第45話 ジールの謎

「では、旦那様。そろそろ……」


 そう言って、近くに黒子のように控えていた一人のメイドが、ケルドルン侯爵の耳元に口を近づけて何事かを呟く。

 それを聞いたケルドルン侯爵は厳めしく頷いて、俺たちに申し訳なさそうに言った。


「……非常に残念ですが、私はそろそろ行かなければなりませぬ。本当でしたら、この後、皆様の訓練を見物したいと考えていたのですが……」


 そう言ったケルドルン侯爵に、ロザリーとジールがフォローするように言う。


「侯爵閣下はこの巨大な領都ラインバックをお一人で切り盛りされるお方。お忙しくて当然です。私たちのことは、どうぞお気に召されぬよう」


「その通り。これからすることも、いつもと変わらぬ訓練ですし、閣下の貴重なお時間を使われるほどのものでもありません。ご見物いただくなら……ご息女が次の段階に進まれたそのときにでも」


 二人とも随分とすらすらと言葉が出てくることだが、こういう場面になれているのだろう。

 お互いに社交辞令だと分かる、当たり障りのない返答である。

 しかし、その中でも双方にお互いを気遣う部分があるところが、この人々が有能であることを教えている。

 ダメな貴族というのは何の意味もないようなお追従を言うだけに終わるものらしいからな。

 俺も、今世では見たことないが、前世では何度かそういう人間を見たことがある。

 とにもかくにも人の足を引っ張り、自分が利益を少しでも多くとることだけしか考えていないような人々を。

 ああいうのを見ると、人間にも同情心が湧いたものだ。

 ここにいる三人の大人たちはそういう者ではない、というのは改めて考えるとありがたいことである。


「次の段階、ですか……。その日は近いですかな?」


 侯爵の言葉にジールは頷いて答える。


「そうですね。基本も身に付いてきておりますし……それほど遠い日のことではありません」


 その言葉に、ジャンヌがぱっと明るい表情になった。

 おそらくは、彼女に聞かせるために言ったのだろう。

 基本ばっかりであんまりおもしろくない、みたいな感じのことを言っていたからな。

 そこから抜けられそうとなればうれしいだろう。

 ただ、仮に先に進めたとしても、基本についてはいつまでもさらわなければならないものなのだけどな。

 ロザリーですら、未だにそれをやっているのだ。

 俺も、誰にも見られないことを確認した上で、幻剣の基礎についてはしっかりと常に復習している。 

 そうしなければいずれ、弱くなっていくものだからな。

 ジャンヌもそのことにそのうち気づくだろう。

 これは悪いことではない。

 なぜなら、そうなると、ただの基本練習でも面白くなってくるからだ。 

 毎日のことで、同じことの繰り返しのように思えるが、そうではないことが分かってくる。

 自分の体調、周囲の環境、剣の違いや、僅かな動きのぶれ……そういうものが肌で感じられるようになると、一人で基本をさらっても毎日新たな発見がある。

 それは剣士にとっては非常に楽しい時間なのだ。

 ジャンヌがそこまでになれるにはやはり、しばらく時間がかかるだろうが……まぁ、それまでは基本の先、技や奥義を身に付ける、とか、模擬戦をしてみるとか、そういうことに楽しみを見出しても全然かまわないだろう。

 

「そうですか……であれば、その日を楽しみにして、今日のところは諦めましょう。皆さま、それでは失礼しますぞ……」


 ケルドルン侯爵はそう言って、その場を後にした。

 これから彼には山積みになった仕事が待っているのだろう。

 この領都ラインバックというのはそれだけ大きな街であり、領主である侯爵の仕事は多い。

 部下も大量に抱えているだろうが、最終的な決定は彼の双肩にかかっているわけだ。

 大変だな。

 また、侯爵が領有するのは当然ここだけではなく、ケルドルン侯爵領全体になるわけで……それも考えると本当に激務だろう。

 親族の貴族も沢山いるだろうが、総領は侯爵だ。

 のんびりとしていられる時間は彼には少なく、ジャンヌの修行も本当に見ていたかったのかもしれない。

 娘とは言え、俺のようにほぼ平民のような生活をしている場合とは異なり、高位貴族である侯爵は長く一緒にいられる時間はあまりないだろうしな。


「……さて。では、我々は中庭に参りましょうか」


 侯爵が去ったあと、ジールがそう口を開く。

 今いるこの場所は応接室であり、俺たちの目的は訓練だ。

 もちろん、俺は今日のところはそれが出来ないが弟子入りを認められたので見学するし、ジールとジャンヌはしっかりと修練する予定なのは変わらない。

 あとはロザリーがどうするかだが……。


「私も見学させてもらって構わないか? 神聖剣やゴルド神聖国の機密に関わるのであれば、無理は言わないつもりなのだが……」


 ロザリーがそう口にした。

 彼女の今の格好は、運動のためのものであり、どう考えても着いてくる気満々だな、と分かるものだが、それでも常識はしっかりある。

 神聖剣、という剣術があまり外に漏れない、見られないのは、その技術や、身に付けたものが大勢いるゴルド神聖国が積極的に外に出そうとしないためだ、と理解しての言葉だろう。

 しかしこれにジールは意外なことを言う。


「あぁ、お気になさらずに。そもそも私はゴルド神聖国からは離れた身ですので。特にそう言った義務は負っておりません」


 神聖騎士然とした雰囲気のある男なので、ゴルド神聖国に所属する神聖騎士であるのだろう、と予想していたがそうではないようだ。

 それはロザリーも同じで、


「それはまた、珍しい。しかしそうなると非常にありがたいな。私も全く見たことがないと言う訳ではないのだが、戦場や騎士団の交流試合などでしかない。その剣術理論や基礎訓練などについては神聖国の騎士に聞こうとしたこともあるのだが、機密だと言われてしまった」


「ははは。それについてはその騎士を責めないでやってください。神聖国では神聖剣を身に着けることは栄誉とされていますが、伝授を許されるのは少数の者に対してだけなのです。それだけに修行方法や技の詳細についての外部への情報漏えいには極めて気を遣っております。その騎士には、説明することが出来なかったのでしょう」


「……しかし、ジール殿。あなたは……?」


「私は、先ほども申し上げました通り、神聖国から離れた身なのです。その詳細については申し訳ないのですが、申し上げられませんが……ただ、それだけに神聖剣については十分なお話が出来ます」


「さようか……分かった。特にそこについては突っ込まないでおこう。では、中庭に行こうか。私も実は非常に楽しみにしていてな。光剣払いなども見せていただけるか?」


「もちろんです。とは言え、まだジャンヌ殿に教える段階にはないので、見せるだけ、になりますが。それと、ロザリー殿には修行に少し協力していただいてもよろしいですか?」


「私が? 貴重な剣を見せていただけるのだ。どのようなことでもしようではないか。ドラゴンを倒して来いと言われたら断るがな」


 そう言ってロザリーは笑うが、この人なら普通に倒せるのではないのだろうか、と俺が思ったのは内緒である。

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