雨と雪
今日は雨だ。
雨が降っていると憂鬱になる。
そんな、農家の人達からしてみれば恵みの雨ですよなんていうフォローはいらない。
そういう特殊な環境にない多くの人達からしてみれば、憂鬱に違いないのだ。
だから学校に来るとき、とても憂鬱だった。
傘を差し、朝練をしている運動部のいない寂しい校庭に一瞥をやってからわずかに濡れた肩を拭いながら教室へ向かう。
教室は豪く賑わっていた。
今日この日の雨を話題にしているグループもない。
しかし雨の日の教室には、恐怖があった。
――よぉ雨女。雨なんて降らせてんじゃねぇよ
――っつーか誰か晴れにしろよ、こいつ消せばできんじゃね?
――やだぁ、ひどぉい。
――ってか砂漠とかに引っ越してもらえばいいじゃん。ね、雨野馳さん?
あぁ、嫌だ。嫌だ。嫌だ。
心のない言葉を思い出す。
私を雨女と呼ぶ彼らを思い出す。
私を除け者にしようとする奴らを思い出す。
辛い、辛い、辛い。
お願いだ、雨脚よ。
どうか私からずっと遠くへ、その雨音が聞こえないほど遠くへ行ってくれ。
お願いだから。
お願いだから……。
▽ ▽ ▽
「あぁぁあ、雨だぁ……雨だぁ」
「やることないよな」
部室に来ると、さすがに聞こえてしまう。
運動したい運動部員の、雨を鬱陶しく思う声。
その矛先がいつ自分に向くのかと、雨野馳
黎明との練習試合にも出た、巨漢の大男。
名を、
明星スターダストの中では身長も体重も最大で、とにかく面積を取る。
能力は怪力と聞いているが、練習試合でその威力を発揮した場面はない。
どこか能力について隠している雰囲気だが、
基本的に部室に入り浸り状態の彼は、雨が降ろうとも降らずとも同じ状況なのでとくに何も思っていないらしく、静かに将棋を楽しんでいた。
本人曰く、頭の方が体より動くらしい。
そんな彼らの後ろで、雨野馳は何もせずただ震えていた。
レインコートさえあれば走りに出るのだが、生憎と雨に対しての恐怖心でそれを忘れ、結果ビクビクと怯えながら部室にいる破目になってしまっていた。
早く部活動時間が終わればいいと、何度も時計を一瞥する。
だがこういうときに限って時間と言うのは意地悪で、ノロノロと進んでいるのだった。
「ねぇ」
不意に、隣から呼ばれる。
振り向くと、そこには今日の購買で買ったのだろうフルーツサンドを食べる少女がいた。
白に近い、しかし薄い水色の長髪を一部編みんだ物凄い白肌の女子。
黒人のボルトと並ぶと、その白さがとくに目立つ彼女は、ボルトや曇天と同じく練習試合に参加した一人。
身長体重は曇天と真逆で最小最軽量。
しかしその体に見合わない大喰らいで、とくにフルーツサンドは無限に入る。
甘いものには目がないらしいが、そんな彼女が雨野馳に話しかけて来たのは、これが初めてであった。
「食べる?」
そう言って、雪咲はフルーツサンドを雨野馳に差し出す。
ラップに包まれたフルーツサンドはバッグに入っていたせいか若干潰れていて、中のクリームが飛び出ていた。
「……いいわ、ありがとう」
「そう? おいしいのに」
「っていうか、そんな生クリームばかりよく食べられるわね……見てるこっちが胃もたれしそう」
「まぁ、おいしいものはいくらでも入るから……」
だが実際、胃もたれ以前にこの部室で物を食べる気にはならない。
何せ埃が舞っているし、ロッカーの中も汚い。
壁に掛かっている鏡には、カビだかなんだかわからない汚れがついていてうまく見えやしない。
おまけに部屋の片隅では、
そんな場所で物が食べられるまでには、まだなっていなかった。
それからまた一時間後。
買い溜めしていたフルーツサンドをすべて平らげ、雪咲も退屈していた。
暇潰しに参考書を読んでいるが、しかし落ち着かない様子である。
「……買出しに行ってくる」
「あれだけ食べてまだ食うのかよ……おまえすげぇな」
「おいしいから。晴渡くんも来る?」
「いや、いいや。あぁでもそうだな。いくんだったらレインコート買ってきてくんねぇかな。金渡すから」
「あぁ僕もお願い! XLでいいからさ!」
「うん……他はいい?」
「私は大丈夫よ。曇天、あなたは?」
「僕もいい。帰りに自分で買うからね。はい、王手」
霧ヶ峰も、その場でいらないと手を振る。
鏡根は今この場にはなく、職員室に行っていたために用件はフルーツサンドとレインコートに決まった。
「ねぇ」
再び、雪咲は雨野馳を呼ぶ。
透明な瞳孔は少し眠たげで、ずっとフルーツサンドを食べていた口は小さな声のみを発する。
まるで隣に寝ている子供がいるかのようなトーンで常時話しかけてくるので、こちらまで眠くなってくる。
「一緒にいかない? 暇でしょう?」
「え……」
突然の誘いに、思わず戸惑ってしまう。
確かに雨に対する憂鬱で満ち満ちている部室にいるよりは、外の空気を吸った方がまだいいだろう。
故に断る理由もなく、そもそもずっと眠たそうにしている彼女を放っておく方が怖かった。
「わかったわ、行きましょう」
明星から数分の距離を歩くと、コンビニがある。
レインコートはそこで買えるが、しかしフルーツサンドも買わなくてはならない。
そこからさらに歩いて大きな坂を下り、フルーツサンドを購買部に収めているパン屋へと向かった。
しかしそこにはフルーツサンドがなく、店員に訊くと二時間ほどまえに売り切れてしまったという。
別段、日頃大人気で行列ができるほどのパン屋というわけでは(失礼ながら)ないのだが、今日は雨と言うこともあり運動部がことごとく休みで、小腹を空かせた運動部が次々と買っていったらしい。
フルーツサンドが大好物の雪咲は、さすがにこれには落ち込んだ様子。
結局そこではアップルパイを買ったのだが、本人は満足していないようで不満そうだった。
「仕方ないわよ、売り切れなんだから」
「うん……そだね」
テンションが低くて声が小さいのか、それとも元々の声量故なのか。
雨にほとんど掻き消されながら返事した雪咲は、無言でアップルパイを口にした。
(そんな、勝手に機嫌悪くなられても困るのだけど……)
雨野馳の心配は、そこに落ち着く。
この場合雪咲が機嫌を悪くしていたら、そのとばっちりを受けるのは唯一隣にいる雨野馳である。
それがとてつもなく嫌だった。
中学の頃引きこもりだった雨野馳に、不機嫌な友達を制することなど難題過ぎる。
「ねぇ」
また唐突。
思えば何故呼びかけの時だけはっきりと聞こえるのか、それが不思議であった。
「雨は嫌い?」
「そりゃあ……好きな人なんて、農家くらいじゃないの?」
「農家でも雨は嫌いよ。台風とか」
「まぁそりゃ、そうかもだけど……」
「あなたなら、雨を全部避けて走れる?」
「まさか。そんなの無理よ。能力を使ってもできやしないわ」
「……そう」
「でも世界にはいるわ。雨も避けて走れる能力――いえ、技術が」
「そうなの。誰の、どんな能力?」
「
雨野馳は立ち止まる。
それに対して雪咲は傘を閉じ、雨に濡れ始めた。
すでにアップルパイは、食べ終わっている。
「世界最速の人間、覇星彩夢。あの人の走法の一つに、どんな対象を前にしても止まることなく躱すものがあるの。確か名前は――」
「スピード・スター……」
「あぁそうそう。よく知ってるね。あれ、覇星さんと一対一で会ったことある人しか知らない名前なんだって……誰にでも教えるらしいけど、ものにできる人は一握りだそうよ」
「ちょっと待って? え、ってことは雪咲さんは……」
「うん、会ったことあるよ。っていうか隠してるけど、親戚だし……当たり前っていうか……」
雨野馳は驚愕に打ち震える。
確かに白い髪といい肌と言い、少しだが覇星に似ているところはある。
ただその性格や声のトーンだったり、色々と正反対のところはあるようだが。
しかし実力はわからない。
練習試合では鏡根の指示でモンスター討伐に徹底していたし、それもいくらか先輩方に守られながら戦っていたから実力の底を見せていないのかもしれない。
もしかしたら、覇星と同じ血の影響で、速度にまつわる能力を持っているのかもしれない。
そうなると突然気になって来た。
彼女のことが、今までほとんど気にしなかった彼女のことが。
だがそれは、彼女にとっては――
「……やっぱりそうだよね。みんな変わるんだ、私が覇星さんの親戚ってわかると。興味が出るっていうかなんていうか……」
確かに酷いことだった。
今の今までほとんど会話したことなかったのに、覇星選手の親戚とわかった時点で興味を示すだなんて。
それは結局雪咲ではなくて、覇星選手に興味を持っていることと同じで、結局雪咲に興味を持っていないことと同じだった。
「ごめんなさい……そんなつもりじゃ、なかったのに」
「いいの。みんな悪気はないのはわかってるから……ちょっと、寂しいけど。私は覇星さんみたいに速くないし、そういう能力者でもないから……期待外れってよく言われる」
「……ごめん、雪咲さん」
雪咲はまだ、傘を差さない。
自虐的になっているのかとも思い、ますます思いつめそうになった雨野馳だったが、思えばこの話題になるまえから傘は閉じていた。
傘をその場に置き、白息を吐く。
「だからちょっと、期待に応えたくって……身に着けたの」
そう言って、雪咲は走り出す。
速度の世界に生きる雨野馳だからこそ見えるわずかながらしかし鋭い緩急を繰り返し、雪咲はどんどんと加速していく。
時速にしておよそ三六キロ。
雨野馳の最高速度の三分の一程度の速力しか、雪咲にはない――はずなのに、雪咲はどんどんと加速していく。
凄まじい速度で加速しながらも、まったく減速しない。
障害物が目の前に現れても、速度を落とすことなく抜き去っていく。
その走る姿は本当に、覇星と瓜二つだった。
戻って来た雪咲は、肩で息をしながらわずかに掻いた汗を拭う。
体は驚くことに熱を発し、白い湯気が見えるほど。
そしてさらに付け加えれば、雨でほとんど濡れていなかった。
「雨野馳さんも教えてもらったんでしょ? 完成すれば、今の私なんかより速くなるよ?」
このときの雨野馳は雨による憂鬱など忘れ、ついさっきまで不思議ちゃんだった雪咲の一挙手一投足など忘れ、ただただ呆然としていた。
目の前で、覇星選手にかなり近い走りが見られたことに興奮し、憂鬱など吹き飛んでいた。
「明日は晴れるってさ。明日からスピード・スターの練習、一緒にしようね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます