南場花月 ⑧

 金曜日の正午。


 早めに教室へ着いた俺は、がらんとしていた後ろの席に座った。秒針が進むごとに、三々五々さんさんごご学生が教室に入って来る。扉の開閉音がよく聞こえていた室内は、随分と賑やかになる。


 入室して来る面々の中に、どこかで見たことのある男女のグループが、俺の近くの席に腰かけてきた。彼ら彼女らと、いつ、どこで会ったのか思い出す。


 記憶を探している最中、男の大きな話し声が聞こえてきた。


「ってか、何で梨香りかのやつ退部したんだよ?」


 退部。


 その二文字が俺の脳内に大きく浮上した。それと同時に、後ろにいる男女のグループに関する記憶が蘇った。そう、彼ら彼女らは、俺の恩返し相手である花月と、月曜日の四限目の講義に一緒にいた連中だ。


「どうでもいいよ、あんなブス」


 女の一人が憎らしげに言った。


「もともと、ボランティアにあまり興味なかったのは知ってたけど、突然辞めたのは不自然だろ。誰も知らねぇの?」


 再度、声の大きい男が問う。


 退部とボランティア。二つのキーワードが、二日前の水曜日に花月が電車内で吐露した悩みと、強い関連性があるとすぐに気づく。自分でもついていける話だと理解すると、俄然がぜん、耳をそばたてる気になった。


「いづらくなったんでしょ。ウチらに陰口しているのがばれて。男のアンタは知らないと思うけど、梨香ってすごく性格悪いよ。友達から聞いたけど、部活の女子の悪口すごい言ってたから。ウチらより、自分の方が何倍もかわいいとか。マジ、キモイ」


 さっきとは違う女が、梨香という人物を口早に罵った。


「えっ、マジ? 梨香のやつ猫被ってたのかよ? 全然気づかなかった」


 声の大きい男は、女の話をバカ正直に受け止めた。事の真偽より、話が盛り上がるか盛り上がらないかを重視する、軽薄そうな男だった。


 今の話が真実だとすれば、花月の友達、おそらく梨香という人物が部活を辞めた理由が説明できる。


 端的に言えば、人間関係の亀裂だ。梨香が部活のメンバーの愚痴をこぼしたところを、誰かが聞いて吹聴したのだろう。その愚痴は部員たちの耳朶じだに触れ、梨香の悪評が広がった。そして、いたたまれなくなった梨香は退部した。


 逆に、こうも考えられる。今の話が全くのでたらめであるかもしれないと。


 梨香を嫌う女たちがあることないことを周囲に吹き込み、部を追いやった。女たちが梨香の印象を操作している、と俺が考えられたのは、水曜日に花月の話を盗み聞きしていたからである。花月にとって梨香という人物は、誰かに相談をしてまで部に残って欲しい人間だからだ。あの時の花月の言葉に、偽りがあったとは考えにくい。


 話がややこしい。その上、根拠のない不確定な情報だけが入ってくる。これだから、人間関係は嫌なのだ。


 人によって言うことが千差万別で、絶対的な正解がない。自身の主張を強情に通そうとすれば自己中心だと疎まれる。だからといって、他者の主張を唯々諾々いいだくだくと受け入れていれば優柔不断で意思がないと蔑まれる。


 ……少し考えがれたな。


 周囲の物音が遠くなるほど、自分の世界に入り込み過ぎていた。小さくため息を吐き、視野を広げて、周囲の音を拾う。


 後ろの席に座る男女のグループに、再度、耳を傾けた。まだ、俺の知らない情報が聞き出せるかもしれないと思い。生憎あいにく、すでに話題が移り変わろうとしていた。リア充と呼ばれる人たちの話は、とにかくテンポが早い。聞き取るだけで精一杯だ。


「梨香のことは残念だったな」「まぁ、去年みたいに金銭トラブルにならなくてよかったじゃん」「あったな、そんなこと。誰だっけアイツ?」「人からお金借りてなかなか返さんかったヤツのこと?」「そうそう、名前はもう忘れた」「ウチも忘れた。全然見てないけど、あの賭博中毒者まだ大学いんの?」「さぁ、中退したんじゃね?」


 俺の知らない人物の話題になり関心が失せた。おそらく、今回の怨返しの呪いに関与している可能性は限りなく薄い。


 聞き込みなんてたいした努力はしていないが、少しずつ花月にまつわる人間関係の問題を知ることができた。


 あとは、俺がどう行動に移して、花月に恩を返せるかだ。

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