#7 ブラジルの蝶の羽ばたきは

 向こうゆっくりと歩いているように見えるのに、必死で走っている俺との距離はなぜかちっとも縮まらず、校舎裏の狭い路地で、俺はようやくポーカーフェイスに追いついた。膝に手を付き弾む息を整えながら、平然と腕を組んで立っている少年に視線を向けた。  

「どういうことだ、ポーカーフェイス」

「驚いた。そこまで覚えているなんて」

「全部覚えてる。というか、さっき全部思い出した。俺が死ぬ前のことも、踊り場でのことも全部。そのへんの記憶はすべてなくしてしまっているはずじゃなかったのか」

「そのはずなんだけど。どうやら因果律が揺らいでいるみたいだ。とりあえず修正させてもらうよ」

 ポーカーフェイスがゆっくりと近づいてくる。

「待ってくれ。お前に聞きたいことが――」

「だめだよ」

 首を振るポーカーフェイスが俺に向かって右手を伸ばそうとしたその時、そいつが空から降ってきた。

 頭上を確認していたわけではないが、状況から判断すると空から降ってきた、としかいいようがない。

 突然俺の目の前に一匹の獣が降ってきて、音もなく着地した。

 なんでいきなり犬が落ちてくるんだ。

 犬?

 一瞬そう思ったが、犬と呼ぶにはなんとなく野生的すぎるというか、どちらかというとコヨーテとか狼とか、そういうほうがしっくりくるような――そうか、狼か。

 実物を見たことはないが、これはたぶん狼だ。

 狼は俺をかばうような格好でポーカーフェイスに対峙していた。

「どういうこと?」

 ポーカーフェイスは顔色ひとつ変えず、狼に話かけている。

 知り合いか、こいつら。

 狼はポーカーフェイスのそばに座り、じっと彼を見上げている。どうやら何がしかの意思疎通が行われているようだ。その証拠に、ときおりポーカーフェイスが、なるほどといいながらうなずいている。

「事情はわかった。でも、それってあまりにもその子の願いを拡大解釈しすぎてないかな」

 そのポーカーフェイスの言葉に狼は首を振り、こちらを向いた。両目が金色に輝いている。こいつもどうやらポーカーフェイスの同類らしい。

「まあ、そこまでいうんなら仕方がない。助かったね、あなたの記憶は消さなくてもよくなった」

 ポーカーフェイスはそういって俺を見た。相変わらずの無表情だ。

「そ、そうか。なんかよくわからないが、ありがとう」

 狼がポーカーフェイスを見上げる。

「礼はあの子にいってくれってさ。じゃあ、僕たちはもう行かなくちゃ」

 あの子っていったい誰のことだ。でも、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

「ちょっと待ってくれ。ひとつだけ、教えてほしいんだ。踊り場でお前はいってたよな。過去を変えることは不可能ではないけど、人の生死にかかわる出来事を変えることは難しいって」

 俺に背を向けようとしていたポーカーフェイスは俺を振り返ってうなずいた。

「うん」

「どうすれば変えられるんだ。どうすればイサミの死を回避できる」

「そんなの僕たちにもわからないよ」

 俺はがっくりとアスファルトに膝をついた。うなだれる俺にポーカーフェイスは言葉を続けた。

「それぞれの『ワラムクルゥ』での事象には一定の弾力性がある。だから少々出来事が変わってもどこかで修正がかかって最終的には同じ結果に落ち着いてしまうんだ。ただ、あなたがこれまでに行った小さな出来事の改変は全く意味がないというわけでもないよ」

「どういうことだ」

「あるささいな出来事の変化が、遠く離れた場所の全く関係のない出来事に大きな影響を与えることがある」

 それなら知ってる。SFの定番ネタだ。ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こす。

「バタフライ効果だな」

「あなたたちはそう呼んでいるね。関連する要素があまりにも不確実かつ複雑すぎてどの出来事の変化がどのような結果をもたらすのかを予測することは不可能だけど」

 いわゆる複雑系というやつだ。

「ただし、小さな出来事の変化をたくさん積み重ねることで大きなうねりを生み出すことはできる。理論上はその影響の範囲は計り知れないけど、実際にはあなたが起こした出来事の変化はあなたの周囲への影響が中心になるはず」

「ということはつまり、俺がやったコミヤマのような事例を積み重ねていけば、俺の周りで大きな変化をもたらす可能性があるということか」

「可能性はある。特にあなたがやったような人間関係に変化をもたらす行動は結構いい線いってると思うよ」

「じゃあ――」

「ただし、それだけではだめだ。今からとても重要なことをいうよ。その人の運命を変えるためには、その人の意思が変わらなければならない。運命を変えることができるのは、そうしたいと願う意思を強く持っている者だけ。周りの環境がどれだけ変わろうとも、その人自身にしかその人の運命を変えることはできない」

 それは、無理だ。

 だって、イサミは――。

「イサミは事故に遭ったんだ。それは彼女の意思じゃない。不可抗力だ。いったいどうすれば――」

「僕たちからいえるのはこれだけだよ。あとは自分でなんとかするんだね。幸運を祈ってる」

 ポーカーフェイスと狼は俺に背を向けると、一瞬で姿を消した。

 俺はただ呆然と、ひとり路上に取り残された。

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