第五章 離別

1.組み紐

 ドラゴルノフの採掘場を発つ前、私は一人で長老を訪ねた。

「お世話になりました、長老」

「おお。そうか、今日発たれるのじゃったな」

「あの、お伺いしたいことがあって」

「ふむ。まあ、お座りになってくだされ」

 長老の家の中は、採掘場のほかの家と同様とても質素だった。部屋に置かれている必要最低限の道具はどれも使い込まれている。そんな空間が、私にはとても豊かなものに感じられた。

 私と長老は小さな木製のテーブルをはさんで座った。

「さて。わしに分かることであればよいのじゃが」

「この世界の理について、です」

「ふむ。エレ殿はどこまで聞き及んでおられる」

「かつてこの世界には女性だけしかいなった。女性が単独で子供を産む、戦争のない世界。でも、その世界の人間は病気に対する抵抗力が弱かった。そのせいで女性たちは何度も滅びかけている。やがて千年前、もう一つの性、男性が現れる。たぶん、男性が現れたおかげで、女性は滅亡の危機を免れている。その代り、世界は争いに覆われてしまった」

 私はそこで言葉を切った。

「さすが、よくご存じじゃ。わしから付け加えるようなことはないようですが」

「本当に、男性の出現によって女性は助けられたのでしょうか」

 長老は目を閉じて、しばらく考えをまとめてからいった。

「これは昔、医術に秀でた者から聞いた話じゃ。事の真偽はわかりませんぞ」

「はい」

「わしら人間の体には、先祖から伝わった知識のようなものが組み込まれております。わしらを人間たらしめる重要なもの。それが四十六本の組み紐ですじゃ。女性が一人で子供を産むとき、この四十六本の組み紐はそっくりそのまま子供に伝わりまする。病とは、組み紐をほどく針のようなもの。ずっと同じ組み紐だと、病はいずれほどきかたを学ぶでしょう。そうなると、人間は簡単に病にかかってしまう」

 四十六本の組み紐――。私は気付いた。染色体のことだ。確か、人間の染色体は四十六本のはず。

「男性と女性が子供を作る場合、お互いの四十六本の組み紐から半分ずつ、二十三本を持ち寄って子供に伝えるそうですじゃ。男性から二十三本、女性から二十三本、合計四十六本。そうやって組み紐の組み合わせを子供を作るたびに変えることで、我々は病からほどかれにくくしておるのです」

 男性と女性による生殖は、減数分裂して二十三本になった互いの染色体が結合し、再び四十六本になる。それが有性生殖だ。

 そこまでは知識としては知っていた。でも、なぜ性が二つ必要なのか、その理由まで私は知らなかった。もしかしたら、生物の授業で習ったのかもしれないけど、そんなものはとっくの昔に忘れ去ってしまっている。

 長老の説明によると、男性と女性の二つの性があるのは、染色体の組み合わせを変化させることで細菌などの病原体から種を守るため、ということだ。

 それに対し、女性だけの単性生殖は四十六本の染色体がそのまま子供に伝わる。つまり、クローンだ。でもそれだと、遺伝子に多様性がなくなり、外部環境からの攻撃に弱くなってしまうのだろう。

「わかりました、長老。ありがとうございました」

 今の話の真偽を確認する術を、残念ながら私は持ち合わせていない。でも、バイロンが話してくれた内容とも一致する。

「私たち三国同盟は『冠』への対抗で団結しています。それは本当なのですが、一方で私たちは、再び女性だけの世界に戻すことを真の目的としています」

「『楔の竜』の封印を解かれたということは、あたなにはその資格が備わっておるということですじゃ。それに、男性中心の思想で国を動かしている『冠』と事を構えなければならないのは同じではないですかの」

「確かに。ただ、先ほどのお話を聞いていて、不安になりました。もしも女性だけの世界になったら、いずれまた種としての存続が危ぶまれる事態になって、男性の出現を促してしまうのではないでしょうか。そうなればまた同じことの繰り返しです」

 長老はゆっくりと首を振った。

「いいや、エレ殿。わしはそうは思わんですじゃ」

「どうしてです」

「かつての、千年前の状況と、今とでは大きく違っていることがあるからです」

 大きく違っていること――。

「人間は、昔に比べるとずいぶんと長生きになったものですじゃ。それは男性の出現によるものだけではないのですよ」

 私は不意に、五カ国連絡会議前日のペルルコンの言葉を思い出していた。

 ――もともとはウィルスや細菌、寄生虫といった病原体に対して耐性を持ったり、環境を変化させて絶滅させたりするための力だったのです。

 ――人々がそれを使えるようになってまだ五百年です。

 私は思わず声を上げた。

「そうか」

 魔法か。


 この世界に来てしばらく、疑問に思っていたことがあった。

 この世界の文明は、元の世界でいうと中世ヨーロッパのレベルだ。人々の暮らしぶりは産業革命以前、せいぜい十五、十六世紀といったところだろう。私はあまり歴史に詳しいほうではないけれど、当時のヨーロッパはペストの流行に代表されるように、衛生的には決して良い環境ではなかったはずだ。

 でも、意外なことに『風』の城の中はとても清潔だった。ネズミ一匹、ゴキブリ一匹見かけなかった。 

 置かれている状況の特異さに比べればそれは些細なことのようだけど、この世界での暮らしに慣れ始めてきた頃の私にとって、衛生環境は常に気になる事柄だった。

 今の私の体はこの世界で生きてきたエレのものだから、そういった問題で体を壊すようなことはないとわかってはいても、精神衛生上どうしても無視できなかった。海外では決してミネラルウォーターを手放せない習慣は思ったよりも深く自分に根を下ろしていたのだ。

 でも、結局その心配は杞憂に終わった。城で飲む水は硬水独特の飲みにくさがあるにしても、とてもおいしかった。水や食べ物に違和感や不快感を持ったことは一度もなかった。

 やがて、私はその理由を知った。

 私がこの世界に来た次の日、初めてペルルコンの館に向かう途中で、池のほとりにたたずむ白いマントの女性を見かけた。それ以降も、城の中で白いマント姿の人たちをよく見かけるようになった。彼らはたいてい水のある場所や食べ物のある場所にいた。

「彼らは『清廉なる白き人』と呼ばれています」

 以前、白マントの人たちのことを尋ねた私にペルルコンが教えてくれた。

「飲料水や食料をできるだけ清潔に保つようにしているんです。主に殺菌や除菌を行っています。害虫の駆除なども彼らの仕事です」

「そうか。ペル、前にいってたもんね。魔法はもともとはウィルスなんかの病原体への対抗策として使われていたって」

 ペルルコンは少し意外そうな顔をした。

「よく覚えていますね」

「まあね」

「これはあくまでもいい伝えですが」

 そう前置きしてからペルルコンは続けた。

「五百年前、この世界を病魔が襲いました。男性も女性も、たくさんの命が失われました。あまりにも伝染のスピードが速かったため、『楔の竜』は対処療法として人間に魔法をもたらしたのです。魔法で病原体を駆逐することで人間は生き延びた、そう伝えられています」

 なるほど、そういうことか。

「そして、魔法はいつの間にか戦争の道具として使われるようになった、ということね」

「ええ、その通りです」


 長老が私の表情を見て、うなずいている。

 確かに、魔法がある今、女性の単性生殖による病原体に対する脆弱さは改善されているといっていいのだろう。

 でも。

 魔法がある今、再び女性だけの世界になったとしても、戦争を起こす余裕すらないような切迫した状態にはならないということだ。

 女性だけの時代の平和が、病に対する脆弱性に起因していたのなら、魔法によって病に対する対抗措置が確立してしまった今、女性だけの世界になったとしても戦争がなくなる保証はどこにもない。

 それで私たちは――私たち女性は本当に戦争をなくすことができるのだろうか。

 わからない。

 とにかくレーンたちに知らせなければ。女性だけの時代に争いがなかった本当の理由を。

 いや。

 レーンたちも知っているんだ。こんな基本的なことに彼らが気付かないはずがない。それを知ったうえで、女性だけの時代に望みをかけようとしているんだ。

 なら、私はどうすればいい?

「長老。もしも今、再び女性だけの世界になったとして、その世界はどんな世界になるんでしょうか」

 長老は微笑んで、首を振った。

「それはおそらく誰にもわからないのではないかの」

「……そうですね」

 そうだ。そんなこと聞くまでもない。誰にもわかりっこないんだ。

 うなだれた私に長老が尋ねた。

「なあ、エレ殿。わしにもひとつ、教えてほしことがあるんじゃが」

「はい。なんでしょう」

「あんたは別の世界からこの世界に来なさった」

「はい」

「あんたの世界とわしらの世界、ふたつの世界がある、ということじゃな」

「そうです」

「はたして、それだけじゃろうか」

 それだけ?

「あんたの世界とわしらの世界、世界はそのふたつだけなんじゃろうか」

 私は答えに窮した。

「つまり長老は、ほかにももっとたくさんの世界があるんじゃないかとおっしゃりたいんですか」

 長老はうなずいた。

「少なくともふたつの世界が存在しておる。では、みっつ、よっつ、さらにそれ以上の世界がないとは誰にもいい切れまい」

「それは……確かにそうですが」

 だとしたら?

「だとしたら……」

 沈黙が降りた。ジジジジ……と魔力片の灯りの燃える音が耳についた。

 やがて長老はまたゆっくりと首を振った。

「あんたは、自分の判断や行動がこの世界にどんな影響を与えるのかがわからず、苦しんでおる。じゃがそれは無数に存在している可能性のうちのたったひとつでしかないかもしれん。まあ、仮にそうだとしても、あんたがどうすべきか、それはわしにもわからんがの」

 そこから先は自分で考えろということか。

 私はうなずいた。

「わかりました。考えてみます」

 長老は微笑んだ。

「考えなされ。それはとても苦しいことじゃがの」

 私も微笑んだ。

「それが『開く者』の定めですから」


 私は一足先にバイロンに乗って城に帰ることになった。十一月に入っていて、上空は風が冷たい。『風』の領地に入ってしばらくすると、大きな声が響きわたった。

「そこの竜、止まりなさい!」

 突然、私たちの周りに竜巻のような空気の渦が巻き起こり、行く手を阻まれてしまった。

「なによこれ!」

「かなりの上級魔法だな。ひとまず降りるしかあるまい」

 私たちが着地すると、上空から一頭のワイバーンがそばに降りてきた。

 ワイバーンはレンで、乗っていたのはシャロンだった。

「エレ!」

 シャロンはレンから降りてこちらに走ってきた。

 あわててバイロンから飛び降りると、シャロンは私の手をぎゅっと握った。

「お帰りなさい! そんな格好をしてるからわからなかった」

 いわれてみれば……と私は自分の格好を見下ろした。採掘場の作業着の上に、アキムから借りたフード付きの上着をはおり、フードを被っていたのだ。

「そっか。ごめん、ごめん。竜に乗るようになったの?」

「うん。レンを借りちゃった。国境の監視員から狼煙が上がったから、見に来たの」

「さっきの魔法も、あなた?」

「ここひと月ですごく上達したのよ。まだまだマスターには程遠いけど。あの……もしかして、そちらは『楔の竜』?」

「そうよ。封印が解けたの。シャロン、こちらは、『楔の竜』のバイロンよ。バイロン、こちらは『風が生まれる国』の魔術師、シャロン」

「よろしく、お嬢さん」

 バイロンはシャロンの手もとに首を伸ばした。シャロンがバイロンの額に手を置く。

「よろしく、だって」

「すごい。本当に『楔の竜』と話せるんだね。こちらこそよろしくね。バイロン」

 バイロンはシャロンの体に頭をぐりぐりと押し付けた。シャロンはくすぐったそうに笑っている。

「なによ、私のときとずいぶん対応が違うじゃない。彼女とは同じ歳なのに」

「ふん、ワタシは人間とはものの見え方が違うのだ。お前の実年齢くらいとっくにわかっているぞ」

 げっ。なんてやつ。

「そうだ。こんなことしてる場合じゃなかったんだ。エレ、このまま『土』と『冠』の国境まで飛べる?」

 私はバイロンに大まかな位置を教えた。余裕だ、とバイロンは答えた。

「大丈夫みたい」

「そこに宰相やレーンさんたちがいるの。『冠』が国境近辺に騎士隊を配置して、とうとうこちらに攻め込むつもりみたい」

 そんなことになっていたとは。私はうなずいた。

「わかった」

「エレたちだけだと攻撃されちゃうから、私が先導します。行きましょう」

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