南場花月 ⑩

 俺は腕時計を見た。時刻は一時十分を回っていた。ついさっきまで活気に満ちていた中庭はがらんとしていて、俺好みの閑散とした中庭になっていた。


 花月と共に移動した先は、食堂の二階にある購買だった。店内には、ガラスの窓から中庭を見下ろせるカウンター席があり、彼女と並んで腰かけた。この時間は授業中だから、利用客は俺たち以外に三人ほどしかいない。騒々そうぞうしくなく、かといって静かすぎることなく、リラックスして話し合いができる雰囲気だった。


「相談を乗ってくれる上に、飲み物までもらって本当にいいの?」


「お構いなく」


 我ながら、至れり尽くせりだとは思う。でも、怨返し呪いを終わらせるための一環と考えれば、仕方ない経費だと割り切れる。


「じゃあ、いただきます。ありがとう」


 俺なりのもてなしが、お気に召してもらってよかった。ちなみに、俺はウーロン茶を購入していた。別に買う必要はなかったが、花月の物をだけを買うと遠慮するだろうと思い、百円を犠牲にした。


「むしろ本当にミネラルウォーターでよかったんですか?」


「糖分が入ってる飲み物はあんまり飲みたくなくて。太る原因になるから」


「いやいや、そのスタイルで何を言ってるんですか。余計なお世話かもしれないですけど、もう少し肉を付けてもいいくらい痩せてますよ」


「お世辞でも嬉しい。ありがとう」


 俺の称賛がお世辞として捉えられたが、断じてリップサービスを使っているわけではなかった。


 改めて女の容姿を正面から見る。色鮮やかなブルーのカーディガンと、白を基調とした青い花柄のブラウスの色は、絶妙にマッチしていた。白いタイトスカートから出た、色白の細い生足が艶めかしい。おそらく誰が見ても掛け値なしに、彼女のスタイルが綺麗だとたたえるだろう。


 彼女の容姿を眺めていると、彼女から話の口火を切ってきた。


「さっそく本題に入りたいんだけど、私、部活の友達のことで悩んでいるの」


 それを皮切りに、彼女の悩みが語られた。


 内容はほとんど、すでに知っていた情報だった。部活の仲間が何の前触れもなく退部した。その友達を引き止めるために説得を続けているが、かんばしい返事は得られていない。


 すでに知っていた花月の悩みに、改めて抱く感想はこれといってなかった。無感情を気取られないため、話し手が不快にならいよう小刻みに相槌を打つ。


 話を聞いて、意外だったことがある。花月は今朝まで知らなかったらしい。花月の友達である梨香が、部活仲間から目の上のたんこぶとして扱われていることを。これはおそらく、部員たちが梨香と仲の良かった花月に憚り、彼女の耳に届かないよう箝口令かんこうれいを敷いていたのだろう。


「何で皆、梨香のこと悪く言うのかな。おもしろい子なのに。……あっ、梨香って言うのは、部活を辞めて欲しくない友達のことなんだけど」


「俺はその人と会ったことないから何とも言えませんけど、あなたがそう言うなら良い人なのかもしれませんね」


 自分の意見は胸中に秘めて、相手に媚びるよう話を合わせる。大概の人間は、自分の話を正当化されて悪い気がしない。もちろん中には、人と調子を合わせて会話をする人間を嫌う例外もいるが。


 何かまずいことでも言ったのか。女が急に黙って俺を見てきた。


「あの、何か変なこと言いました?」


 俺は恐る恐る訊いてみた。


「今更だけど、別に敬語使わなくていいよ。それから、名前で呼んでくれると嬉しい」


 なんだ、そんなことか。


 どうやら、俺の言葉は目の前の女にとって堅苦しく聞こえたらしい。確かに、この女と関わることに慣れつつあったが、今でも少し緊張して他人行儀に接していた。それが相手に伝わったのだろう。


「わかった、そうする」


 俺は彼女の要望を聞き入れ、フランクに話すことを心掛けた。


 だが、彼女の名前を呼ぶことに抵抗があった。自己紹介も済ませていないのに、俺が一方的に花月のことを知っているのはおかしい。不審に思われるのは必至だ。


 ここにきて名前を尋ねるのは遅すぎる気もするが、仕方ない。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とも言うし。


「俺も今更かもしれないけど、名前を教えてもらっていい?」


「えっ?」


 女の顔色が虚を衝かれたものに変わった。普通、名前を訊いただけで、言葉を失うほど驚くものなのか。


「ごめん、最初に訊いておくべきだった」


 俺はとっさに謝罪を述べた。反射的に謝るのは、小心者の防衛本能であり、直しがたい悪癖だった。自分にどんな落ち度があったのか、分析する余裕なんてない。目の前にいる相手が、不意に泣きそうな顔になられると冷静さを欠いてしまう。


 沈んだ表情を見せた女は、首を横に振った。表面に出た負の感情を飲み込みこんで、どうにか笑顔を取りつくろう。


「ううん、気にしないで」


 彼女の言葉は説得力に欠けていた。無理に平静を装っているだけだ。それなのに俺は、気の利いた台詞が出てこない。何とも情けない。


「私の名前は、南場花月なんばかづき。皆からは、花月って呼ばれてる。あなたもそう呼んでくれると嬉しい」


「南場、って呼ぶのはダメ?」


「うん、ダメ。花月がいい」


「わかった。じゃあ……花月、って呼ぶことにする」


 女子をファーストネームで呼ぶことに、少し気恥ずかしさがあった。が、本人からの要望とあらば、小さな羞恥こらえて期待に応えようと思った。


「俺は阪城公大。あだ名とかは特にないかな」


「じゃあ、私はあなたのことを公大って呼んでいい?」


「えっ……あぁ、うん。お好きにどうぞ」


 驚いた。最近の女子は、いきなり許可なく異性のファーストネームを呼ぶくらい積極的だった。それとも、花月だけが特別なのだろうか。あまり親しくない相手から下の名前で呼ばれると、なぜか不思議な感じがする。

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