南場花月 ⑨

 五月の三週目に入った、十五日の月曜日。怨返しの呪いを受けてから、一週間が経った。


 スカイブルーの空にウールのような千切れ雲が静謐せいひつと漂う。気温は一八度前後で快適に過ごしやすい。日影のベンチで腰かけていると、つい寝落ちしてしまいそうだ。


 先週同様、花月が俺と同じ講義に出席していることを祈りながら、教室の扉を開いた。俺の祈りが届いたのか。淡いチョコレート色をした長髪の女を見つけた。


 俺は、花月が座っていた席の前に行った。


 講義が始まるまで残り数分ある。彼女の悩みを解決するため。そして何より、俺の不幸な毎日に終止符を打つため。俺は、『できる、できる、できる』と、心の中で自分を鼓舞こぶし、花月に振り向いて声をかけた。


「あの、今、少しいいですか?」


 突然の声かけにまるで動じることなく、花月は微笑み返してくれた。


「どうしたの? また、ルーズリーフくれる?」


 彼女はあまりに自然と対応してくれるものだから、気負って話しかけた俺の方が動揺した。


「いや、違います。というか、覚えててくれたんですね」


「うん、忘れるわけないよ。あなたのことを」


 花月にルーズリーフを押し付けた俺の愚行は、しっかり彼女の記憶に残っていたらしい。


「それでどうしたの?」


「あぁ、えっと、突然こんなこと言うのもおかしな話なんですけど、その……」


 言い淀んでいると、俺の気持ちを察してか、花月は寛大な態度を取ってくれた。


「そんなに深刻に考えなくてもいいから、気軽に何でも言って」


 彼女の配慮に落ち着きを取り戻し、俺は言った。


「何か悩み事はありませんか?」


「私の悩み?」


 彼女は小首を傾げて俺の質問を復唱する。


「そうです。この前もらったルーズリーフの恩を返したくて」


 自分で質問しておきながら、なんて怪しいのだろうと思った。俺が逆の立場なら、確実に不信感を抱く。いきなり人の悩みを聞かせろとは、何を企んでいるのかと。


 だが、俺の懸念はすぐに解消された。女の素直な心の声を聞いて。


「うん、ある。部活の友達のことで悩んでいることが。私の方からもお願いしていい? あなたの知恵を、貸してもらえないかな?」


 怪しいやつだと警戒されず、ひとまず安心した。が、別の懸念が生まれた。目の前にいるこの美女に、最低限の警戒心は備わっているのだろか? 人が良いから、簡単に口車に乗せられてしまいそうな危うさがあった。


 まぁ、今は彼女の危うさを深く掘り下げる必要はないか。


 やわらかい笑みを引っ込ませた花月が、真面目な顔になって言った。


「できるなら、今すぐにでも詳しい話を聞いて欲しいんだけど……ダメかな?」


「それって、つまり……」


「うん。私と一緒に授業サボって欲しいの」


 花月からの予想外の頼みに、返答を窮した。というより、何秒か思考がフリーズした。俺としては、授業が終わってから、もしくは彼女の都合の良い日に、話し合いのアポイントさえ取れればよかった。なのに、この願ったり叶ったりの急展開。心の準備が全くできていない。


 三限目の講義を放棄するのは別に構わない。いや、学業をおろそかにするのはダメだろうが、たまには人助けという名目で自主休講してもいいだろう。成績評価は、最後のテストを重視すると、オリエンテーションの際に言っていたし。欠席の一回や二回はたいした問題ではない。


「やっぱり、ダメかな……」


 花月が諦めたように俯いて言った。誰の目から見ても落ち込んでいる。


 そんな意気消沈とした顔を見せられては、俺の良心が断るわけにはいかない。


 俺は一つ咳払いをして言った。


「俺の方は問題ありません。今から教室を出ましょう」

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