南場花月 ⑭

 五月一七日、水曜日。一限目の講義を終えて、教室に弛緩した空気が漂った。

 

 筆記用具をバッグに直して立ち上がると、俺に挨拶をしてきた女がいた。


「お疲れ様、公大。この前は相談に乗ってくれてありがとう」


 朝陽のように温かく優しい笑顔で声をかけてきたのは、南場花月だった。五月にしては陽射しが強く、彼女は温かい気温に適した清涼感のある半袖のワンピースを着ていた。紺色のシンプルなデザインで、彼女の華奢なボディーラインを綺麗に見せていた。


 わざわざ俺を見つけて、ご丁寧に感謝なんてしなくてもいいのに。律儀な人だ。俺は、俺のために彼女の話を聞いただけなのに。


「俺は何もしてないよ。花月が勝手に頑張って、勝手に報われただけだって」


「そんな謙遜しなくてもいいのに。公大の助言がなかったら、ずっと梨香の話を聞くことなんてなかったから。本当だよ」


 あっ、それで梨香のことなんだけど――と、訊いてもいないのに、梨香について話し始めた。


「結局、梨香は部活を辞めることになった」


「へぇー」


「一年間ボランティア活動を続けていても、あまりやりがいとか楽しみを感じなかったみたい。それと、他の部員とのいざこざもあって、辞めることになった」


「ふーん」


「寂しくはあるけど、梨香とちゃんと話し合ってそうなったから、後悔はしてないよ。梨香は前からやっていたバイトの方に専念するみたい」


「そっかぁ」


 自分でもわかるくらい、退屈そうな相槌を打った。


 正直なところ、俺としては早々に会話を打ち切りたかった。すでに花月に恩を返し、呪いの効果が止まっていた。会ったことのない梨香が、どうなろうと興味がない。


 俺には怨返しの呪いがあって、花月に近づいただけだ。美人だからかれたのではない。困っている人を助けたいというヒーロー願望があったわけでもない。俺自身が不幸な目に遭いたくないという損得勘定そんとくかんじょうがあって、関わりを持ったに過ぎない。


 この場から立ち去れる上手い言い訳はかないだろか。そんなことを思案していると、花月がスマホを手にして言ってきた。


「まだ、公大の連絡先を知らないから教えて」


 何を言い出すのかと思えば、そんなクソ面倒なことするわけがないだろ。俺は遠回しに断ろうとした。


「いや、それは、ちょっと……」


「情報交換アプリは持ってるでしょ? 私のQRコード見せるから読み込んでもらっていい?」


「いや、あの、だから……」


「あっ、ごめん。ふるふるの方がよかった? いつも他の人の連絡先交換する時、QRコードでしてたから、つい」


「……」


 少しは人の話を聞いて欲しい。


 花月は、俺に断られるなんて微塵も想定していない真っ直ぐな瞳をしていた。押しに弱い俺は、花月の催促に根負けして、仕方なくスマホを取り出した。彼女にスマホを奪い取られるような勢いで、友達リストに『kaduki』という名前が追加されてしまった。時間が経って疎遠になったら削除してやろう。


「ところで、前から公大に訊きたかったことがあるんだけど」


 ころころ話が変わる女だ。頭の回転が鈍い俺に、もう少し配慮してもらいたいものだ。というか、解放して欲しい。


「俺が答えられることなんてたいしてないけど、何?」


「私たち、どこかで会ったことない?」


「花月にルーズリーフをもらう前からってこと?」


「うん」


 彼女の何気ない問いに、俺は呆気にとられた。もしかして、花月は入学当初の大学生協で、俺と出会っていたことを覚えていたのか。彼女がこれまで助けてきた有象無象の一人にすぎない俺のことを。


「出会ったことはある」


 ごまかす理由もないので、正直に打ち明けた。


「大学生協で一回生の時。俺は花月に助けてもらったことがある。花月は教科書を買うための長い列から抜け出してくれて、俺が落とした教科書を一緒に拾ってくれた。あの時は助かった。改めて言わしてもらうけど、ありがとう」


 俺がお礼を言うと、彼女は薄く微笑んだ。気のせいか、その笑みがどこか寂しそうであった。


「そっかぁ……やっぱり、そうだよね」


 俺の証言と、彼女の記憶は合致したらしい。どうやら、彼女から伝わっていた寂しさは、俺の気のせいみたいだ。


「俺は知っていたけど、まさか花月が覚えてくれてるとは思わなかった。いつ気づいた?」


「……」


 返事がない。俺の声が聞こえなかったのか? もう一度、声をかける。


「いつから、俺に気づいてた?」


「最初から」


 花月は俺にルーズリーフを渡した、五月八日の月曜日の時点で気づいていたらしい。彼女にとって、俺の教科書を拾ってくれたことは、そんなに印象的な出来事だったのか。それとも、人の顔を覚えるのが得意なだけか。何にせよ、こんな形で人から自分の顔を覚えられているというのは悪くない。


 花月は踵を返した。用件が済んだようで、俺の前から立ち去ろうとした。


 次の再会を望む言葉を残して。


「それじゃあ。これからもよろしく、公大」

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