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◇
身支度を整え、矢吹君に自宅まで送ってもらった。
数時間前の私達と、今の私達は心の距離感が違う。
今日一日の出来事が、夢の中の出来事みたいに感じられ、現実とは思えない自分がいる。
私の隣でハンドルを握り、微笑んでいる矢吹君。その薬指にはペアリング……。
自宅の前に車を停め、「また電話するよ」と、矢吹君は私にキスをした。
心がジンと痺れるほどの……
優しいキスだった。
今日一日で、何回キスをしたんだろう。
もう一年分、キスをした気がする。
幸せ過ぎて、私、このまま死んじゃってもいいくらい満たされている。
「じゃあな。おやすみ」
「……おやすみなさい」
私は車を降り、矢吹君の車を見送る。
自然と頬が緩み、ニヤニヤと口元が躍る。
玄関を開けると、いつものようにかめなしさんが私を待っていた。
『つーか!優香!今、何時だと思ってんだよっ!』
帰宅早々、両親ではなく猫に怒鳴られた。
「今?えっと……午後十一時過ぎ?」
『年頃の娘が、こんな時間まで何をしてたんだよ!事故にでも遭ったんじゃないか、犯罪に巻き込まれたんじゃないかって、俺がどれだけ心配したか!』
やだ、大袈裟だな。
「私は社会人だよ?大人なんだから、何がいけないの」
『開き直るのか。今まで一人で何やってたんだよ。美子は夕方には帰ってたぞ』
美子の帰宅時間までチェックしてるの?
猫って、本当に暇なんだな。
「うざいよ。かめなしさんには関係ないでしょう」
私はかめなしさんの横をスッと通り過ぎた。
『うわっ!お前、風呂入っただろ』
「……へっ?」
私は焦りを隠せない。
かめなしさんに背を向け、自分の手や髪をクンクン匂う。
『家のボディソープやシャンプーとは違う匂いがする』
「……あはは、気のせいだよ。そうそうママが新発売のシャンプーに変えたんだ」
『見え透いた嘘をつくな。猫の嗅覚を馬鹿にするな。優香……まさか男と!?うおぉぉ―…まさかぁ――!?』
かめなしさんは頭を両手で押さえ、『ぎゃあーー!!』と断末魔の叫び声をあげた。
「……バッカじゃないの」
まるで興信所の探偵みたいだ。
ボディソープやシャンプーの匂いで、私の秘密に勘付くなんて、恐るべし猫の嗅覚。
絵画のムンクの叫びみたいに固まっているかめなしさんを無視して、私は二階へ駆け上がった。
『俺の優香が……浮気したぁ…… 』
かめなしさんの悲壮感漂う叫び声が、階下で響いた。
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