第四部
親たち(1)
父親が帰って来て、嬉しそうに唯奈に挨拶をした。あの節はありがとう、と、会うたびに言っているであろう台詞を吐くと、唯奈は苦笑いした。
「私も澄香ちゃんに助けてもらったこと、いっぱいありますから」
にやにやと笑う父親。自分にも、こういう友人がいたらなあ。などと言っている。父親は近頃すっかり安定していた。当たり散らしたり、酒に逃げたりせず、最近はまっすぐ家に帰って、夜早く寝ている。今も夫婦で食卓を囲み、楽しそうに団らんしていた。
やはり田舎に来て、私たち家族は正解だったな、と、口には出さないが感じている。
「山本さんのところの子供は、どうだい」
父親が私だけを呼びよせて言った。
「今は、すごく落ち着いてるよ」
そう、今はそうだ。私が二人に、ゾーヤさんが現れたことを教えなければ、なにも変わらない。怜美先輩はどこにあるとも知らない影を追うことで青春の心を燃やし、翔太君は写真に熱中し続ける。私が見守りながらの時が続けば、自分は嬉しい。
次の日の朝に唯奈は帰らなかった。お別れが寂しいと言って、だらだらと私の部屋にいる時間を長引かせた。彼女は、観光案内をしようか、という私の誘いを断った。
「私はやっぱり、東京のほうが落ち着くかな」
私から目をそらしながら言う。この地に情が沸いてしまえば、なおのこと別れづらさは募るだろう。何も言わず、唯奈が私の部屋で漫画を読むのを眺めていた。私は彼女に断って勉強机に向かい、テスト勉強を始めた。
望海祭が終わると、すぐ二週間後に中間試験がある。生徒を楽しませておいて一気に奈落へ突き落とすかのような学校の方針に、不満を言う生徒たちもいるのだが、長年の伝統なので仕方がない。私は意識を数式に移していく――漫画を読んで嘆息したり、笑ったりする唯奈の挙動に、時折私は現実に引き戻される。そうして勉学と日常を行き来することが、心地よかった。相手が唯奈だから、安心できるのだ。お互いに介入しないけれど、お互いの存在を確かめあう心地よさ。
唯奈が帰ると言いだしたのは夕方だった。今度は東京に会いに行く、そう約束して、彼女を駅まで送っていった。唯奈はさっぱりした表情で帰り道を歩いていた。
「なんでも相談してね、いじめのこととか」
私がそう言ったが、彼女は笑って首を振る。
「もう大丈夫だよ。そんなの、長い人生から見ればあっという間に終わるし。それよりも絶対澄香とのつき合いのほうが長くなるもんね。そう考えたら、なんてことないよ」
強い人だと思った。彼女とは生涯の友でありたいと願った。
唯奈は人もまばらな駅の改札に入っていく。一度だけ振り向いてくれたので、意識せずとも笑顔になってしまう。
さて――。私は一週間後、同じように電車に揺られる自分を想像した。必ず、うまくいくはずだ。ゾーヤさんと話を付けて帰る。久しぶりに東京に行くのだから、ついでに何か買って帰ろうか。
当日、先に連絡だけしておいた。事務的な口調で、わかりました、とだけ返ってきたので、相手方の思いは分からなかった。電車に乗り、三時間ほどゆられた。これも唯奈から借りっぱなしだった、と思い出した漫画を読んで車内での時間をつぶした。
緊張していないわけではなかったが、がちがちに固まるほどでもない。もう二度と関わらないでください。私の意志として、そう告げればいいだけの話だから。
使ったことのない私鉄の路線に乗り替えて、最寄り駅に着く。そのマンションは駅からでも見えた。五分歩くと、もうオートロックのドアの前だ。私は一つだけ、大きく深呼吸した。
402号室のインターホンを押し、待った。
男性の声が聞こえた。要件を伝え終わったとき、
「お待ちください」
と、通話が切れないまま時間が過ぎた。これはもしかするとかなり危ないことをしているかも、という気になってきた。メモに書かれた電話番号はたしかにゾーヤさんのものだった。しかし住所は? 私は騙されて、インターホンに出たのは知らない男の声――。
鼓動がにわかに早くなった。
「ゾーヤがそちらに向かいます。外で話してきてください」
彼がそう言ってくれて、一安心する。よく考えれば、初対面の大人の家に上がったことなどなかった。
「お待たせしました。立ち話も失礼ですから、喫茶店でも」
ゾーヤさんが扉から出てくる。ブラウスとジーンズだけのラフな格好だが、似合っている。彼女の指さす方向に歩きだした。
彼女とは何も話さなかった。どこに喫茶店があるかも知らせず、やや勇み足で進んでいく。私は緊張で張り裂けそうな心拍が体中の血管に響くのを感じながら歩いた。
十分ほど歩いただろうか。洋風の、しかし年季の入った喫茶店に、私たちは入った。そこで注文をしたのち、ゾーヤさんがもらした。
「子供をそそのかすのって簡単なのね」
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