#20 そして最後に、俺のついた嘘は
俺は再びイサミに語りかけた。
「イサミ、俺も四十九歳まで生きて、死んで、一度踊り場に行って、そこからもう一度過去に、この世界に戻ってるんだ。
いいか、よく聞け。
証明してやる。
なぜ君が死なないか、証明してやる。
それはこの世界が生きていくに値するような素晴らしい場所になっていくからだ。
だから君は死なないんだよ。
俺はこの世界の未来を見てきた。今から三十年先まで見てきたんだ。
この世界は、イサミ、どんどん良くなっていくんだ」
嘘だ。
この世界はちっとも良くなんかなっていかない。
「今から二年後、一九八九年、ベルリンの壁が崩壊して、冷戦が終わる。信じられないかもしれないけど、ほんとにそうなるんだ。それから、米ソは核兵器の完全撤廃に合意して、他の保有国もそれに追随していくんだ」
嘘だ。
壁は崩壊したけど、今でも各国は核兵器を保有している。
「一九九三年、PLOとイスラエルが暫定自治協定を締結した。中東戦争は終結し、その後様々な民族紛争は終結に向かった。もう世界に紛争地域は存在していないし、テロという言葉は過去の遺物になった」
嘘だ。
オスロ協定なんてとっくに意味をなしていない。中東問題は一向に解決の兆しを見せないどころか、混迷の度合いを深めている。
各地で紛争は起こり続け、9.11が起こり、ISの脅威が世界を覆いつくしていく。テロがなくなる気配はない。それどころか、世界各地で起こるテロの頻度は年々増加している。
「日本は平和憲法を守り、世界の規範となっている」
嘘だ。
今から三十三年後、俺は日本で自爆テロに巻き込まれて死ぬ。憲法が改正されて、日本は世界有数の兵器輸出国になる。メイドインジャパンの人工知能を搭載した無人兵器が世界中で毎年何千人何万人もの命を奪うようになる。日本は再び大きな経済発展を遂げる。テロの標的にされても仕方がないやり方で。
「環境問題も、エネルギー問題も解決に向かってる。化石燃料から再生可能エネルギーにシフトしていったんだ。原子力発電所はなくなった。先進国を中心に、犯罪率も低下して、モラルも向上している。誰もが安心して暮らせる世界になるんだ」
嘘だ。
世界で唯一の被爆国であり、震災による原発事故を経験しているにもかかわらず、日本のベース電源は原子力発電に頼りっきりだ。しかも、既得権益によって、エネルギー改革は一向に進まない。
犯罪率は低下しているが、モラルは一向に向上しない。
「三十年後には、もう誰も他人の自転車のカゴにゴミなんか放り込まない。相手のことを思いやって、相手の意見を尊重して、お互いを認め合って、そんな世界になってるんだよ」
嘘だ。
三十年後だって、みんな自分のことしか考えていない。くそったれな人間ばかりの、くそったれた世の中だった。一日に最低一回は、こんな世界は滅んでしまえばいいと思うような世界だった。
そうだよイサミ。
お前のいう通りだ。
この世界は生きていくに値する場所だとはどうしても思えないよ。
でも、俺は生きてほしいんだ。
俺と一緒に生きてほしいんだ。
だから生きろ、イサミ。
イサミは目を開いた。
「でも、どうして。どうして先輩は元いた世界のことを覚えているの?」
「それは……」
思いがけない質問に俺は言葉を詰まらせた。それは俺にだってわからない。なぜイサミはそんなことを気にするんだ。
再びイサミは目を閉じた。
「ああ、そうか。そういうことか……」
イサミはかすかに微笑んだ。
「私があのとき望んだからか。先輩に私のことを覚えていてって望んだからか。オオカミさんいったよね、先輩が先輩自身である限り、私のことは決して忘れないだろうって」
「おい、いったい何をいって――」
「そうか、先輩はあのあと四十九歳まで生きて、それからこの世界に戻ってきたのね。決して忘れなかった私にまつわる記憶を持ったまま。私を助けるためだけに……」
そっとため息をついて、イサミはうなずく。
「因果律。だから、私も、もう一度引き戻されたのね。ありがとう、オオカミさん……」
イサミは目を開けた。
「ありがとう、スグロ先輩」
そして再び微笑みを浮かべた。
「嘘つき」
「え?」
「嘘ですよね。さっきの話」
俺はとっさに言葉に詰まってしまった。
どうしても、嘘じゃないといえなかった。
やっぱりもうだめなのか。
顔を上げる。ポーカーフェイスがいない。いつの間にか姿を消している。
赤い帽子がアスファルトの上にふわりと落ちた。
時間が動き始めている。
対向車線の車が走り出し、俺たちの脇を通り過ぎた。
歩道に人が集まってきている。
周囲がざわついている。
俺の背後で誰かが救急車はまだかと叫んでいる。たぶんノリちゃんだ。救急車、呼んでくれたんだな。
でも、俺には周りを見る余裕はない。
まだだ。
まだ諦めるわけにはいかない。
突然、俺の頭の中に、ミサキさんの言葉がよみがえる。
――生きていくうえで本当に大切なことは、とてもささいな物事の中にある――
俺は人差し指を立てて、いった。
「生きててよかった」
唐突な俺の言葉に、イサミが怪訝な顔をする。
「君の口癖だ。
それが十年後の君の口癖なんだ。
いいか。俺は君においしい珈琲を淹れてあげられる。
いつも部室で飲んでる苦くてぬるいコーヒーじゃない。あんなのは珈琲とはいわない。
本物の珈琲は、焙煎したての新鮮な豆を挽いて、ドリップするんだよ。
じっくりと蒸らしてドリップするんだ。
新鮮な挽きたての豆は、ものすごく膨らむんだよ。
そして、それをたっぷりと蒸らす。
『シカゴ』のやつなんか目じゃない。
君はそれを飲むたびに、必ずこういうんだ。
俺の淹れた珈琲を飲むたびに。
ああ、生きててよかったって。
君は未来でそういうんだよ」
「……」
イサミは何かをつぶやいて、再び目を閉じた。
彼女が何とつぶやいたのか、俺には聞き取ることができなかった。
近づいてくる救急車のサイレンの音にかき消されてしまったから。
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