アツヒロ

 今朝の私は、起きた瞬間からやる気に漲っていた。テキパキと朝の準備を整え、鏡の前で両手の拳を握る。

「よしっ」

 気合を充分に入れてから、時刻を確認した。

「おっと、急がなきゃ」

 パタパタと急ぎ足でマンションを出たら、時間を気にしながら駅まで向かう。

 辿り着いた駅構内は、今朝も出勤する人たちで慌しい。自動改札機にパスケースを当て潜り抜けながらも、一応周囲をきょろきょろと確認した。

 階段を下りながら向ける視線は、あの日ホームで一目惚れした彼が立っていた辺りだ。

 あ、発見!

 今日も眩しいほどに、惚れ惚れとする存在感。あまりに素敵過ぎる彼に、見惚れてしまいクラクラする。しかし、愛しさに眩暈を覚えている場合ではない。

 私は、ススッと彼と同じ列に並び、滑り込んできた電車に乗り込んだ。狙いすました時間の狙いすました車両。吊革に掴まり揺れる私の隣にいるのは、愛しい彼。

 ふふふふっ。まさに狙い通り。

 スマホ片手に立つ姿でさえ、神々しい。

 あまりにうまく彼の隣を陣取る事ができて、私の頬は緩みっぱなしだ。

 ヤバイ、ドキドキする。ちょーかっこいい。男前過ぎるんですけど。

 隣の彼を気にしてチラチラ見ていたら、向こうもなんだか気がついたみたいで、こっちに視線を向けた。

 私は、慌てて視線を逸らす。

 不自然だったかな……。

 不安になって少ししてから隣をそおっと窺い見ると、また彼はスマホの画面に視線を戻していた。

 よかった。私が見てたこと、気がつかなかったのかも。

 ほっとして、今度こそさり気なく隣を窺う。

 さっぱりとしたスマートマッシュのヘアスタイルは、陽の光が当たってダークブラウンのカラーがキラキラとしている。頭の形も綺麗だな。

 この前見かけた時に着ていたネイビーのスーツもよかったけれど、今日のグレーのツイードスーツも素敵だな。

 衣装もち? 男の人って、普通は何着くらいスーツを持ってるものなんだろう?

 あ、よく見たら靴もこの前と違う。つま先がUチップの外羽式だ。今日も綺麗に磨かれている。

 足元って意外と目に付くから、踵が減ってたり、汚れていたりすると気になっちゃうんだよね。

 名前、知りたいなぁ。なんていうんだろう?

 LINE交換してくれないかな。ふるふるしませんか? なんて突然話しかけたら、引かれるよね。

 櫂君の「ドン引きですよ」という声が聞こえてくるようだ。

 けど、お近づきにならないことには、発展のしようもない。櫂君だって言ってたじゃん。私次第だって。

 なので、私は決心したのだよ。今日は、遅刻してでも彼のことを知るんだ。櫂君がドン引きしたって関係ない。有休を使ってでも、この愛の行方を追うのだ。

 心の中で、私は硬く拳を握り締める。

 そんなわけで、いつもは次の最寄り駅で降りて会社へ向かうのだけれど、彼の行方を追うためにスルーした。櫂君には、一応LINEで連絡を入れておく。

【 出社が遅れるけど、適当に誤魔化しておいて 】

 メッセージを送るだけ送って、櫂君の返事は見ない。見たら最後、良心の呵責に耐えられなくなりそうだから。これでも一応、責任感の“せ”の字くらいは持っているのだよ。

 三駅ほど過ぎたところで、彼が下車した。

 スマホを見ているふりをして観察を続けていた私も、慌てて彼のあとを追う。

 付かず離れず追って行くと、愛しの彼は足早に人の波をすり抜け大通りをいく。途中、信号を渡るために横断歩道で止まったのを機に、ススッと私は斜め後ろに陣取った。かれこれ、駅から歩いて五分ほど経つ。

 会社に向かっているんだよね? この時間にスーツで他の場所に向かうなんて、なかなかないだろうし。あ、直行っていうのもありえるか。だとしたら、日を改めなくちゃならないか。

 信号待ちの間、あれこれと考えをめぐらせる。

 はやく目的地が知りたくて、信号が青にならないなぁ、と彼の背中を眺めたら、同僚らしき男性が近づき「はよっ。アツヒロ」と気さくに彼へと声をかけた。

 さっきまで黙々と歩を進めていた彼の表情が、瞬時に明るくなる。

 ああ、なんて爽やかな笑顔。

 名前は、アツヒロさんというのですね。素敵なお名前ですぅ。

 棚ぼたながらも、彼の名前を知ることができて一歩前進。

 ここからだと彼の横顔しか窺えないけれど、白い歯が朝の清々しい青空に映えている。

 心とろけるような素敵なスマイルに、乙女心をキュンキュンさせて見つめていると、不意に彼がこちらを振り返った。

 だらしなく崩れた笑顔でガン見していた私は、まさか彼が振り向くなんて思いもしてなくて、彼を見たまま固まってしまった。

 うっ……。

 頬は引き攣るものの、今更目を逸らすのもなんだか不自然で、ちょっと微笑んでみた。けれど、引き攣った頬が邪魔をして、ニヤッと不敵な笑みになってしまう……。

 そのせいで、愛しの彼、アツヒロさんのナイススマイルが、あからさまに曇ってしまう。いや、訝しんでいるといっていいだろう。

 怪しい女が見ていると思っただろうか。

 信号が青になると、彼はすぐに前を向き、同僚とスタスタ歩き出した。

 私は、さっきのニヤついた顔のこともあって、すぐにあとを追うこともできずに距離をとる。数メートル距離をとりつつ付いて行くと、彼は横断歩道を渡って直ぐにある棒有名大手会社のビルへ、同僚と共に入っていった。

「もしかして。ここに勤めてるの?」

 ビックリするくらい大きなビルを見上げていると、そのまま後ろに倒れてしまいそうだ。

「エリートか」

 分不相応?

 貧相な自分の身分を思い、間抜けに口を開けたまま、私はしばらくそのビルを眺めていた。

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