語り手の信用

 ミステリなどで偶に「信用のおけない語り手」という言い方が出てきます。これも考え方は個人差がかなりあるので、まぁ、私の主張では、という限定の話ですが。


 私は、かのアカデミー6部門受賞の「ラ・ラ・ランド」を酷評しましたが、これが、語り手の信用という物語作りの基礎を、しかも物語のコアである要素において、裏切った作りであったためにボロカスに言いました。


 たった一つの瑕疵で台無し、という代表作だと今でも思っております。


 今、他の方の講評など読むと、なるほどあのラストには意味があったのだなと理解するのですが、その仕掛けは「信用できない語り手」のせいでオジャンですから。

 私が問題とした箇所はただ一点、ヒロインが最終的には愛を裏切る女であったことが最後まで伏せられていたことです。ラブロマンスでそれは絶対に告知せんとアカンやろ、ということでボロカス評価でした。


 ちょっと匂わせておけば済んだ話なんです。あのヒロインが、視聴者が思うほどには一途ではないというその性質をちゃんと見せておいてくれたら、私だってラストの仕掛けに思いを馳せたでしょうし、評価も違ったと思います。彼女の中にはあの選択肢は、主人公と出会う前から、ずーっと存在するということを伏せてどうすんですか。ラストの仕掛けにモロに掛かってくるのに。


 これは、「語り部」という絶対的に信頼すべき相手に裏切られた、というダメージが物語のすべての価値をも低下させた、という現象です。これ、結構多いんです。


 なんで私が腹を立てたかと言えば、物語の語り部は「ラストまですべてを予めで知っている存在である」という性質を絶対に拭えない、そこを無視したからです。俯瞰の立場で見ている以上、それは絶対です。一人称と三人称で、これが外れるのは一人称だけです。


 一人称は、虚偽を語ったとしても仕方の無い語り部です。


 三人称は、虚偽を語ってはいけない語り部です、本来は。


 ミステリで信用できない語り部をフェアに使うというのは難しいと思います。なので通常は、視点者に置かないという手段が取られます。あの映画でも、ヒロイン視点での描写がなければ問題はなかったでしょう。ヒロインの視点に立った以上は、物語上で重要となる事柄についてはどこかで告知しなければなりません、これは作劇上のルールです。それを意図せずならミスですし、意図的になら悪意と取られても仕方ありません。悪意がある時に「信用できない語り部」という本来なら不名誉な評価をもらうわけです。


 物語のベースである語り部に信用がない場合、その物語はすべてを疑ってかからねばなりません。感動もへったくれも吹っ飛びかねない危険な存在なのです、本来は。


 ミステリでお馴染みの使い方は、本当にラ・ラ・ランドを逆手に取ったようなものがスタンダードだったりします。感動の人生劇場と見せかけて、イヤミスにひっくり返してみせたのは確か「イニシエーション・ラブ」でしたでしょうか。

 あれを知っていたら、このラ・ラ・ランドを人生訓とは捉えないと思います。


 あの構成が意図的であったのか、単なるミスであったのかさえ定かでないほど、疑惑に満ちてしまう、それが「信用できない語り部」の功罪であり、そういう意味でならば確かにあの映画は凄いと思います。色んな深読みが可能ですから。



 しかしながら、コイツが登場してしまえばミステリとしては成功でも、物語としては完全に敗北だと思いますよ?(だってソレ、ミステリじゃないんでしょ?)


(ミステリは前提が作り物でも許されるジャンルですが、他の、特に純文学なんかはこの前提を持ってしまった時点で失敗作の烙印だと思うんですがねぇ…)

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