欠けた月のほとりで

望灯子

 ぴったりと寄せ合っていたからだを引き剥がすと、汗ばんだ膚に夜気がつめたく沁みた。恍惚の余韻と現実の境界で混濁する意識のまま、男は組み敷いている恋人の姿を見おろした。なめらかな凹凸で描かれるかたちの表面に冴え冴えとした一条の光が走っている。しろい肌に点々と浮かぶ鬱血の痕をたどるように、ひかりは彼女の肩口から射し込み、心臓の位置を通ってさらに下方へと伸びていた。まだ触れ合ったままの互いの陰部へと、光線は吸い込まれている。男は無意識に導かれるように、そっと腰を浮かせて光の示す先を追った。

 どうしたの、と、まだどこか苦しげな、きれぎれの浅い呼吸のにまじえて恋人が男の名を呼んだ。しなやかな指先が気遣うように男の黒髪に触れ、幾筋もの流れ落ちたそれをやさしく梳き通す。返す言葉を見つけられないまま男がずるりとその身を引き抜くと、恋人は最後にひどくせつなげに、声にならない声をこぼして背をしならせた。

「あ……、……月、が」

 く、とそらされたしろい咽喉が絞り出した言葉に、男は何故だかすこしぎくりとして恋人の目線の先を追った。ふたりの頭上では外光を透かす薄紗がそよぎこむ微風に揺れていて、そのほそいあわいから夜空の色が覗いていた。男の目の位置からは月の姿を捉えることはできなかった。しかし恋人は、微笑すら浮かべて視線をうっとりと天に向けたままでいる。

「月が……、ねえ見て、月があかるくて、とても綺麗よ」

 未だ上気の残る頬、しっとりと汗の浮かんだこめかみとそこに張りつく乱れた髪、どちらのものと知れぬ唾液に濡れた唇。情事の名残りを示す淫猥さを其処此処に残しているにも関わらず、恋人のその嬉しげな声と笑顔はまるでそうしたことを知らない未通の少女のもののようだった。たった今、たがいの肉体を通して熱情を交感し合ったばかりだというのに、男の胸には恋人に対する嵐のような愛おしさがふたたび激しく渦をまいた。

 たまらず名前を呼んだ瞬間、それまでよりもつよい夜風がふわりとうすぎぬを巻きあげた。青いひかりがふたりの間に天啓のごとく注ぎ込み、男の下にある恋人の露わな肌を隅々まで照らしだす。わずかばかり前の思いつきが蘇り、男は恋人の下腹に目を遣った。うすらかな脂肪をまとった女性特有のなだらかなまるみはそのとき、月光を浴びてかがやく湖面のように、ひっそりとした淡い発光を湛えていた。

 ああ、とうめくようなため息に変えて胸の痞えを押し出してから、男は体をずらしその場所に口づけた。風はすぐに凪ぎ、今ではそこはふたたび暗く、元の線状の光の潜り落ちる先に変わっていた。

 縋りつくように、しなやかな腰を抱き寄せる。恋人の手のひらが応えるように、男のうなじにやさしくあてがわれた。その感触の心地よさにまぶたを伏せながら、男は恋人の臍の向こうの、眠る泉に心を寄せた。

 まるで、月のようだと。口にするのは簡単だったが、憚られた。あまねく休息をひとしく見守る満月の、その慈悲に似たかがやきは、己の恋人の内にこそ宿っていると男にはかたく信じられた。けれどほかでもない恋人自身がそのちからを信じていないことも、同時にまたよく知っている。

「貴女と共に観る月ならば、どんなかたちをしていようが、どんなに鈍いかがやきだろうが、俺の目にはきっといつでも変わらぬうつくしさに映りますよ」

 男は恋人のやわらかな腹部に幼子のように頬をすり寄せた。

「たとえ年老いても、盲いても、貴女の隣にさえいられるならば。俺はずっと変わらずに、いつまでも、最期まで、そう信じつづけるはずです」

 空気がかすかにふるえ、恋人が笑った気配がした。心がやすらぐ。そのせいか、抱き締める腕に力をこめた拍子に、思わずぽつりと情動があふれた。

「…………あたたかい」

 言ってから、すぐに後悔をした。恋人の応答ならば彼にはわかりきっていたから。

「いいえ。つめたいわ」

「ちゃんと血が通っている」

「その血は流れて落ちるものよ。ぜんぶ」

 遠くさびしげに告げる声を、打ち消すちからを持ちたかった。できることなら貴女の希いを叶えたいのだと、ただ無責任に叫ぶことができたらどんなによいか。しかし、子どもじみて願うことでしかその希求をかなえる術を男は知らない。それを打ち明けることができない代わりに男は、恋人の肉体の深淵に己が放ったばかりの精の行く末にただ黙って思いを馳せた。

「……ねえ、」

 今では穏やかな呼吸を取り戻した恋人の声が、しずかに男の名を呼んだ。

「ねえ、月がとても綺麗なの」

「ええ……」

 根負けしたように、男が顔をずらして頭上に目を向けると、恋人とばちりと目が合った。彼女はちいさな窓の外になどとっくにかまけていない様子で、悪戯めいた目をきらきらとかがやかせた笑顔で男を見つめている。

「ねえ、あなたもそう思うでしょう?」

 微笑は自信に満ちていた。それでいて尚、同意を促すように幾度も首筋を撫でられて、男もついに貌も心もゆるめないではいられなくなる。

「そうですね。貴女の言うとおりだ。……月が、とても綺麗ですね」

 這いあがり、恋人の顔に頬ずりをして、鼻先に唇で触れる。くすぐったそうに破顔する恋人の、喜びに満ちた無邪気な瞳こそが、この夜の自分にとってはかけがえのない綺麗な月だと。生涯をかけて尽くすに値する美について思いを巡らせながら、男はそんな風に考えた。

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