第55話 俺は弥五郎
「伊与、しっかりしろ、伊与!」
「弥五郎、とにかくあそこにある丘の上まで連れていくで」
「よし、オレっちも手伝ってやる」
藤吉郎さんと前田さん。
ふたりは、伊与を担ぐのを手伝ってくれた。
「しかしこいつ、女のくせに恐ろしく強かったなぁ」
前田さんは、感心したように言った。
「腕力は大したことねえが、とにかく早かった。よっぽど稽古したんだな」
「…………」
伊与が、刀の稽古を……?
確かに彼女は相撲が強かったし、運動神経もよかった。
しかし刀まで使えたかというと……。ひとりで
大樹村の悲劇から、約9か月。
お前になにがあったんだ? 伊与……。
それから俺は、仲間たちと共に伊与を津島まで運んだ。
藤吉郎さんと前田さんは、織田軍に再合流したので、そこで別れた。
大橋屋敷に伊与を運び、大橋家お抱えの薬師(医者)に診せたが、伊与は気を失っているだけで、とりあえず身体に怪我や異常はなさそうだ、とのことだった。
ホッとした俺は――
しかしそれでもその夜は、ずっと伊与の側にいた。
彼女が、生きてここにいる。それがなによりも嬉しかった。
やがて。
空が明るくなりはじめたころ――
「……やご、ろう……?」
彼女はうっすらと目を開けた。
「弥五郎。……いるのか……?」
幼児のような、あどけない声だった。
「いるよ。ここにいる。起きたのか、伊与」
「…………」
「まだ夜だ。寝てろ。……話はこれからいくらでもできるんだから」
「……弥五郎。…………」
伊与は、まだ体調が万全でないのか、蒼白い顔をしている。
しかし瞳の色は確かだ。
「弥五郎。やごろう……」
伊与はうめくように、俺の名前を呼び続けた。
……けっきょく、伊与が復活するにはそれから数日の時間が必要だった。
薬師が言うには、怪我や病気ではないが、とにかく疲れがあったらしい。
何か月も離ればなれになっていた幼馴染と再会できて、緊張の糸が切れて、それまでの疲労がどっと出てきたのだろう、ということだった。
とりあえず、深刻な怪我とかじゃなくてよかった。
いやよくはないんだけど……まあなんだ、無事でよかったってことだ。
事実、伊与は、『萱津の戦い』から丸2日が経ったころには、粥を口にするようになった。
4日目には食事も摂るようになったし、5日目には顔色もよくなり、起き上がって歩くこともできるようになった。
そして、7日目――
大橋屋敷の一室にて。
俺と伊与は向かい合っていた。
俺は伊与に、村が襲われてからこれまでに起きた出来事を話していた。
「……そうか。いろいろあったんだな」
話の途中、伊与は何度もうなずいた。
「商売で金を稼ぐ、か。義父様の仕事を受け継いだんだな、弥五郎は」
「受け継いだっていうのかどうか……」
「すごいと思うよ。こんな大きな屋敷に住まわせてもらっているんだからな」
伊与は、ぐるりと室内を見回した。
「まあ、まだ居候の身だけどな」
「こんな家に居候させてもらっているだけでも、大したものさ」
伊与は目を細めた。
体調はすっかり良くなったようだ。本当によかった。
――そして。
「……弥五郎」
伊与は、わずかに全身を震わせた。
「私があれからどういうふうに生きてきたか、知りたいだろう?」
「……まあね」
すると伊与は、小さくうなずいてから語り始めた。
「あのとき。村が襲われたとき、私はシガル衆と戦った」
「…………」
「といっても、できたことは石を投げることくらいだったがな。――シガル衆は強かった。特に頭領、
――無明。
覚えているぞ、その名前。
いや、やつの顔も、むろん記憶している。
大樹村を襲ったやつの面構え。忘れるものか。
「私はとにかく、夢中だった。がむしゃらに、泣きじゃくりながら石を投げたことを覚えている。しかしシガル衆が火を放ち、村が炎に包まれて――私は怖くなって……そして、そして気がついたら……」
「気がついたら?」
「……見慣れない荒野を、ひとりで歩いていたのだ……」
伊与は、遠い目をした。
「自分の居場所がどこかも分からず、しばし呆然とさまよっていた。全身が真っ黒だったことが、夢じゃないことを物語っていた」
「…………」
「村への戻り方も分からない。とにかくどこかに向かって歩くしかない。ひたすら、意味もなく歩き回った。歩いて、歩いて……やがて疲れ果てて座り込んだとき、私に声をかけてきたひとがいた」
――娘さん、こんなところでなにをしておる?
と、そのひとは、声をかけてきたらしい。
「堤三介、という」
「つつみ、さんすけ……」
「そう。旅の兵法家だった」
年齢は50歳だった、と伊与は言った。
この時代の50歳は、もはや老人に近い。
伊与は、目をゆったりと細める。
「旅の途中だった堤さまと、私が出会えたのは偶然だった。……いい人だったよ。私のことを憐れんでくれてな……」
――村が野盗に襲われたのか。それは気の毒な。なんという村だ?
――大樹村。分からんなあ。……まあ、ここにいても仕方がないだろう。とにかくついてきなさい。
――わしのような独り身のジジイが、嫌でなかったらな。はっはっは……。
「こうして私は堤さまの旅に同行することになった。他に選択肢はなかった。……私たちは近江へ向かった」
――近江ではいくさがあり、その上、なんと公方さま(将軍・足利義輝)が流浪の身の上だという。
――ならば近江にいけば、あるいはいまなら公方さまの直参として仕えられるかもしれぬ。
――公方さまは兵法にもご理解があるとのうわさだ。わしにも機会が巡ってくるやもしれん。
――まあそこまではいかずとも、とりあえず飯は食えるだろう。はっはっは……。
……伊与の話を聞いて、俺は和田惟政さんのことを思い出した。
相国寺の戦いの余波で、近江国甲賀に危機が迫っていると言っていた和田さんだが……。
伊与の恩人の堤さまというひとも、その余波を受けて近江を目指していたのか。
まったく世の中は不思議だ。雲の上にいるような権力者たちの争いが、回り回っていろんな人間の運命の歯車を動かしている。
「堤さまとの旅は楽しかった。……堤さまは私にいろんなことを教えてくれた。特に刀の使い方は勉強になった……」
「なるほど。伊与は堤さまに稽古をつけてもらったんだな」
「ああ。厳しくも優しい教え方だったよ。……それから私と堤さまは近江におもむき、各所を転戦した。――もっとも展開は、堤さまが思っていたようにはいかなかったがな。公方さま(足利義輝)は政敵の三好長慶と一時的に和解したため、京に帰ってしまったのだ」
……ちょうどそのころの話か。
俺は心の中でうなずいた。
1552(天文21)年の1月28日に、足利義輝と三好長慶は一時的に和睦している。
それじゃ、足利義輝に仕官することは無理だな。
「もっとも、小さな争いはなくならなかったがな。路銀を稼ぐため、私と堤さまは近江の各地で雇われの兵として戦うことになった。おかげで私もずいぶん強くなったよ。……もっとも」
「もっとも?」
「その過程で、堤さまは討ち死にしてしまったが」
「…………」
「流れ矢に当たってな。……血を、どろどろに流しながら……堤さまは最後に言ったのだ。『養女になってくれ』と」
「え」
「『名家でもなんでもない小さな家だが、とにもかくにも武家である堤家が、このままでは絶家になる。だから養女になってくれ』。……それが堤さまの最後の願いだった。私は引き受けた。それで少しでも堤さまのご厚意に報いる道になるならと思った」
「…………」
「だから、いまの私は堤伊与。そういう名前になる」
「堤……伊与……」
縁もゆかりもない農家の少女が、武家の養女か。すさまじい話だな。
しかし。これはのちの話だが、戦国武将の山内一豊も、拾い子に一時、家督を譲ろうとしていた話がある。けっきょく家臣団の反対でそれはならなかったが……堤家は当主がひとりの小さな家のようだし、まして堤三介氏の死の間際ともなれば、そういうこともありえるのかもしれない。
「こうして、私は堤さまと死に別れた。――そのころになると、私も多少、知恵をつけた。村から出たときの私じゃなかった。いま自分がいる場所がどのあたりか、尾張に戻るにはどの道を行けばいいか分かるようになった。そこで私は、もう一度大樹村に戻ろうと思い、尾張に向かって旅をして――しかし途中で路銀と食糧が尽きたため、清洲城の雇われとなり、いくさにおもむいた……」
「……そして俺と再会した、か」
「……そうだ」
伊与は小さくうなずいた。
なるほど。これでなにもかもが分かった。
伊与がこれまで、なにをしていたか。どうしてあの戦場にいたのか。なぜ、あんなにも強くなったのか。なにもかもが……。
「……まあ、なんていうか」
俺は二の句をうまく継げず、言葉を探しながら言った。
「いちおう、夢は叶ったじゃないか。侍になるっていう伊与の夢が――」
「違う!」
伊与は、ふいに叫んだ。
「私がなりたかったのは、こんな侍じゃないんだ! 私は……義父様や義母様や弥五郎のために、村のみんなのために侍になろうとして――なのに私は……」
「…………」
「私は……あのとき……村が襲われたとき、義父様と義母様も見捨てて逃げたのだ……」
「逃げたって……気がついたら違うところにいたんだろ? 逃げたとは言わないさ。いや、仮に逃げたとしてもそれは悪いことじゃない。あれだけの敵はどうしようもなかった!」
「それでも許されることじゃない!」
伊与の瞳に、あのときの、血刀を振るっていたときの狂気が宿った。
「私は許される人間じゃないんだ! ふるさとを見捨てて逃げた最低の女だ! 私は、私は――」
「それを言うなら伊与! 俺だってあのとき、村にいたんだ。さっき話しただろ? シガル衆に襲われていた村を見て、俺は駆け戻った。村のみんなを助けようと思った。だけど俺ひとりじゃどうしようもなくて。藤吉郎さんにも止められて!」
「…………!」
「父ちゃんと母ちゃんと村のみんなは、俺と藤吉郎さんで埋葬した。それくらいしかできなかった。……伊与。自分を責めるのはよしてくれ。俺は……俺だって……俺だって……!」
「……弥五郎……!」
ふいに伊与は、俺に抱きついてきた。
肩が、小刻みに震えている。
元気で強かった幼馴染の少女、伊与。
彼女がこんなに震えている姿を、俺ははじめて見た。
「怖いんだ。なにもかも、怖いんだ。いまでも、燃える大樹村が夢に出て――」
まなじりが、わずかに滲んでいる。
「戦っているときだけ、忘れられた。血を見ているときだけ、苦しみを意識しないでいられた。自分が自分でないような感覚になって……そのときだけ私は、大樹村の伊与じゃなくて、別の伊与でいられるんだ……」
……だからか?
戦場で俺と再会したとき、お前は誰だ、と彼女は言った。
まるで別人のような顔つきで、刀を振るいまくっていた。
「恥ずべきことだ。こんな、こんな侍に、こんな女に、私は、なってしまって――」
「…………伊与」
――やはり、頭でも打ったのではないか? たんこぶは……うん、こぶはできていないようだ……。
――とにかく悪かった。次はもう少し手加減して投げ飛ばそう。
――ふふっ、それだけ元気に怒鳴り返せるのなら、本当に怪我はなさそうだな。安心したよ。
相撲をとっていたころを思い出す。
あれからまだ、1年も経っていない。それなのに。
あのまっすぐで優しかった幼馴染は、戦場で血の雨を降らせる戦士になっていた。
……いや。
それは俺も同じか。
この数か月で、何人の人間を殺してきただろう。
もしもいま、父ちゃんや母ちゃんが俺を見たら――俺だって、もう、まともな人間の顔をしていないのかもしれない。
「……伊与」
俺はそっと、伊与の黒髪を撫でた。
「自分を責めるな。悪いのはシガル衆だ。責められるべきは、やつらなんだ」
「……弥五郎」
伊与は、聞こえないほど小さな声で、嗚咽を漏らしはじめた。
「村の生き残りはもう俺たちだけだ。俺たちふたり」
「……うん」
「生きていこう。……いこうよ。ふたりで。ぜったいに……」
精一杯の想いを込め。
俺は、伊与の耳元で言った。
彼女は、俺の胸元に顔をうずめながら、か細い声で言葉を紡ぐ。
「……弥五郎だ。弥五郎だ。ずっと、ずっと私と一緒だった弥五郎だ……」
「……ああ」
俺は、うなずいた。
「俺は弥五郎だ。これからもずっと伊与といっしょにいる、弥五郎だよ」
すると彼女は、泣きながらもくすっと笑った。
「お前に慰められるなんて、あべこべだな。私のほうがお姉さんなのに」
「だから、1日だけだろ。イバるなよ」
髪を撫でながら、俺は言った。
「今日くらいは、素直に甘えろ」
「……うん。…………そうする」
伊与は、……ぎゅっ。
俺の胸に、顔をうずめた。
「……弥五郎。……もう、離れない。……離さないで。一緒にいて……」
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