#5 本棚の影に潜むのは

 それから三日後、ノリちゃんの靴箱の中に、『マスター』からのメッセージが届いていた。

 ――今日の放課後 図書室 2H103

 四つに折りたたまれた紙にはそう書かれていた。

 私たちは教室でお昼ゴハンを食べながら、話し合った。

「どうする?」

 リンコが私を見た。

「どうするって……」

 私はノリちゃんを見た。

「行く」

 どうやらノリちゃんは本気みたいだ。

「だよね。ここまで来たんだから、行くっきゃないよね。でも、この2H103ってなんだろう」

「これ、本の番号じゃないかな」

 私はよく図書室を利用する。図書室の本の背には分類のための番号が振ってあって、確かこんなふうに数字とアルファベットが書かれていたはずだ。

「そうか。さすがイサミ」

「じゃあ、図書室の、この番号の本の中に次の指示が入っているのかな」

「うん、きっとそうだよ、ノリちゃん」

 私は、掲示板の前で会った人のことはふたりには黙っていた。なんとなく話さないほうがいいような気がしたから。

 あの人が『マスター』なんだろうか。

 気が動転していて、名札の色も上履きの色も憶えてない。雰囲気からすると、二年生か三年生のようだった。とても大人びた感じの人だった。

「どうしたの、イサミ。ぼーっとして」

 リンコが私の顔を覗き込んだ。

「ううん、なんでもない」

「じゃあ、いよいよ『マスター』と対決といきましょうか」


 放課後、私たちは図書室に向かった。

 公立高校にしては、うちの学校の図書室は立派だった。もったいないことに、利用する人はほとんどいない。いつもひっそりとしていて、私が学校の中で最も好きな場所だ。

 図書室が開いているのは夕方五時まで。それまで図書委員が図書の貸し出しや返却に対応している。閉まるまでまだ一時間近くある。

 その日の図書委員は眼鏡をかけた長い髪の女子生徒だった。彼女が受付に座っているほかは、誰もいない。これならゆっくり探せそうだ。私はリンコに話しかけようとして、彼女が入り口で立ち止まっていることに気がついた。振り返って私は彼女に近づいた。

「どうしたの」

「ごめん、ごめん。ちょっと考え事」

「大丈夫? なんだか顔が赤いけど。熱でもあるんじゃない」

「平気、平気。さあ、探そう、探そう」

 そういって、リンコは本棚に向かった。

 私たちは背表紙に貼ってある番号を見ながら、目当ての本を探した。どうやらその本は、自然科学の棚にあるようだ。

「1H……2H……あった」

 リンコが2H103のシールが貼られた本を棚から取り出した。タイトルは『沈黙の春』。いつか読みたいと思っていた本だ。本を開いてページをめくると、ちょうど真ん中ぐらいにふたつ折りにした紙がはさんであった。私たちは顔を寄せ合って、リンコの手の中の紙を覗き込んだ。

『うしろを振り向くな』

 紙にはひとこと、そう書かれていた。

 とっさに振り返ろうとしたリンコの腕を、私はつかんだ。

 人間というものは、振り向くなといわれたら思わず振り向きそうになるものだ。

「檜山典子さん」

 私たちの背後、本棚の向こう側から、男の人の声がした。私たちの体は固まってしまった。

「は、はい」

 びくっと体を震わせて、ノリちゃんが答えた。

 私は横目でちらっと本棚を見た。本の隙間からわずかに向こう側が覗ける。でも、黒い詰襟の首元のあたりしか見えなかった。

「悪いけど、会うのは本人だけだよ」

 本棚の向こうから届く声はとても静かで大人びていた。

「あ、あの……」

 口を開こうとしたノリちゃんを制して、リンコが断固とした口調で告げた。

「あのねぇ、女の子がひとりでのこのこと得体の知れない奴と会うとでも思ってるの? 会うのはこの三人よ」

 ノリちゃんは、はらはらしながらリンコを見ている。私はゆっくりと視線を動かして胸の名札を見ようとした。本が邪魔をしてどうしても視界に入らない。ふっ、とその場の空気が緩んだ。なんとなく、見えない相手が微笑んだような気がした。

「わかった。そちらのいうことはもっともだ。もしよかったら、おふたりの名前をうかがえるかな」

「一年三組、小川鈴子」

 きっぱりとリンコが名乗った。彼女は臆することなく、完全に背後の本棚のほうを向いている。身勝手で調子のいいところもあるけれど、私はリンコのこういうところが好きなのだ。

「同じく、加久矢勇美」

 続けて私も名乗った。

「ありがとう。申し訳ないけど、こちらの名前はあとで名乗らせてもらうよ。十分後に文化会部室棟のSF研究部まで来て。では、のちほど」

 本棚の向こうの生徒は、そういい残すと出口に向かって歩き出した。この場所からだと彼の姿は出口までもう見えない。今から追いかければ、もちろん姿を確認できる。まあ、十分後に会うことになるんだから、そんな必要はないだろうけど。

 やがて扉が開いて、閉まる音がした。

「どう思う?」

 リンコが私を見た。

「一応まともそう……な感じはする」

 私は正直に答えた。リンコがうなずく。

「SF研究部の人なのかな」

 ノリちゃんが首をかしげている。

「それは今から八分後にわかる。行こう」

 いつの間にか受付にいた女の人の姿がない。私たちは出口に向かった。扉を開くと、そこに立て札のようなものが立てられている。入り口のほうに回りこむと、そこには『書棚の整理中 しばらくお待ちください』と書かれた紙が貼ってあった。

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