#16 ひとつだけいえることは

 図書館に着いた俺たちは、さっそく作業に取り掛かった。

 イサミに事前に伝えていた課題は、「これまでの人類の歴史から、百年先の世界を予測すること」である。

 とにかく、壮大なテーマのほうが、時間がつぶれやすいと思ったのだが、さすがにこれではあまりにも範囲が広すぎるため、何らかの切り口を設定して絞り込まなければならかった。まず、それをイサミと相談し、結局、人類の争いの歴史についてまとめることにした。それでも広すぎるため、産業革命以降、近代に入ってからの出来事に限定した。 

 当然のことだが、一九八七年にはインターネットは存在していない。だから俺たちは本しか頼るものがない。それは想像以上に骨が折れる作業だった。

 しかし、イサミは没頭した。

 俺は、歴史書から部分的に抜粋してノートにまとめればそれで終わり、と思っていたのだが、イサミはそれだけでは飽き足らず、ひとつの事件にまつわる背景を芋づる式に引っ張り出し、参考となる書籍のタイトルと該当箇所をどんどんノートに書き連ねていった。それをあとで俺が改めて調べることになっている。

 俺たちは図書館の大きな机の端に数冊の本を広げて向かい合って座り、黙々と作業を続けた。

 時間はあっという間に進み、気が付くと正午を迎えていた。

 俺たちは昼休みを取ることにした。

 図書館には中庭があって、いくつかベンチが置かれている。

 そこでお昼ご飯を食べることにした。

 外に出るのは少し抵抗があったが、ここで何かが起きるとは思えない。

 俺たちは並んでベンチに座った。

 二月とは思えない暖かな陽射しが、中庭に植えられた木々に降り注いでいる。一足先に春が来たかのようだった。

 イサミの作ったお弁当はなかなかのものだった。ほとんど母親に作ってもらったと謙遜していたが、彼女のことだ、納得のいくまでかなりの部分を自分で作ったのだろう。

 豚肉の生姜焼きと、豆の煮もの、玉子焼き、レンコンのきんぴら、ポテトサラダとおにぎり。オーソドックスだけど、どれもおいしかった。

 幸せだ、と思った。

 こんなふうに幸せだと思ったのは何年ぶりだろう。

 おにぎりをほおばりながら、俺はなんだか泣きそうになってきた。

 俺が泣いてどうするんだよ。

 イサミが携帯用ボトルから熱いお茶をカップに入れて俺に渡してくれた。

 ふうふうとお茶を冷ましながら、俺は涙をこらえた。

 俺たちはあっという間にお弁当を平らげてしまった。

「ごちそうさまでした」

 と俺がいうと、「どういたしまして」とイサミは俺のほうを見ずに、答えた。


 自販機で買ったカップのコーヒーを飲みながら――部室のコーヒーのおかげでふたりともブラックだ――俺たちは中庭の景色を眺めていた。

「先輩」

 と、イサミが口を開いた。

「人間は、殺し合いと破壊と汚染の歴史しか残していません」

 イサミらしい見解に俺は思わず頷きそうになったが、ここはあえて反論することにした。

「でも、最初は何もなかったんだ。何もない状態から、無から、人間はここまで文明を築いた。それはすごいことだと思わないか」

「その長い歴史の中で、これまで何度も同じ過ちを繰り返してきたのに、一向に改善が見られません。それは、人間にはどうしようもない欠陥があるという証拠ではないですか」

「これまではそうだった。でも、これから先のことは誰にもわからない」

「本当にそう思いますか」

「思うよ。先のことは誰にもわからない」

「でも、人間にはどうしようもない負の部分があるのは事実です」

「うん。人間とはそういうものだよ」

「でも、そういい切ってしまったら、それは変化に対する放棄です」

「仮にもし、人間から負の部分がなくなってしまったら、それはもはや人間とは呼べなくなるんじゃないかな」

「それのどこがいけないんですか」

「え?」

「人間でなくなることが悪いことなんでしょうか。人間でなくなったら、それはいったい何ですか。あくまでも、人間であることにこだわらなければならないんでしょうか。もしも、それが正しい在り方であるならば、人間かどうかということに、一体どれほどの価値があるのでしょうか」

 イサミらしい問いだ。

 だけど、残念ながらその問いに対する答えを俺は持ち合わせてはいない。

 ただ、ひとつだけいえることは、俺たちは人間をやめることはできないということだ。

 俺は、手に持っていた空の紙コップをくしゃっとつぶした。

「すみません。変なこといっちゃいました」

「いや。決して変じゃない。ただ、君くらいの歳の女の子でそんなことを考えている子はほとんどいないというだけで」

 イサミは恥ずかしそうにうつむいた。

「君の疑問はまっとうだよ。いつか君の疑問にきちんと答えてあげられるようになればいいんだけど」

 俺はイサミに手を差し伸べた。

 イサミから紙コップを受け取り、自分の紙コップの残骸を入れると、俺は立ち上がった。

 再び席に着いたのが十二時五十五分。

 問題の時刻まであと四十分。

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