#17 そして時計の秒針は

 午前中と打って変わって、時計の針は遅々として動かなかった。

 これほどまでに時間が経つのを遅く感じたことはなかった。

 向かいに座っているイサミと、彼女の背後の壁にかかっている時計との間を俺の視線は何度も何度も往復した。

 一時十分。

 ようやく一時を回った。

 建物の中で突然命を落とす可能性を、俺はあれこれと考えていた。

 まさかここまで車が突っ込んでくることはあり得ない。

 では、飛行機やヘリコプターは?

 可能性が全くないとはいえない。

 突然、大音響とともに天井が崩れ落ち、イサミがその下敷きになる。

 俺の脳裏にそんなイメージが何度も再生される。

 イサミが怪訝な顔で俺を見る。

 なんでもない、と俺は笑顔で首を振る。 

 一時二十分。

 事故だけとは限らない。

 例えば、図書館の中に頭のイカレたやつがいて、そいつが突然ナイフを持って襲いかかってきたら。

 俺は周りを見渡した。

 広いテーブルには俺たちのほか、中年の女性と、七十歳くらいの男性しかいない。

 ほかには――。

 ふと、俺の視線は書棚の前に立っている男性に引き付けられた。

 コートを着たその後ろ姿がどこか見覚えがある気がした。

 そうだ。

 思い出した。

『ワラムクルゥ〇一』で、デモの集合場所にいた不審な男。

 あいつに似てないか?

 俺は一瞬パニックに陥りかけた。

 いや、待て。

 今はあの時よりも三十年以上も前の世界なんだ。

 同一人物なんてことはあり得ない。

 落ち着け。

 よく見ると、その男は背格好も雰囲気もあの不審者とは違っていた。

 俺は肩の力を抜いて、もう一度館内を見渡した。 

 怪しそうな人間は見当たらない。

 でも、油断はできない。

 一時三十分。

 人間とは不思議なものだ。

 こと、ここに至って、俺は金縛りにあったみたいに、体がこわばって微動だにできない状態になっていた。

 もし今何かあっても、たぶん俺は動けない。

 脳からの命令が体のどこかで途切れてしまっているような、不思議な感覚だった。

 俺はもう壁の時計の秒針をじっと見つめることしかできなくなっていた。

 一時三十四分。

 秒針が十二時の場所に到達し、六度の角度を刻みながら右回りに降りていく。

 一時三十四分十秒。

 三十秒。

 四十秒。

 五十秒。

 そして――。

 一時三十五分。

 一時三十六分。

 一時四十分になって、ようやく俺は大きなため息とともに張りつめていた力を抜いた。

「大丈夫ですか?」

 気が付くと、イサミが心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。

 俺はうなずいて、「ちょっとトイレ」といいながら席を立った。


 男子トイレの鏡の前の洗面台に手をつき、俺はうなだれていた。

 これで本当に回避できたんだろうか。

 分からない。

 とりあえず、過去の出来事は大きく変わった。

 今のところイサミは死んでいない。

 今のところ。

 では、これからは?

 もし、世界に元の状態へと戻ろうとする力が作用するのなら、これから先、イサミの身に何かが起きる可能性は否定できない。

 これから先。

 これから先、いつ起こるか分からないその出来事に、どうやって対処すればいいんだ。

 どう考えても、それは不可能だ。

 それでも俺は、笑っていた。

 だって、この瞬間、彼女は生きているんだ。

 なら、この一瞬一瞬をずっと守り続けていくしかない。

 鏡の中の俺は、涙を流しながら、笑っていた。 


「スグロ先輩」

 トイレを出た俺は、小声で呼び止められた。

 リンコくんだった。

「大丈夫ですか。顔、真っ青ですよ」

「ああ」

 俺は無意識に自分の頬に手をやった。

「大丈夫。たぶん危機は脱したと思う」

「今、ノリちゃんがイサミちゃんを見張ってます」

 リンコくんとノリちゃんには、図書館の離れた場所から、ずっと俺たちを見ていてくれるように頼んでいた。そして、ふたりはきちんとその役割を果たしてくれていた。

「悪いけど、あともう少しだけ付き合って」

 血の気の引いた俺の顔に気圧されたのか、リンコくんは無言でこくりと頷いた。


「先輩、本当に大丈夫なんですか?」

 席に戻った俺に、イサミが小声でたずねた。

「うん」

「お腹が痛いんじゃ……。あの、もしかして、さっきのお弁当……」

「いやいや、違うよ。ちょっと小説のコーナー見てただけ」

「なんだ。もう、真面目にやってくださいよ」

「ごめん、ごめん」

 なんとかごまかせたか。

 そのあとも俺たちは作業を続け、三時頃、一区切りついたところで図書館を出ることにした。

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