親たち(5)
家についてすぐ、翔太君は公園で沢山撮った写真の確認をはじめた。
「勉強は?」
という声も聞こえていないかのように、カメラの画像フォルダに蓄えられた写真を見返していた。新堂君もやれやれ、と首を振った。作業に没頭してしまっているので、私は諦めてリビングを後にし、怜美先輩の部屋に行く。彼女は自室で、大学受験は余裕しゃくしゃくといった風にゲームで遊んでいた。
「澄香ちゃん? 入っていいよ」
中から声がしたのでドアを開ける。怜美先輩はアクションゲームに熱中していたので、こちらを向くことはなかった。窓から見える海、赤本の刺さった本棚――そのしおりには、当たり前だが、まだゾーヤさんの写真が使われているのだろう。
床に律儀に正座して、過激なアクションを繰り広げる彼女の隣に、私も座布団を敷く。横に座って彼女の美しい顔を覗く。両瞼の腫れは収まっている。けれど、左頬に引っかかれたような痕ができている。ゲームが一段落つくまで、私は彼女の顔を気にしたりしなかったりして過ごしていた。
「うふふ、私に恋しちゃってるみたい」
途中でゲームをやめて彼女が言った。
「違います」
「知ってる」
「知ってることを聞かないでください」
「人とかかわるって、知ってることを何度も確認し合うことじゃない? 本質的には」
「そうであったとしても、怜美先輩に恋はしていません」
怜美先輩は表情筋をふんだんに使って笑った。傷痕にはりついたかさぶたの端が少しはがれた。それで彼女に声をかけようとしたとき、玄関のドアが開く音がした。おそらく、亜紀さんが帰って来たのだろう。私は怜美先輩とふたりでリビングへ行った。
翔太君が必死にカメラを隠しているところだった。母親の手前、他人に高価なものを買ってもらったことで何か言われるかもしれない、そう考えたのだろうが、亜紀さんはほぼ気にしていなかった。慌てて教科書を開いていた翔太君は、怜美先輩をちらりと見た。そのとき一瞬、山本家の三人の間にピリッとした空気が流れたような気がした。
「いいものを買ってもらったのね」
先輩は言う。
「しっかり澄香ちゃんにお礼言った?」
「言ったよ」
ぶっきらぼうに言う翔太君の声に、一瞬だけ亜紀さんが反応したが、すぐ買い物袋の中身を冷蔵庫にしまいに台所へ消えていった。
「そろそろ、真面目に勉強しようね」
翔太君がどうとらえたかはわからないが、とにかく私のその声で、やっと勉強会らしくなった。怜美先輩はつまらさなそうに部屋に引き返して、ゲームの続きをやるらしい。
「よければ夕飯も食べていってね」
「お構いなく、明日も朝練がありますし」
亜紀さんの声に、新堂君がそう返した。彼は学校に再び通いだし、部活にも参加している。彼がプールという舞台に戻るまでに、かなりの労力がいったに違いない。そのきっかけが何なのか、聞くことも無粋なのでしないけれど、挫折を乗り越えた彼は、以前より絶対に強いはずだった。競技で、という意味ではない。
翔太君に数学の関数を教えながら、私はタイミングを見計らっていた。台所で鼻歌交じりに料理を作り始める亜紀さんの様子をちらちらと確認し、怜美先輩が再び、リビングに現れる時を待っていた。
今日は亜紀さんと話をすると決めていたわけでもない。怜美先輩に、以前約束をしていたことではあったが、今日するつもりはなかった。ただ、今ふと、このタイミングを逃すともったいないかもしれない、と思っただけだった。亜紀さんを、問いただすことはできない。考えを改めてもらおうなどとは思わない。それは私のできることではないから。ただ、話を聞きたいだけだ。
怜美先輩がなにかおやつを探しにやって来たところで、ちょうど翔太君の勉強がひと段落していたのもあり、私はためらいなく切り出す。
「亜紀さん、怜美先輩の頬の傷は何ですか?」
亜紀さんは淡々と、
「知らないわ、野良猫にでも引っかかれたんでしょう」
「そんな感じじゃありませんよね。明らかに、人間の爪ほどの太さがありますよね」
「……それについて、この場で話すことはできないわ」
「それなら、ほかの三人にはうちで勉強会をしてもらいますから」
亜紀さんは一つ、ため息をついて、
「わかったわ。勘違いがあるようだから、一度話をしなきゃと思っていたのよ。あなたにわかるかどうかは、わからないけど。ここで話しましょう」
怜美先輩の顔色を窺う。彼女は明らかに顔を青ざめさせている。彼女の口からいつも出ているであろう悪態が、ここで披露されるとなると、私を恨めしくも思うだろう。
「先輩、私のうちにいてもいいですよ」
「そんなことは、できないよ――外で時間をつぶしてくるね」
翔太君を連れて、彼女は家から出ていった。彼女たちがこの話を聞きたくない気持ちは分かる。私が亜紀さんを問いただそうというつもりもないのだが、亜紀さんの口から強い言葉が出てくるのは覚悟しなければならない。
「新堂君は、聞いている?」
「今集中できてて、ここから動きたくないから勉強してる」
そう言って、教科書を読んでいる。それがただのふりだとわかっている。彼も興味があるのだ、亜紀さんが怜美先輩を傷つけていることを翔太君越しに、痛いほど聞いているからだろう。
私は切り出した。
「まず言っておきたいのが、私はあなたの生活や教育の方針に口をさしはさむつもりは微塵もないということです。単純に興味があるだけです。話を聞く中で自分が不快な思いをするかもしれませんが、あなたに指図をしません」
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