の心に影を落とす。そんなのただの我が儘だ。だからお前は怒ってて、私もお前が気に入らない。分かってるんだよそんな事。私だってそんな事をされては堪らない。でもこう生きたいと願ったんだ。届かなくったって誰を傷付ける事になったって、なるだけ公正でありたいと私が願ったんだ。……出会ってからの時間なんか関係無いだろ。人間を捨ててまで助けてくれた奴だぞ? いいんだよそんな屁理屈は。どんな価値観を持ってた所で、何をしたって助けてやりたいと、誰だって思うじゃないか」
……ああそっか。
僕はやっと気付く。
同じ目に遭わせてたんだ。今ここで。
僕が先輩で、一番合戦さんが一年前の僕なんだ。
でも今の僕は先輩みたいに、立派な理由じゃない。
「勝手に死ぬなんて絶対許さん」
何も知らない一番合戦さんは、目に涙を溜めて言った。
我慢していただけで、全然泣き止んでなんかいなかった。
「全部背負った気になって、清算出来るなんて思うなよ。死んだら全部中途半端になるだけで、逃げ出したのと変わらない」
僕が死んだ所で、先輩が死んだ事も変わらない。
暗にそう言われているようで、呪いのように耳に染み付く。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
消えそうな声で口にしていた。
先輩を殺しておいて、その先輩の命を奪った奴らに落ちぶれて、ここままのうのうと生きていけばいいのか。
何をしたって、先輩は帰って来ないのに。
「一緒に背負うよ」
一番合戦さんは、最後に一筋涙を流す。
「その黒犬は、一生かけて私も背負う。誰かがお前を百鬼と断じ斬ろうとするなら、命を懸けてお前を守る。それで私が危なくなったなら、今度はお前が私を守ってくれ。半分捨てた命なら私がやる。お前の人生は私が支える。だからどうか、私の為に死ぬなんて、そんな酷い事を言わないでくれ」
だから、何で失敗しなんだろうな。この子は。
間違ってたのは先輩も僕もおんなじで、何にも知らないくせに一回で最善の選択が出来る彼女に、僕はすっかり嫌になって、正直嫌いなぐらいになって、せめてもの
あの時この子がいたら、本当によかったのに。
「……鬼討失格だよ」
「構わないさ」
一番合戦さんは笑った。
どん底の笑顔だったけれど、涙はもう一滴も零さずに。
「鬼討でさえなかったら、お前を救えなかったんだから」
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