第49話 天下布武の大義のために

 野田城を脱出した俺たちは、岐阜城に戻り、信長に信玄暗殺の成功を報告した。


「でかした、山田! ようやった、藤吉郎!」


 信長は、喜悦そのものといった表情で俺たちを褒め称えた。

 もちろん、俺と藤吉郎以外の織田家家臣団についても「大義であった!」と激賞したのだが、信長がこれほどまでに喜んでいる顔は、初めて見た。信玄の死が、よほど嬉しかったのだろう。


「殿様、信玄の死は、まだ諸国に知れ渡ってはおりませぬ。当家に敷かれている包囲網を突き破るために、まずは信玄の死を大々的に触れ回るのが得策かと!」


「藤吉郎、そちに言われるまでもないわ。信長、左様なことくらいは考えておる!」


「はっ、ごもっとも!」


「蜂楽屋!」


 信長が声をあげると、「はいっ!」と聞き覚えのある声がして、隣室からカンナが入ってきた。


「カンナ!」


「弥五郎、伊与、お帰りっ。お役目、お疲れ様やったね」


「蜂楽屋、おしゃべりはあとに致せ。よいか、ただちに神砲衆の人脈と、商人どもの座を通じて、諸国に信玄入道の死を知らせるのだ」


「はいっ。お任せくださいませ!」


 カンナは、その場で一度、平伏すると、チラッと俺に目配せをしてから、部屋を出ていった。

 信長は即座の仕事を好む。特に今回のような急ぎのときは、なおさらだ。カンナは俺や伊与との交流を後回しにして、仕事に動いたのだ。それでいい。話はすべてが終わってからで充分だ。


「藤吉郎は小一郎と共に横山城に戻り、浅井への対策を行え。竹中半兵衛は、よく養生せよ。――他の者は本来の役目に戻り、次の沙汰を待て。よいな!」


「「「ははっ!!」」」


 信長の指示を受け、俺たちは全員、その場で平伏した。




 信玄死す!

 信玄死す!!

 武田信玄、鉄砲にて暗殺される!!


 その情報は、諸国までいっぺんに知れ渡り、信長包囲網を形成している諸勢力をおおいに混乱させた。石山本願寺、三好家の残党、浅井氏、朝倉氏――武田信玄の死は、それほど多くの影響を世間に与えたのだ。


「殺されたのは我が主にあらず、影武者である」


 武田軍は、そう主張した。

 信玄の死が世間に知られたら、武田軍全体が瓦解してしまう恐れがあるからだ。

 だから、信玄が殺されたことを隠すために、武田軍はなお野田城を攻め続けた。


 さらに武田軍は、朝倉義景に向けて、織田家に向けた出兵を要請するなど、なお信玄の健在を示そうとする。だが朝倉義景は、慎重だった。動かなかった。武田軍はさらに焦り、野田城を攻める。


 結果として、野田城は攻め落とされてしまったが、これは想定の範囲内だ。

 野田城を守る菅沼定盈さんも、城の兵士たちも、最終的には徳川家に戻ってくることを俺は知っている。


 武田軍は焦りに焦っていた。

 その焦りが伝わったのか、浅井も朝倉も本願寺も、どうも動きが悪い。

 本願寺などは、このころ、武田軍に向けて「北陸の一向一揆が、上杉謙信を相手に苦戦している。武田軍からも援軍を差し向けてほしい」と手紙を送っている。まるで、武田軍に余力があるかどうかを試すように……。


 包囲網、破れたり。

 織田家の面々はそのことを実感し始めていた。

 ところがこのころ、ただひとり、世間の空気を読めなかった男がいる。


 将軍、足利義昭である。




「信玄死すなど、虚報よ。困り果てた信長が、ウソの情報を世間に触れ回っているのだ」


 足利義昭は、そう判断した。


「つい先月も、信長は噂をまき散らしたではないか。『三河、尾張には、織田家の大軍団が控えている』という噂を。


 だがあれはウソだった。それほど信長は困っているのだ! あの尾張のうつけは、ひたすらウソを触れ回ってなんとかしようとしておる。こうなっては人間、おしまいよ。信長め、いよいよ天命尽きたと見えるわ!」


 ――三河、尾張には、織田家の大軍団が控えている。


 それは確かに、三方ヶ原の戦いのあと、武田家の動きを牽制するために、信長が流した虚報だった。

 その虚報を、足利義昭は虚報だと見抜いたわけだが、なまじ見抜いてしまったばかりに、二度目の情報――信玄死すという本当の情報さえも、ウソだと思い込んでしまったのだ。その結果、


「わしは挙兵するぞ!」


 義昭は、そう宣言した。


「信玄は来る。わしも立つ。そうすれば浅井も朝倉も本願寺も、さらに立ち上がり、織田家を討伐するに違いない。わしが信長を倒すのだ!」


 義昭のこの発言を、幕臣である細川藤孝は咎めた。


「恐れながら、織田どのは上様(義昭)を将軍の地位に引き上げてくれた、大恩人でございます。左様なことをなさっては、世間から恩知らずの誹りを受けまするぞ!」


「それがどうした。わしは足利将軍家の人間じゃ。将軍家に忠義を尽くすのは武家として当然のこと。信長は当然のことをしたまでじゃ。それをあの男は図に乗って、わしにあれこれと指示を致し、将軍家をないがしろにして主上(天皇家)と繋がりおった。やつは腹黒き佞臣ぞ。征夷大将軍が討伐するべき、悪であるぞっ!! ゆえに! ……わしは、立つっ!」


 義昭には、義昭なりの道理があった。

 だがこの道理を聞いた細川藤孝は、義昭をこのとき見限った。

 信玄が本当に死んだのかも分からない。浅井、朝倉、本願寺も、立ち上がってくれるかどうか分からない。そんな状況で、公然と織田家を敵に回すことがどうなるか、この将軍家はまるで分かっていない。


 つまり、現実が見えていないのだ。

 挙兵するのであれば、せめて武田軍が尾張に入ってからすればいいのに。

 それさえ我慢ができず、立ち上がるという。……この足利義昭は!




 細川藤孝は、義昭の御前を退出すると、信長に向けて手紙をしたためた。


「将軍家、挙兵。――細川家は、織田家に忠誠を尽くすものなり」


 家臣に見捨てられたこともつゆ知らず、2月13日、足利義昭は、挙兵した。




「公儀御逆心!?」


 細川藤孝から、義昭挙兵の一報を受けた信長は、しかし仰天した。

 信長は、信玄死すの情報を触れ回ることで、敵対者がその動きを止めると確信していた。

 事実、浅井、朝倉、本願寺は、情報が正しいかどうかを見極めるために、動きを一時停止させていたわけだが、――ここで信長に手向かってきたのは、なんとまさかの将軍家だったのだ。


「嘘であろう。それこそ、虚報であろう」


 岐阜城の一室。

 俺たち家臣団の前だというのに、信長はしばらくの間、義昭の挙兵を信じずに呆然としていた。

 確かに、昨年10月、信長は義昭に諫言をした。17条の意見書を提出した。信長と義昭の仲は極めて険悪であった。


 だがそれでも、義昭を将軍の座につけたのは自分だ。

 そんな自分に、まさか義昭が刃向かってくるとは、まさかそこまで恩知らずだったとは!


 後世、フィクションなどでは、信長は足利義昭を利用しようとしていたとされる。信長と義昭は、上洛以降、常に敵対関係だったようにさえ描かれる。だが信長と義昭の関係は、確かに上洛以降、たびたび険悪になってはいるが、この時期までは、完全なる敵対関係にはなっていないのだ。義昭が信長と交戦状態に入るのは、このときが最初なのだ。


「なんということじゃ。信玄入道を殺して、やっと山を越えたと思ったら、次は公方様が挙兵とは」


 信長は、確かに慌てていた。

 義昭個人の能力は、とるに足らない。

 だが征夷大将軍の座にいる義昭が、織田家を公の敵として認定したら、織田家はどうなるか。知れたものではない。


「将軍家は、なぜ余の考えを分かってくださらぬのか。将軍家が天下に君臨し、その下でこの信長が逆臣を討伐する。この形が、もっとも天下の静謐せいひつに繋がる。将軍家の繁栄にも繋がる。それがどうして、お分かりにならぬのか……」


「かくなる上は、まず公方様に和議の使者を出しましょうぞ。いま、公方様と喧嘩をするのはあまりにも分が悪うござる」


 丹羽長秀さんが言った。

 穏やかな口調である。信長は、小さくうなずき、その意見に従おうとした。

 そこへ意見したのは、――この俺であった。


「恐れながら、公方様には下手したでに出ても、恐らく逆効果と存じます」


「なに……?」


 信長は、細い目を吊り上げてこちらを見てきた。

 俺は、構わず続けた。


「大恩ある殿様(信長)に、このような仕打ちをする御所様でございます。ひたすらに頭を下げたところで、ますます図に乗って、織田家の領土に攻め入ってくるは必定かと」


「山田。公方様に対して言葉が過ぎようぞ」


 柴田勝家さんが、俺を厳しくたしなめる。

 だが俺は止まらない。ここで止めるわけにはいかないのだ。

 織田信長が、足利義昭を討伐するのが、本来の歴史であり、天下のためだ。俺はそう確信している。


「殿様が17条の意見書を出したように、公方様は決して、良き公方様ではございませぬ。あしき公方様なれば、洛中の民も困り果てております!


 事実、我が神砲衆も公方様の手で5000貫を超える金子きんすを差し押さえられてしまいました。公方様のご政道の下では、かようなことがまかり通ってしまうのでございます。それは殿様の考える静謐とは、ほど遠い天下なのではございませぬか!?」


 権力のもとに、あるいは暴力のもとに、弱者が踏みにじられる世界であってはならない。

 俺は心からそう思っている。前世の辛い人生と、大樹村の焼き討ちを経験した俺は、本当に――


「……余を、将軍家への逆臣としたいか、山田」


「殿様! 天下布武の大義のために、ご決断を!」


「…………」


 信長は、しばし黙り込んだ。

 その場にいた、柴田さん、丹羽さん、さらに前田利家や佐々成政も、無言である。

 だが無言は、この場合、賛同の意思を示していた。


 すなわち。

 織田家は足利将軍家と敵対することを選ぶと。


「権六」


 信長は、柴田さんに目を向けた。

 はっ、と柴田さんは小さく返事をした。


「いくさ支度をせよ。出陣する。……敵は、将軍家、足利義昭なり!」


 その一言を聞いて、おお、と織田家の面々は声をあげた。

 俺もである。ひときわ大きく、声を張り上げた。

 この場所に、藤吉郎がいないのが惜しいと思った。

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