親たち(6)

「あら……」


 何か言おうとした彼女はしかし、息を吸ったことで動いた肩をそのまま下ろし、黙った。機先を制することができたように思う。


「ずいぶん偉そうな口をきくのね」


 亜紀さんの上品な笑顔が、表面に貼り付けただけのように映る。


「年の功という言葉を噛みしめています――私はこれまで、それが年配の人が無理やりに若い人を従えるために使う言葉だと思っていました。今は、その認識を改めています。私が何を言っても、あなたは変わらない」

「ええ。特にあなたとは、会って数回しか経っていないしね」


 私を子供として扱っていたような猫なで声が、おそらく素の声に変わった。鳥が高く鳴くようだけれど、一本芯の通った声。新堂君がちら、とこちらの様子をうかがう。怯えたように。


「ですので私も、干渉しません。水と油のようなものと分かり切っていますから。無理に溶け合って、最適解を見出すことに、意味があるとは思えませんので」


 自分の思いに近い言葉選びが、できているように思う。いまや彼女は、料理をする手を止めて、リビングのダイニングテーブルの向かいに立っている。


「子供には分からないと言って、終わらせようとしたんだけれど、気が変わったわ」


 亜紀さんの普段と違う雰囲気に、明らかに委縮した新堂君は、それでもこれまで何か言葉を探している風に見えた。しかし彼の気配が、ほとんどなくなる。この場には、私と亜紀さんしかいないような錯覚を受ける。彼を、どこかへやりたい。この場に居て動静を見守ろうとする勇気はすごいけれど、それでも彼にできることはないだろう。


「翔太は偶然できた子なの。本当は、産む気がなかった子なの」


 平然と言った。その言葉の重みなど、微塵も気になされていない。


「不倫したんですか、茂樹さんと」


 彼女はうなずいた。


「楽しかったわ……遊びのつもりで、やっていたのよ――私のおなかの中で、私の栄養を奪い取って勝手に育った。翔太にはそう言うたくましさがある。翔太には、良くも悪くも私は放任している。だから、翔太がいいことをしても褒めないし、悪いことをしても叱らないで育ててきた」

「なるほど……それで翔太君は、いい子に育ちましたね」

「知ったことではないわ」


 向かいのダイニングチェアに腰かけ、肘を机についてあごを触った。


「怜美は……怜美は手のかかる子だから、しっかり導いてあげなきゃ」

「どうしてきょうだいで、扱いを変えているのですか? もちろん単純な興味からお尋ねします」

「子供の性格に合わせて、教育方法を変えるのは当たり前じゃない? これで、怜美も翔太もうまく育っているもの、何も問題はないように思えるけど」

「それは……」


 そうだろう。その言葉にある意味納得がいっている自分が、なんだか悲しく思える。私はきょうだいの亜紀さんに対し味わっているみじめな気持ちを汲むなら、ここで反発すべきだ。初めにいった通り、それをすることは亜紀さんの人生に介入することになる。


「大体、怜美はあの女のことを気にしているようだけれど」


 きょうだいの母親は冷たい声で続ける。


「それを忘れるほうが、どれだけ彼女の生活にいいか……」


 その意見にも、あまり同意したくはなかった。ふと、彼女の存在意義はもちろん、そこではない。それを憧れにして――自分の糧にして、学園生活に昇華させていくことが、彼女の原動力なのだから。私は曖昧にうなずいて、先をうながした。


「やっぱりあなたたちに言うべきじゃないかもしれないけど、言うわ。当たり前だけど、怜美は手間をかけて育てているつもり。手間がかかる子だから」

「そういうのは」


 新堂君が抑えていた声がこらえきれなくなった風に言った。不意をつかれ、私は彼を見つめてしまう。怒りにわなわなと唇が震えていた。それを、私は彼の成長だとも思うし、表に出さないでいたであろう昔の彼の姿を思い出させ、それは懐かしいような気もした。


「あなたが好き勝手に生きて、正当化しているだけではないんですか。あなたの子供に対する接し方はおかしいと思います。そもそも不倫なんて許されることじゃないし、その辺の清算をきちんとしなければいけないんじゃないですか」

「あなたには言えるわ。子供には分からない」


 早口で言い放った。新堂君は冷や水を浴びたように一瞬目を見張る。亜紀さんは続けて、


「不倫については、もう決着がついている。当たり前でしょう。その辺りはきちんとしているから。そして子供のことなんて、他人には関係のないこと」

「でも……怜美先輩は嫌がってる……」

「私が彼女に何かしたかしら? しつけという度合いを超えて?」

「……」


 彼は何も言い返す気力がなさそうに、うなだれて、教科書の表紙をぼんやり眺める。いちど掌で頬を張ってから、


「……怜美先輩の、顔の傷跡はどうしたんですか」


 口をさしはさまない、と言った手前聞けなかったことだ。彼は怯えながらも、自分なりに彼女から情報を引きだし、自分の思うように動こうとしているのだろうか。正直、私は新堂君のことを見直した。彼のきょうだいを想う気持ちも、強い。


「私はやっていないわ」

「嘘だ」

「もし私がやったとして、それは、あなたに告白して、例えばあなたが警察に届けたときに、私が罪に問われなければならないこと?」

「……道徳の基準を法律の物差しで測ることは間違っていると思います」

「何と言われてもいい。なにせ君は子供。翔太が赤ちゃんだったころ、一日中泣きわめいていて、窓から投げ捨ててやろうと思った気持ちは分かる?」

「……」


 打ちのめされて、なすすべがないといった風に、新堂君は沈黙した。私にももう、彼女を問いただす気力はなかった。


「……今日は貴重なお話をありがとうございました」


 私がそう言うと、亜紀さんの表情が嘘のように取り繕ったものへと戻って、


「あら、お茶でも飲んでいかない?」


 とまで言ってのけた。私が辞退し、新堂君と二人で家を後にした。

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