望海祭(6)

 唯奈に翔太君を任せて、不承不承彼女が出ていったところで、


「お友達に呼ばれていますが、いいのですか」

「大丈夫です。――とにかく、先輩には会わないでください。怜美先輩は今、あなたに会いたい一心で青春時代を過ごしています」

「それなら会わせて。彼女も望んでいるのなら」

「話を最後まで聞いてください。その目標が、空回りすることになります。そうして怜美先輩は必ず、もやもやと思い悩む日々を過ごすことになります。なぜなら彼女は、あなたにあった後どうしたいか、何も考えられていないから」


 そう言いながら、私はなぜか心の中にくすぶる、不完全燃焼の炎のような感情を意識した。自分はもしかすると、突然私たちの関係を侵犯しようとする存在を拒絶しているのかもしれない。私は二学期の始業式の日に感じた疎外感を思い出していた。いつの間にか、この町のコミュニティの一員になっていた自分に気付いた。


 いまの感情を名付けるなら、嫉妬だ。私は彼女よりも、怜美先輩に与える影響が少ないのだ。きっと足元にも及ばないくらい、少ないのだ。


「澄香さんには関係のないことです」


 再びそう言ったが、彼女はこちらを向き直っていた。


「ゾーヤさんにも、関係のないことではないですか。少なくとも、お互いに今は他人です」

「私は怜美の小さいころのことを知っています」


 やや間があって、ゾーヤさんが言った。


「私は今の彼女を知っていますよ」


 ゾーヤさんが首を振って、


「あなたはまだ若い。勘違いということもあるでしょう」

「ゾーヤさんは、怜美先輩に会って何をしたいんですか?」

「あなたには関係ありません」


 きりがないと思った。ゾーヤさんも私の焦れに気付いたらしく、


「それでは、失礼します――私から言いたいことは」


 やや怒気を含んだ口調で、話し始める。


「あなたは怜美のすべてを知ったような気分でいるのでしょうが、それはおこがましいことです。私にも、亜紀にも、誰にも彼女の本心は分からないのですから。超能力でもお持ちなら別ですが。――とにかく、『この子はこうである』と決めつけてかかるのは、あなたのエゴですよ」


 冷たい言葉の針が、私の心の動きを縛っていく。私の行動原理を否定されていく悲しさが、胸に毒薬のように満ちる。


「それでも、私は」

「エゴを貫き通しますか。それとも、分不相応な自分を恥じ入りますか」

「私は……わがままでした」


 ゾーヤさんのオーラ、照明の落とされた薄暗い体育館の雰囲気が、一緒になって私の肩にのしかかってくる。何もできなくなる。喉がつかえて言葉が出なかった。だから私は行こうとする彼女の服の袖をつかんで、


「時間を、時間をくれませんか。まだ今日は会わないでくれませんか」


 自分でもその姑息な言い分が情けないと思った。


「……正しいか、間違っているかは別として、あなたは身の周りの人に対し少しでも幸せになってほしい、そういう原理で行動しているようですね。その姿勢に敬意を示します。私も事前に知らせずここに来たことは反省していますし……分かりました」


 ゾーヤさんの青い目が、きらりと光った。そして腰に下げていたポーチから紙とペンを取り出し、何やら書いて私につきつけた。


「あなたが少しでも、彼女の役に立てていると考えるなら、来週末、ここに来てください。それは私の住所です――」


 そこに彼女の連絡先と、住所が書かれていた。東京都――見覚えがあるが、私は行ったことのないところだ。てっきりロシアから来たのだと思い、少し拍子抜けする思いだったが、


「私はここで、主人とともに二人で暮らしています」


 私はその発言に驚き、


「新しい夫ができたんですね」

「ええ、二年前にこちらに戻って、同じロシア人ということで意気投合しました。彼は私に良くしてくれます……」

「お子さんはいるんですか」


 彼女はその質問を、意図的に無視したように思えた。


「では、今回はあなたがここに来てくれると約束してくれるなら、いったん身を引くことにしましょう。来てくれない、もしくは来て私に何か会わないほうがいいという理由を提示し納得させることができなかったなら、私はもう一度怜美に会いにやってきます」

「分かりました……ゾーヤさん、校門まで送っていきます」

「もう、会わないと決めたのですが……抜け駆けが不安であるなら」


 私の頭の中で疑問がくすぶった。みるみるうちにそれは大きくなり、すぐにでも確かめたくなった。その存在を。私を圧倒し、私が介入する余地など一つもない、圧倒的な自然を。


「海は好きですか」


 彼女を送る道すがら、私はこの美しいロシア人女性にそう問いかけた。怜美先輩の家で見せてもらった写真を思い返していた。海をバックに、満面の笑顔を浮かべていた彼女の姿。


「私はモスクワの生まれで、小さいころは海を見ていなかったけれど」


 必死で無表情を装っているものの、ゾーヤさんの口角は上がっていた。


「日本の海は綺麗ですね。その景色は私たちを圧倒するというより、身近な存在であるように思えます」

「同感です。私は日本の海しか見たことがないですけど」


 校門についた。彼女は日帰りで電車に乗って帰るらしかった。旅のねぎらいの言葉をかけて、去った。そして、すぐにそこへと向かった。私が自然を、眺めるとあらゆる感情を包み込んでくれる自然を、よく見渡すことができる場所へと。


 私は駆け足に階段をのぼる。誤って踏み外しそうになる。気にしない。


 屋上の扉を開ける。一面が海に広がっていた。焦れたように間っている久世君も、恥ずかしそうにしながらいる翔太君も、横でにやにやしている唯奈も、すべてが気にならなかった。彼彼女らの思いを超越する圧倒的な海を前に、私たちに与えられた「感情」というものは、どれほどちっぽけなものだろう。私は、海になれない。

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